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心(魂)はどこにあるか

本来の自分は次のようなものだとする。

・何事にも限定されず、無限の拡がりを持っている
・いつ生まれたか分からず、死ぬこともない

私たちはこの身体や心(物心)を自分自身だと思っている。

身体は物理的に限定されている。

心(物心)は不安や悩みで推し潰される(そこまで拡がらない)。

いつ生まれたか分かる。

身体は老いるし、病気になるし、死んで灰になる。

とすると、この心身が私である、という考え方が間違いだろうか。

良く言われるように、全てに固定的な実体はなく、従ってただの現象に過ぎす、問題など存在してないのだろうか。

そもそも、全てが現象とは、どのようなことを言っているのか。

この身体は物理的に存在している(実体がある)。

けれどもこれは私ではない。

物理的に存在しているモノは他にも沢山ある。

身体も含めて、物理的なモノは、ただのきっかけに過ぎない。

身体が他のモノと触れあうことで、識(クオリア)が生じる。

そうして生じた、在るという実感(クオリア)が全てであって、あらゆる現象はその実感の内にある。

私とは、この働きによって、縁起によって、生滅を繰り返している、その時々の実感に他ならない。

そしてその実感は、それとしてあるだけで、きっかけとなった物理的な対象(身体も含む)とは切断されている。

物心(思考)は、そうして生じた実感のうちの、限定された一部の機能に過ぎない。

薪は薪、灰は灰。

前後裁断している。

これらの現象は何処から生じ、何処に現れているだろうか。

物理的な空間だろうか。

精神的な世界だろうか。

全てが生じ、滅するところ。

そこに現れたところのモノ全て。

それを心(魂)と言っている。

心(魂)は、いま、ここに現れている。

心(魂)は鏡と同じく、無限に、あらゆるモノを映し出す。

物心(思考)は映し出された内容を切り取って、それを限定的にしている。

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