「放っておく」と「信仰」
思いが起きても「放っておく」と言う。
「放っておこう」という思いを「放っておく」と、何かをしていることになるから「放っておけてない」ことになる。
「放っておこう」という思いが生じても、そのままにしておくことが出来れば良いのだけれど。
掴んでしまう(放っておけない)のは、そこに「目的」や「意味」を見てしまうから。
では、放っておけてるとはどういうことか。
「放っておく必要すらない」と気付いているということ。
思いが生じても「問題ない」という、気付きがまずはあるかどうか。
(そう思えないのが思考の性質で、ブログでいろいろ書いてきたけど)
ある意味、全てを受容しているということ。
このままで「問題ない」という実感があるかどうか。
それがないと、ここではない「他の場所」や、何かしらの「結果」を求めてしまう。
こんなことをしていて、意味があるのか、効果があるのか、と思ってしまうのは(行為になってしまうのは)、それ(気付き、受容)がないということ。
それがないと、あらゆる行為には目的が生じる。
そこをクリア出来てはじめて、本当の意味での「放っておく」ことの効果が見込める。
今の事実が(修行等の)目的と、実は既に、直接結びついていたことまずは気付く(でもまだゴールでなくて)。
何も求めずに、ただ「そのまま在る」という事実のままいられるか。
(何も求めず)ただ坐るとか。
「そのまま在る」ことが出来るようになれば、翻せば、それはただの日常と何ら変わることはない。
つまり、いつも同じということ。
そこまでいけばただの日常も、そのまま在ることと変わらない。
何も問題なければ、気付きがあれば、受容出来ていれば、思考は栄養不足でどんどん弱ってくる。
何か問題を解決しよう、もっと良い状態になろう、という衝動が思考の養分だから。
今はいろんな情報(養分)に溢れているから、思考は飢えることなく、どんどん肥大化していく。
昔は情報も少なかったし、生きていくだけで精一杯だった。
信仰さえあれば救われる、と言われれば、藁にも縋る気持ちで、そうせざるを得なかった。
他に選択肢もなかった。
結果、それ(信仰)があれば問題ないとも(無条件に)思えた。
良い意味でも悪い意味でも(信仰が在れば他は)放っておけた。
信仰の意味や効果は、そういうところにもあると思う。
昔は、信仰(放っておけるバイアス)は強かったかも知れないけど、今ほどの情報は得難かった。
どっちが良いとか悪いとかないけど。
どっちもどっちか。
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