高校生日記①嫌いな人と違和感

 所詮、中学卒業したばかりの高校生予備軍のの日記である。それも初めてに相応しいような内容ではないとも思う。それでも、温かい目で読んでくださると助かります。読む人がいるかは別問題。

遊びに行った時の話

 何を真面目にしゃべればいいのか。自分のやったことの少なさに驚きながら悲しくなる。学校がないと話す内容もなくなる。
 では、今日、久しぶりに遊びに行った時の話をしよう。

 その1:一人がずっとスマホをいじっていた。そして、そのあと他の友達に「充電ないんだけど、家行っていい?」「スマブラしたい」と。僕からしたら「ええ?(呆れ)」である。友達と遊んでいるのにスマホいじって・・・。で、充電したい?ゲームしたい? つまらなくないのだろうか。何を生きがいにしているのか。スマホとゲームか。別にそれはいいが、じゃあ、家でやれよ。来るなよと思う。
 ちょっと話はずれるが、僕の中学のクラスメートの中に「学校だるっ」とずっと言ってる奴がいた。「休めばいいじゃん」というと「お父さんに怒られるから無理。」と。親にいう勇気ないなら口にするなよと思う。まじで。「知らねえよ、カス」と毒を吐きたい気持ちを抑え(褒めて)、「ふーん」みたいにうまく流すことができた。
 別に休むのはいいと思う。学校行きたくないなら休めばいい。仮病なんか使わず、親に「学校行きたくない」とでもいえばいい。それを言う勇気がないやつに学校休む権利なんてない。逆に「休みたい」といったやつは別に休んでいいと思う。
 なんとなく、この二つの話はリンクしていると思った。学校に来て「来たくない」。友達と遊んで、スマホをいじるだけ。「帰りたい」。それがおもしろいと思っているのか、楽しいのか。思いっきりの「否定」をしているのである。絶対おもしろいことが他にもたくさんあるぞ、と言いたい。俺もスマホは使うが、他におもしろいことがあるときはそっちを優先する。当たり前なことだと思うが、それが出来てない同学年がいる。そのことに悲しくなる。僕だけかな。

 その2:ちっちゃい子供がやってきた。言葉もあまりうまくないぐらいのかわいい子だ。一緒で遊んだのだが、「早く帰ろよ」とかいう奴も。なんて冷たいのだろう。
 いや、僕もあまり子供と関わるのは得意ではない。それもちっちゃい子は特に。どんな風に関わればいいのか、どのくらいだったら遊べるのか。ほんと、難しい。あと、なんか、自分の本性が見破られそう。自分も一人っ子で下の子もいない。だから、子供と関わるのが得意ではない。でも、かわいいのでよく遊ぶ。
 なのに、そんな心ないこと言っちゃうなんて。お前が子供作ったら、お前の子も多分そうしてもらうだろ!!とか思うが、そんなこと言っても「子供作んないしー」とか言われそうだから口には出さなかった。
 実際、そんなことされずにいままで生きて来たのだろうか。誰だって知らない兄ちゃんとか姉ちゃんとかと遊んでもらったことはあるのじゃないか?違うのかな?僕はいろいろな兄ちゃん姉ちゃんに遊んでもらった、助けてもらった。だから、ちっちゃい子をかわいがってしまう。でも、冷たいことをいう人もいるのか~。残念としか言いよう無いよね。

 つまり、やっぱり、つまらない人っているんだなってこと。いや、中学生だったら当たり前か。多分、自分をつまらないっていっている人はいるんだろうな。でも、あくまで中学生だから。高校生になったら・・・。不安やな。
 大人でもたくさんいる。何をと具体的に挙げるわけではないが、やっぱりたくさんいる。おもしろい人になるためには、自分を、その場を、相手を第三者目線で見ることが必要だと思う。あくまで個人の考えだから、過信しないでほしいが、客観性は本当に大切だ。何事においても。
 この文章を客観的に見ると、これのせいで嫌われそうだな。でも、それだと、すべての人に愛されるっていう目標が達成できない。それはいやだ。
 自分勝手でもみんなに好かれたいなーーー。

令和3年3月某日

現在

 嫌いな人を「嫌い」とちゃんと思えていた時期である。エネルギーがある。今でも、人と遊んでいる時にスマホばっか触るやつは嫌いだし、完全な否定をするやつはダメだと思う。この一文だけ見ると矛盾だが。
 しかし、今ではそのイライラを感じないように自分の中に理由づけをするようになってしまった。それは「親が悪い」である。実際、本文中、「親どうなん?それ」と直接的に思うことがあったが、今では直接関係なくても、嫌いな人間に会うと「こいつがこうなったのは親のせいや」とテキトーに片付けてしまう。
 それが根本といえばそうなのかもしれないが、それでは何も面白くないなと思ってしまった。

 多様性という言葉にも通じる部分があると思う。価値観が僕とガッチリあう人なんてこの世にいないってわかっているが、価値観の違いを多様性とか親のせいとかでサラッと片付けたら面白みがないのかも。
 かといってその「多様」な価値観の裏側にズカズカ入っていくなんて失礼極まりない。僕もそれをやられたらすごい嫌である。それもズカズカ入ってくる奴ほど僕を含め他人のことをわかった気になっている。ほんとは分かってないのに。
 話を戻す。
 だから、親ガチャという言葉にも違和感を持つが、「親のせい」と思っている以上、何も言い返せない。「多様性」は大事だが、なんだかどこかでつまんねえとも思っているけど、今の最新の道徳上、それが「正しい」とされているから何もいえない。
 だからこそ難しい。
 絶対に「こいつ」が「こうなる」には理由があると思っている。それが結局「親のせい」でも全然構わない。 
 でも、それを踏み込む社会ではない。多様性という言葉がある限り。

 じゃあ、どうすればいいのか。わからない。

 最後に。僕は多様性を否定するつもりは一切ないです。ただ、多様性になんらかの違和感を感じていることは確かです。

 あと、最近、僕はやりたいことがあっても、暇な時間をはスマホに費やしてしまっている。当時の僕に嫌われるのだろうか。過去の自分に嫌われたくないなー。

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