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第一則 趙州狗子(じょうしゅうくす)

一 趙州の狗子(くす)

趙州和尚、因(ちな)みに僧、問ふ。

「狗子に還(かえ)りて、佛性有りや、也(ま)た無しや。」と。

趙州云く、「無。」と。



ある僧が趙州和尚に向かって、

「狗(犬)にも仏性がありますか」

と問うた。

趙州和尚は、――

「無。」

と答えられた。

意訳

尋ねた僧は犬にも仏性があると(理解の上で)知っている。

一切衆生悉有(しつう)仏性だから。

全ての生物には仏性が「ある」とされている。

更に、「有無を超えている」であろうことも、聞いて知っている。

分別の対象を超えた実物を、どの様にお示しになるか、どの様にお答えになるか。

本当に知りたいのと、ある意味楽しんでいるのと、期待や興味心もあっての問いかも知れない(分かんない)。

少なくとも、「有」という答え、若しくは模範解答は期待しているかも。

対して答えは「無」。

有無を超えているのだから「無」でも、まぁ良いと言えないこともない・・(「群盲象を評す」的に)。

因みに「無」は、有無の「ある」や「ない」ではなく、「無」という只の「事実」を指し示されているだけ。

少なくとも、この僧にとって(答えは)想定外であったのかも。

とりあえず回答(事実)はお示しになられた。

有無を超えた「無」の一声。

その事実に触れ、悟ることもあれば、そうでないこともある(機縁次第)。

指一本突き立てられて、悟ることもある。

どんな「事実」がきっかけになるか、その時にならないと分からない。

きっかけの対象が何になるかも人それぞれ(眼耳鼻舌身意)。

いつもそれ(事実)に触れ続けていれば、何かが(向こうから)ぶつかった時、本当にささいなきっかけかも知れないけれど。

万法に証せらるる。

少しの火を近づけるだけで、(可燃性のモノに引火して)大きな灯になるように。

無門は言う。

禅に参じようと思うなら、何としても禅を伝えた祖師たちが設けた関門を透過しなければなるまい。

(道に)門と言うものはないのだけれど、人は分別を行うことで(自ら)隔たり(門)を生じさせる。

十牛図の第一尋牛(じんぎゅう)で本来見失ってはいない牛を探しはじめる様なもの。

存在しない門を透過しなければならないし、見失ってはいない牛を探さなければならない。

誰でも物心ついたあと、ふとした瞬間、それ(疑問)が起こる。

素晴らしい悟りは一度徹底的に意識を無くすることが必要である。祖師の関門も透らず、意識も絶滅できないようなのは、すべて草木に憑りつく精霊のようなものだ。

心路を窮(きわ)めて絶せんことを要す(原文)。

徹底的に意識(自我)を無くすことが必要であって、関門も透らず、意識も絶せず、頭だけの理解に留まってはいけない。

「ない」ものを「ある」と見誤り、ありもしないモノで自らが自らを苦しめるだけ(自我)。

化け物の正体見たり枯れ尾花。

さて、それでは祖師の関門というものは一体どのようなものであるか。ここに提示された一箇の「無」の字こそ、まさに宗門に於いて最も大切な関門の一つにほかならない。そこでズバリこれを禅宗無門関と名付けるのである。

では、関門とは何かと言うと、「無」の一文字であるよ、と言っている。

(人によってはこれが「有」であったりするもんだから、禅は矛盾している様に思えてしまう・・。)
※問ふ「自我は有りますか?」、伝く「有。」でもいいかも。

まぁ、シンプルだけど、確信に迫った、議団の起こりやすい「関」でもあると思う。

だから「ズバリ」か。

この関門をくぐり抜けることができたならば、趙州和尚にお目にかかれるばかりでなく、同時に歴代の祖師たちとも手をつないでいくことができ、祖師たちと眉毛どうし結び合わせて、祖師と同じ眼で見たり聞いたりすることができるのだ。なんと痛快なことではないか。

「無」の一文字さえ分かれば、趙州和尚のことが分かるだけでなく、歴代祖師たちのことも同じく分かりますよ、と。

一つの「関」が通れば他の「関」も透る的な。

全ての道はローマに通ず。

どうしてこのような関門を透過しないでおれようか。三百六十の骨節と八万四千の毛穴を総動員して、からだ全体を疑いの塊にして、この無の字に参ぜよ。

透関を要する底あること莫(な)しや。

(こんな素晴らしい関門を)透らずにいられますか、透りたいですよね(逆説)。

どうやって透過するかと言うと、「からだ全体を疑いの塊にして(議団)、この無の字に参ぜよ」。

意(思考)を用いるのではなく、からだ全体を放り出して、差し出して、ただ只管にあるがままの事実に参ずる。

意(思考)を用いず、(六根)全てを開放し、放っておく(事実に参ずる)。

サンドバックの様に、この心身を放り出していれば、その内事実の方からこちらにやってくる(きっかけ)。

右の頬をぶたれたら、左の頬を出す。

昼も夜も間断なくこの問題を引っ提げてなければならない。

釣り糸を垂らしても直ぐに魚が釣れない様に、そうは言っても、そうそう事実の方が、ドンピシャで、小さな的(自分)にぶち当たってくれる確率は高くない。

昼も夜も間断なく引っ提げておけよと(確率は上がるかも)。

だから昼夜も問わず。

公案以外にも、ただ只管坐るとか。

加速器で粒子同士をぶつける様なモノかも。

しかも、決して虚無だとか有無だとかいうようなことと理解してはならない。あたかも一箇の真っ赤に燃える鉄の塊を呑んだようなもので、吐き出そうとしても吐き出せず、そのうちに今までの悪知悪覚が洗い落とされて、時間をかけていくうちに、だんだんと純熟し、自然と自分と世界の区別がなくなって一つになり、唖の人が夢をみたようなもので、ただ自分ひとりで噛みしめるよりほかはない。

頭で理解するのではなく、(自らが)一つの大きな議団となって、公案と一つになって、或いは只管打坐して、事実に徹する。

鉄の塊云々は、事実と離れたくても離れられない位に一つに成りきるということ。

ひとたびそういう状態が騫然(まくねん)として打ち破られると、驚天動地のハタラキが現れ、まるで関羽の大刀を奪い取ったようなもので、仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺すという勢い。この生死の世界の真っ只中で大自在を得、迷いと苦しみの中で遊戯三昧の毎日ということになるのだ。

ひとたび事実に触れることが出来れば、どうなるか(の例え)。

さて諸君はどのようにしてこの無の字を引っ提げるか。ともあれ持てる力を総動員して、この無の字と取り組んでみよ。もし絶え間なく続けるならば、あるとき、小さな種火を近づけただけで仏法のともしびが一時にパッともえあがることだろう。

機縁があれば、パッと行くと。

頌って言う。

狗に仏性あるかどうかと、丸出しされた仏陀の命令。有無の話としたとたん、忽ち命を奪われる。

分別したらいかんと。

(また追記します)

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