「普通」が怖い、いや怖いと言うか、気持ちと言うか

 この前の「青春とは?」の続きのつもりで書いたんですが、着地点は想像もつかないところになりましたね。まあ、それを楽しみたかったってのがあるんですが。

「普通」に違和感

 「普通」って何?という疑問を抱いてから何かそこ知らぬ沼に入り込んでしまったような気がする。
 「普通に考えて」「普通にすごい」というフレーズが最近の一つの流行語になっているが、果たしてその「普通」とは一体なんなのか。多分その「普通」の中身を聞くと「単純な形容詞のつもりで」という返答になると思う。だから、「『普通』じゃなかったらすごくないの?」と聞いても「すごいことには変わりない」と答えるはず。
 しかし、「普通」が「ふつーに」形容詞になっているという現状が恐ろしいと言えば正解だろうか。
 それがどうやら合っているようで違っているようなのだ。

 まず、第一に「人間は他の人間と100%で共感できることはない」という私の中の大前提を伝えておきたい。例えば、食の好みが同じでも恋愛観が同じなんてことは滅多にない。そもそも、恋愛観が被るなんてことはほぼない。自分にも彼女がいるが、彼女は友達の恋愛を手助けして恋のキューピットになりたがるが、俺はそんなのほっとけばいいと思ってる。
 要は「十人十色」なんてのが大前提も大前提だと言えるのだ。それ以上もそれ以下でもない。百人百色だし、一億人一億色である。白は200色あるとアンミカさんは言うが、白が200色だけだと正直全人口を補うためには全然足りない。
 これがようやく多様性という言葉で広がってきた。その是非は知ったこっちゃない。それぞれ「生きやすい方」を主張すればいい。それが多様性であるから。

 なんか整然としすぎなんだよな、文章が。別に論理あるけど、その道筋を丁寧に追えなんて言われても、そんなしょうもねえ文章書きたくないんだよな。それが、どうやら、この文章もそんなしょうもねえ文章になっている気がする。

多様性と「絶対」

 現代社会、着地点はない。多様性という言葉が生まれて、生きにくいとかほざいている奴がいて。配慮が必要になりすぎてつまんねえとか言ってるだろ、アホが。テレビで女性アイドルの乳首が流れていたのが古き良き時代だなあとか。

  多様性という言葉が広まったことによる世の中の大きな変化としては、見る人々全てにとっての「絶対」が消え去っている。
 歴史を遡る。鎌倉・室町・江戸時代では将軍様という絶対的存在がいた。それ以前や以後、奈良・平安時代や明治時代は天皇という絶対的存在が、またはその存在を盾として利用しての政治が行われていた。現代を見てみる。政治は民主主義という名で全ての人々が主権者としての権利を持っている。天皇は有名無実化し、投票率というわかりやすい数字で政治そのものの求心力が落ちてきている。その理由はわからないが、私の意見としてはやることがあまりにも多すぎるということではないだろうか。一人暮らしをしてわかった。朝起きて、飯を作って、学校に行って、帰ってきて、飯を食べたら、もう寝る時間である。政治を考える時間をどこに取れと言うのか。生活していくことと投票することを天秤にかけた時、どちらに傾くと思う?もちろん、政治の重大性を理解している人はなんとか生活を工夫して政治を考える時間を作るはずだが、高校で政治を学ばなかった人にとってみたら、どうだろう。若者の投票率が低いことをよくないという風潮があるが、慣れない・余裕のない一人暮らしの中でどうすればいいものか。「最近の若者は・・・」なんて言う人がうざい、のはなぜ?
 話を戻す。
 歴史を遡る。古代アテネから男性が民政に参加して、女性や子供には参政権は一ミリもなかった。それがだいぶ長いこと続いた。男性が絶対的力を持ち、女性はそれに絶対的服従を求められてきた。さっきの女性の乳首がテレビに映るのもそれである。別に乳首がテレビに映ることを否定しているわけじゃない。「乳首がテレビに映る」という事実が男女の関係性を指し示すものになっているというだけである。それが変わるのはやっと最近のことである。現代、女性の参政権はもちろん、就労権も人権も何もかも男子と平等にしようという考えが広がっている。なんなら、性的マイノリティーにも平等をと考えられている。
 現代社会、着地点、つまりは集約点がない。何が正しいのかを絶対的権力に従うという形で取れなくなっている。ずっとふわふわ飛んでる気分である。

 時代の中心、「絶対」が消え去る。「普通」の基準がなくなる。それだけだ。
 これだけの長い文章はこんな一行のつまらない文章で完結する。

絶対の普通とか、平等とか。でも、気持ちとか

 「天下人は人に教科書を押し付けられる人」と言うのは若林さんのあちこちオードリーでの名言である。僕の中で教科書は絶対なのだ。変態の思想は受け入れられないにしても、その絶対を押し付けられるほどの自信、勇気があるものだけが人の上に立てる。天下を取る。
 わかっていない人が多いと思うから言っておくが、「普通」を主張する場合、そいつはどこかしらに基準を感じている。それは思想に間違いない。思想と感じてないにしても、その人の生きてきた環境・歴史がその基準には影響してくるはずだ。何が「普通」で、何が「普通じゃない」のか。

 僕が「普通にすごい」とか「普通に考えて」という表現に恐ろしさを感じる理由は「自分のことを天下人だと思ってしまっている」と感じるからである。また、それを自覚せずに「普通」という言葉を使ってしまっていることが危険だと思うのだ。
 別に思想を語る奴が危ないなってことは言ってない。読んでたらわかると思うが、私だってそれなりの思想を持っている。それの何が悪いと思うが、その思想は出しどころがあるとも思う。四季は巡り、色とりどりの人間たちの中で、いつ何時でも思想を吐き出すなんて危ないだろ。
 配慮がいる。どこまで行っても人間と人間が接するなら配慮が必須だよ。なんか必要な配慮が増えたとかいう人がいるって言ったけど、そういう人って要は今までの配慮量が少なかたんだよ。

 平等ってその配慮の量が同じになること。
 人の上に立つというのはその配慮の量を一部誰かに押し付けること。

 自分だけ配慮してるなんて考えてたらバカである。かといって「人に迷惑をかけるな」なんて言いたくもない。
 配慮の一部を人に押し付けるんだから、その押し付ける時のタイミングだけでも配慮してみたらどうよ。押し付けるなら、押し付け返される覚悟がないとダメだよ。それを貸し借りするんだよ。

 父親に言われたことがある。「人に迷惑をかけずに生きていくことはできない」。俺はこれを正しいって思ってる。
 このことを友達に話したときにこんなことを言われた。「俺は両親から人に迷惑をかけないように生きていきなさい」って言われてきた。これも正しいって思ってる。
 単純に言えば大切なのはバランスだよってこと。つまんないけどさ。色々詰めていくと「間取ればうまくいくんじゃね」ってのが多すぎるんだよね。
 「人に迷惑をかける」分だけ「人に迷惑かけられなさい」。それが平等であるし、平等であるべき。それが多様性である。多様性を受け入れられる枠組みである。なんて思ったりして。説教くさいかなあ。関係ないか。でも、世の中、分業制が進んでるんだし、そういう迷惑も分業するっていう考えでいいと思うんだけどな。
 まあでも、そんな理想論が通じないってのもわかってんだよね。知ってるよ、そんなん。分業を盾にして、いろんなことを人に押し付ける奴らはいるし、文句は垂れるし。こんなの夢物語に過ぎないし。
 でもさ、「王様なんかいらない」っていう抵抗権を認めたフランス人権宣言から今までの現代政治思想ってひと繋がりだと思うけど、それなのに「昔は良かった」って無理あるよな。革命は起きてんだから。懐古主義を否定はしないけど、変わらないと何にもならないのはその通りではあるから。諸行は無常。人間がいる限り、この世界はよくなっていくこともあるし、悪くなっていくこともある。その最先端を我々は常に監視しないとならない。変わらないのは性的な衝動。それと戦争。後者はいつの日か終わることを祈ってる。祈る以外にできることがあったら教えて欲しい。なんで地球は一つじゃないのか。

 俺はいつも動揺を押さえきれん
 ...伝えたい 俺のこのキモチを
 貴様に伝えたい 俺のこのキモチを

 乱雑な文章に論理。知ったことでもない。
 夢芝居からの堕落。悪夢・恐怖・慄く
 どう思いたいとか、どう思われたいとか、
 結局は誰かの身にまかして、生きていく線路の行く末をなんとなく決めたい。なのかなあ。
 死は御褒美。人間の無駄な脳みそが生み出した負債からの解放。過去・未来。
 別に死にたいわけでもない。そこには配慮とやらがいる。哲学。知らん。思想。構わん。ただ、唐突な肉弾戦には勝てない弱さ。それも脳の弱さ。

 感情を隠す。マイルドにする。可愛げに振る舞う。楽しくする。
 全部苦手。
 表現にもそれを求めるかしら。

 音はそれらを全部吹き飛ばす力がある。夢がある。希望がある。音楽が僕の世界を変えたんだから。騙されたと思って踊ってみるんだ。踊らされてみるんだ。あのサーってなる感覚を、ワーって飛んでく感覚を、求め続ける。

 伝達できん自分にハラが立つ
 生まれ育ったその環境、歴史、思想すべてブチこんで
 表すことが出来ればいい
 意味がわからん言葉で意思の疎通を計りたい

 誰でもいい。犬でも、猫でも、得体の知れない畜生でも構わない。知らない星の知らない物でもなんでもいい。誰でもいい。分かち合いたい。でも、難しいってわかってる。100%は理解してもらえないし、理解できない。

 貴様に伝えたい 俺のこのキモチを

 だから、こうやって伝えたくて文章を書いている。文章と言えるかは知らない。叫びとでも言えばいいのか。俺の歴史と思想をぶつける。どう思われるか気になるけど、それでどうになるもんでもないし、どう思われてるで変わるものはここにはぶつけられない。Soul Scream。

 それでも、そんなことを言ったとしても、
 伝わらないという保険の裏で、「伝われ」って、一生思い続ける。

 貴様に伝えたい 俺のこのキモチを

 僕の思想が僕の普通。これまでも、これからも。

 2024年7月

 引用:ZAZEN BOYS「KIMOCHI」詞 向井秀徳

 ここまで推敲がめんどくさい文章は初めて。何が正解なんだろ。


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