高校生日記⑦わからないを楽しみたい?うん。

 感覚の違いを否定するのではなく、その違いを楽しむことができる大人になりたい。こんなことを言っている時点で人の上に立つ玉じゃないけどさ。
 でも、そんなことができるようになるには自分を確立しておかないと違いもわかんないよね。まあ、それは一旦置いといて。

まったくもってわからない

 冬休みとなりました。もうクリスマスという感じで、しかしながら未だ彼女は作れず、結局家族とクリスマスを過ごすことになりそうですが、なんとも思いません。嘘です。スラムダンクの映画を一緒に見に行く彼女が欲しいのです。
 毎年毎年私は違うところで肌荒れを起こすようなのです。数年前は手の甲を血が出るまでかきむしり、去年は夏シーズンではあったが膝の裏に汗疹がえげつないことになり、そして今年は夏シーズンは乗り越えたものの、冬で指先の乾燥というギター弾くにしてもハンドボールするにしてもこうやって文章書くにしてもやりにくくてしょうがない。まあ、原因はハンドボールするときに使う松ヤニであることは確かなのですが、教科書めくるのにも精一杯。これなら夏のほうが好きだ。
 このあとは検索ちゃんでオードリーが年一のテレビでの漫才をしてくれます。死ぬほど楽しみです。

 さて、今日は何について書きましょうか。
 関係ないけど、家のトイレットペーパー2つホルダーついてると、どっちのやつから使っていいのかわからなくて、困るよね。で、片方だけ減ってるんだけど、もう片方はまだ1度も使われてない、あの”プッツン”の状態だから使うのをためらってしまう。
 うわ、そんな話はどうでもいいのだ。
 さて、何について書きましょうか。
 ものを書くというのは私にとっては単純なもので、ただ「終わるまで書き続ければいい」というものだと思っている。これは言葉というものは生き物であるということを考えてるからである。どれだけ構想を練ったとしてもどこに行き着くかわからない。
 だから、私は今から全く構想もなくものを書こうと思います。つまり、ネタが思いつかないのだ。いや、いろいろあるのはあるのだが、なんか書く気になれないんだな。

 興味のある人達がいる。

 怖いイメージがあるのでそんなに関わりたいとは思わないが、興味があるのは暴走族(?)の方々だ。勘違いしないでほしいのは別に僕は夜エンジンを吹かしながらバイクに乗りたくもないし、そんな仲間も無理して作りたくないし、ましてやバイクに全くと言っていいほど興味がない。僕が興味があるのは「なぜ暴走族に入ろうと思ったのか」ということである。僕はまったくもって理解ができないのだ。「なぜ寒い夜をバイクで走るのか」「なぜその仲間と走るのか」「なぜバイクなのか」「そもそもかっこいいと思ってるのか」とか。僕からしたら本当に理解ができないのだ。傍から見たら全く意味のないことの積み重ねだし、夜ブンブン言われてうるさいなとも思うこともたまにある(正直しょっちゅう走ってるので茶飯事的ではある)。
 でも、彼ら彼女らにはなにかしら暴走族に加入している理由があると思うのだ。自分が想像できる範囲では「社会に対する不満をここで晴らしたい」「ここにしか居場所がない」「深夜に悪いことをするというスリルを楽しみたい」「騒ぎたい」「ただ単にバイクが好き」「集団行動で無敵感を味わいたい」「なんとなく」とか。
 しかし、私からするとどの理由も弱い。それらの目的を達成するか、暴走族に入るか、という選択肢を天秤にかけてどちらが重いかというのを考えるのだろうけど、私はもう天秤にかけるほどでもないのだ。なのに未だにブンブン深夜の国道を走り回るバイク集団がいる。僕からすると不思議なのだ。価値観が多分あまりにも遠いんだと思う。

 占い師の方や占いを信じる人も興味がある。僕はそういう観念的なものを全く何も信じていない。信じているのは一部の人の言葉だけだ。あとは感情。しかし、当たり前だけど占いを信じる人は、占いを信じる。いろいろ疑問が生まれる。「なぜ占いが好きなのか」「なぜ占いを信じようと思うのか」「ラッキーアイテムとかラッキーカラーなんかは信じるのか」とか。占い師も気になる。「なにがみえるのか」「水晶体はどこで仕入れるのか」「いくらぐらいなのか」「値段によって見え方違うのか」「なぜその職業にしたのか」ほんとに理解ができないのだ。
 といいながらも私もおみくじはひくし、一時期はEテレの「0655」という番組のタナくじという爆笑問題の田中さんのくじをやってた時期はあった。たまたまつけためざましテレビとかでやってる星座占い、CMまたいでも見てしまう時がある。しかし、学校に行けば忘れてしまう。そういうことなのだろうか。「一喜一憂を増やす」という目的もあるのか?
 占い師ももしかしたら音楽家と似ているのかもしれない。どちらも他の人から見えるものを扱わない。しかし、彼らは見えるのかもしれない(それは視覚的なものかもだし、観念的なものなのかもしれない)。 
 宗教はどうなんだろう。カトリックやイスラムの人々は生まれてから当たり前のようにいるというから、いくら観念的とは言えどもそれとはまた違う目的だろう。というか、目的なんてないのかもしれない。それを僕は理解できるのだろうか。彼らの背景の色を少しでも汲み取ることはできるのだろうか。どこから価値観が違うんだろうな。

 正直、きりがない。まったくもって「わからない」人があまりにも多すぎる。最近流行りのYouTuberが好きな人、お昼のワイドショーを見る人、自殺テロをする人、高い金払って偏差値の低いな私立高校行く人、海外に行きたくないという人、ずっと地元住みな人、10時に寝る人。などなど。
 ただ、これからもちょくちょくこういう人、俺わかんないっていうのを書いていきたいかな。だってさ、
 
 興味があるから。価値観があまりにも遠すぎる人間を掘り下げてみたいのだ。なにから違うのか。バックグラウンドはもちろん、見てきた感じてきたもの。聞いてる音楽はなんだろうか。
 逆に言うと、自分と全く違う人間ってそういないと思う。なにか似てるところというか、なにか共通点を感じてしまうというか。喋ってもないのに価値観へのギャップを感じている人たちと話したとき、どんな共通点が自分とあるのか、見つけてみたい。それが今まで自分の新しい引き出しになっていたところがあるんじゃないかと短い人生振り返って思う(まだ死なねえよ)。
 でも、更にいうと自分と全く同じ人間もこの世にはいない。

 言い方は難しいが、異文化はすぐそこにある。異文化理解という人間のマニフェストがココ最近掲げられているように感じるが、異文化を理解するにはいかに興味を持つかが大事なんだろうな。
 人はそれぞれ文化を持っている。だから、何かしらに因縁をつけてひとくくりにするのは考え方が甘いのかなと思う。

 重ねてお伝えするが、私は今挙げた具体的な人たちを一切存在を否定はしていない。ただただ「わからない」のだ。それも、非常に興味がある。多様性が叫ばれる中、そういう人が増えていくばかり。それをどう捉えるものか。私はおもしろって思うね。「わからない」人って超面白いと思うんだよね。
 でも、「わからない」を自分のテリトリーに入れないようにする人もいる。別にいいけど、それだと新たに何も始まらない。それでいいならいいけど。そういう安定のほうがいいという人も山ほどいると思うからほんとうに別にいいんだけど、自分から見るとずっと変わらない景色を見続けてるように見えてしまう。

 別に、まったくもって「わからない」ことはステータスでもなんでもないし、僕の理解力がないわけでも相手がおかしいわけでもない。だから、「わからない」であふれると思うんだ。しかし、いかにその「わからない」に立ち向かえるか。
 僕は立ち向かっていくぜえ。というか、それをおもしろがれる人になりたい。

 2022年12月某日

現在

 「わからない」と表立って言えるということは、馬鹿にしている感は否めない。正確には馬鹿にしているというより舐めているというべきか。または、下に見ているのだろう。人間として。
 人は人を馬鹿にして生きていく。誰かのことを蔑んで、それでなんとか自尊心を保って生きていく。「人は」とか拡大解釈して書いてあるが、実際は「私は」と書くべきなのだろう。別に人のことなんか気にせずに自分の目の前にある絶対を信じて(いわゆる自信ってやつ)、突き進んでいくんだろうな。
 いやー、人のことを馬鹿にしちゃいけないって頭の中ではよくわかっているんだけどさ、絶対な自信がどうももてない人間からすると、それに縋ってしまうというか、、、。言い訳だよな。わかってんだけどさ。でも、いや。

 それでも、俺は、高二の俺は、「わからない」をそのままにすることが一番よくないってわかってるからこんな文章を書いたんだろうな。だって、「わかんない」って拒絶だと思うし、「わかんねえし」っていう言い訳になっちゃう。「わかんねえ」で距離をとって、それを馬鹿にする、そんな食わず嫌いになりたくないなら、その「わかんねえ」を楽しむしか脱出方法がなかった。
 というか、その頃の僕には「わかんねえ」しかなかったんだ。世の中のことが理解できない、逆に自分のことは理解されない、そんな苦しい時期だったんだろう。

 高二の後半、僕は学校に行くのがとても辛くなった。
 三日三晩、何も食べれなくなった。空腹を感じないのだ。疲れもない。そんなこともあった。
 深夜に薄着で飛び出して公園に向かった。大声でスティービーワンダーを歌いながら踊るという奇行をした。深夜の公演で。あの橋の上を歩いていた女性まで届いていたのだろうか。そのせいで、風邪をひくことに成功したり。
 朝あまりにも気持ち的に学校に行くのがしんどくて、でも「行きたくない」とは言えなくて、家の風呂場で閉じこもっていたら、父親が怒鳴り込んできたこともあった。泣いた。めっちゃ泣いた。高二なのに。
 高二なのに。
 高二だから?

 その頃の僕には「わかんねえ」しかなかったんだ。世の中のことが理解できない、逆に自分のことは理解されない。
 自意識過剰の被害者意識の塊。脳では理解してた。

 だから、まずは「わからない」を理解するという解を見つけたんだ。人なんかおんなじじゃないんだから、どこまでいっても。100%おんなじ奴が目の前にいたら楽しいのか?刺激があるのか? 人間同士なら、必ず齟齬があるはずで、それを受け入れるところから始まらないと、僕は高二の骸を抜け出せないって感じてた。
 まあ、それが最適かどうかは知らないけどさ。

 高二の秋がそんな苦しい時期で、これを書いたのはクリスマス。1月からは次第に受験が始まって、目の前には集中しなければならないことが次々にやってくる状況に。
 次第に「わからない」なんてこと、忘れていった。
 今、受験が終わって、大学生になって、どうだろう。

 わかんねえなあ。

 なんの話だ?これ



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?