高校生日記⑥高校生活、青春とは?

 高校生活で一番苦しんだこと、また大学生になった今でも苦しんでいること。単純に言えば自意識過剰なのだが、「単純に言えば」で解決するぐらいなら自意識過剰になんかにならないはず。
 どこまでも「定石」が用意されている世の中、多数側が「正しい」とされる世の中、その中に生きづらさを感じる。
 日清カップヌードルのCMで「アオハルかよ」シリーズがあった。ああいった映像がテレビで流れることで社会的青春の定義が構築されていく。
 中高で、僕は、というか僕がいたクラスでは一度も打ち上げがなかった。どこかにクラスでご飯に行くとかカラオケに行くとか全くなかった。はず。別にクラスの空気が悪かったわけでもない。ただ、他のクラスは打ち上げに行ったとか、打ち上げのせいでコロナの集団感染が起きたとか、そんな話があったけど、僕がいたクラスでそんなことは一度も起きなかった。俺だけ省かれてなければ。
 こんな中高を歩んでしまえば、僕は「アオハル」を社会的定義から外れた状態でしか享受できない。要するに、僕は日清のCMのBUMP OF CHICKENの曲を背景に教室を飛び出すかっこいい男の子には絶対なれないのだ。
 どこまでも「定石」が用意されている世の中、多数側が「正しい」とされる世の中、その中での生きづらさがどこか胸の中のモヤモヤとなってずっと残っている。

青春を謳歌、またの名をカーストか。

 自分も含めなのだが、人は人をなぜ下に見てしまうのだろう。
 まあ、その疑問に対してよく上がる答えは、ある一種の承認欲求。「自分より下」という人がいるほうがやはり安心するという。
 本当に自分をクズだと思うが、俺はそう思っていかないとちょっと自分保てないんじゃないかという節はある。恥ずかしいが。テストの順位が下がっても「まだ下に200人いる」と思ってしまう。まあ、それなら自分の足をいつか引っ張るだけに終わりそうだからいいんだが。
 ただ、勘違いしないでほしいのはなにかを叩くまたは悪口・陰口を言うことで気持ちを保っているわけではまったくない(そういうやつもいるが)。もちろん、いろいろクラスメートの「どうなの?」は書いてきたが、それはどちらかというと出し所がないからなんとか出し所を自ら作って時間を割いて出しているわけで。結構頑張って「どうなの?」を丁寧に説明しているつもりだし。それに私は本当に人をカースト制度の中に組み込んで考えるバカが世に山ほどいることは知っているし、それなりの数見てきたし、そいつらがまじで嫌いなのだ。
 わたしはカースト制度の上を狙ったことがあるが、いわゆる1軍になれた試しがない。1軍のやつといつも険悪の仲しか築けないからしょうがないっちゃしょうがない。しかしながら、1軍になれなかったからと言っても楽しかった。どちらかというと、1軍を目指しているときのほうが楽しくなかったのかもしれない。私は財閥争いとか苦手だろうな。 なお、ここで言うカースト制度とはスクールカーストのことであることをお伝えする。

 勝ち組負け組という言葉の違和感を、勝手に私の師にさせて頂いている、オードリーの若林さんは本で触れていた。いまや、その感覚は高校どころか中学、下手したら小学生も持っているのではないかと思う(若林さんもそう言っていた)。競争社会にフルイにずーっとかけられ続けている。
 その網目の大きさはまちまちである。もちろん、いわゆる一般社会というバカでかい社会からちっちゃいクラスメートぐらいまでいろいろある。ちっちゃくても落とされることは度々。
 当たり前の話だが、その競争というものは基本人生で逃れられないものだと思う。なぜなら、社会状況関係なく、人間という生き物は競争が好きだし、競争で飛躍的に伸びたりする。だからこそ、競争という喧騒から抜け出せた場所というのは大事にすべきである。それが若林さんの言う「家族」や「父親」であり、私で言う部活である。(部活にも競争と呼ばれるたぐいのものはある。いわゆる切磋琢磨と呼ばれるものだが、うちの部活はそこに重きはそんなにない。それがちょうどよく、心地よいのだ。)

 あちこちオードリーという番組が好きでしばらく見ているのだが、この前の放送会で平成ノブシコブシの吉村さんが天下云々の話をされていた。
 芸能界は当たり前だが一つの社会である。そこのトップを目指すという。

 一見、吉村さんの天下取りの野望と高校生のカースト(教室の天下取り)が規模以外同じように見えてしまうかもしれない。もちろん、違う。違うどころの騒ぎではない。
 教室の天下取りというのは基本、自分より下の人間がいることをなんとか自分に言い聞かせたい、またその下の人間という一方的な認識である人たちに自分の天下を見せつけて承認されたいという承認欲求が根底にあると推測される。勝ち組であるということの喜びとそれを見せびらかすための喜びを味わいたいのだ(一方通行的なものである)。
 ただ、吉村さんは多分、ただただ天下取りが好きなんだと思う。根底にあるのは友近さんと一緒で「好き」じゃないかと思う。大事だから2回いった。また、吉村さんの中に天下=勝ち組という概念がないはずだ。だって彼はもうすでに「そこの場所」にはいない人間である。次のフェーズにおそらく進んでいる。承認欲求がないわけではないと思う。天下は名誉だから。でも、根底はそれじゃないと信じている。天下をとっても彼は誰も苔(こけ)なんかにしないんじゃないだろうか。どちらかというと自分を苔にしている部分が山ほどあるだろうが。ただ、勝手ながら、その競争からの逃げ場がちゃんとあるのか、不安になってくる。

 クラスのひとりの承認欲求のためにわれわれクラスメートは苔になる必要はあるのか。
 言うまでもない。
 所詮、クラスメートであるだけだ。

 吉村さんみたく好きだからやるなら話は別だが、教室やツイッターごときで天下を獲ろうとしたり、承認欲求を満たそうとする奴らは私からすると可哀想と思ってしまう。なぜなら、そういう奴らが人を目の敵にする人は、絶対的な「好き」を持っている人だから。そういう奴らは残念ながら「好き」が一ミリもない。つまり、「好き」を持っている人に対する「好き」を持っていない人への単なる嫉妬だ。嫉妬心から承認欲求はモンスターと成る。

 例えば、撮り鉄。彼らの鉄道に対するエネルギーは素晴らしいものである。到底真似なんかできない代物を持っている。しかし、彼らはネットの目の敵である。もちろん、ルール違反はダメで擁護しようがないが、その域を超えて叩くやつがいるだろ? そいつは自分に自信がないんだよ。だって、そんなに熱くなれる「好き」なものがないから。
 例えば、恋愛。周りに冷やかすバカいるだろ? わざわざ付き合ってることを隠している他人の恋愛を、なんか匂わせるようにぼそっと暴露したり、「暴露しちゃうぜ!」って顔でニヤニヤしていたりするだろ? そいつにはエネルギーが有り余ってんだよ。だって、誰とも付き合えないから。たまたま付き合えたとしても、そういう奴らこそ付き合ってること冷やかされるとキレるし、匂わせること言うとキレる。一方通行じゃん。つまんないよな。

 好きを素直に「好き」と感情を表示できない世である。なぜなら、嫉妬されちゃうから。本気で「これ好き」というと競争の世界では邪魔になる。

 そんな世の中、なにがおもしろいんだよ。

 好きなこと・好きな人に対する愛情表現どころか好きなことすら言えないのはなんで? なんでこんなに息苦しくしたの? 好きなことに真っ直ぐでいられないなんて間違ってる。

 俺は音楽に向き合えてる。しかし、曲を作ってるなんて誰にも言えない。
 怖くて。怖くて。
 「好き」にいつまでも没頭していたい。
 でも、誰かがいつも石を投げつけてくる。
 それで、私は没頭ができなくなる。
 いつも、心のヘッドフォンは片方外したままである。
 死にたくないから。
 でも、外したほうは息絶えるまでそんな長くない。
 半身が死す。
 そうやって、人間が潰れていくんだろ。

ーーーーーーーーーーーー

 青春を謳歌することをカーストと捉える人もいるが、私は違うと思っている。

 青春を謳歌することとは好きに真面目にいることだと思う。

 カーストが上位で、彼女がいて友だちが多くて勉強できて運動できてかっこよくて。それが勝ち組と呼ばれるのだから、人間ってほんとセンスが無いんだろうな。好きに真面目過ぎてそれ以外に手がつかない人間も負け組と呼ばれるのだから、人間ってほんとばかなんだろうな。
 好きなことをカーストによって統制されず、つまらないものに翻弄されず、ほんとうの意味での「謳歌」をしてみたかった。それができる日がいつか来るのか。小さな子どもたちにそんな思いはしてほしくない。

 「お前が負け組だからそんな言い訳してんだろ?」
 「は?」

 この世はあまりにノイズがうるさすぎる。

 2022年10月某日
 明後日(実質24時間後)修学旅行である。

現在

 世の中が俺に銃口を向けている。
 どうだ、この自意識の限界の賜物である文章は。

 自意識過剰になるのも理由がある。論理がある。
 胸の奥から引っ張り出したザワザワの正体である、この箱を開けてしまった代償はあまりにも大きい。
 まず、一つ目に今日、十分な睡眠時間が取れないであろうということ。

続きます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?