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ジェット・シン

タイガー・ジェット・シンというプロレスラーがいる。
サーベルを手に狂ったように暴れ回るその姿から「インドの狂虎」の異名を持っている。
小学生の時に父と見に行ったプロレス会場で、ひとりでトイレに行くと、シンが用を足していた。

危険を感じた僕は帰ろうとしたが、シンはビビっている僕に気づき、にっこり笑ってサムズアップしながら「プロレス、タノシンデ」と片言の日本語で声をかけてくれた。
優しい人なんだな、とホッとして会場に戻り、シンの試合になった。
彼はトイレとは別人のように奇声を発し、会場のいすをなぎ倒しながらやってきて、逃げる人を追い回し、場外で散々暴れ回っていた。
やっぱり狂った怖い人にしか見えなかった…。

僕が社会人になっても、シンは現役だった。
久しぶりに会場で見たシンは、変わらずいすをなぎ倒しながら入ってきて、サーベル片手に逃げる人を追いかけていた。
が、よく見ると逃げない人はそのままスルーしていた…。

そう、僕はもうプロレスがどういうものか知っていた。
狂人はキャラであり、インドではなくカナダ在住だということも知っていた。
だからシンに近づいてみた。
どつかれることはない。
しかし、シンは僕の方に走って来て僕の背中を押した!

やっぱり怖かった…
だが、その力加減は僕が倒れないくらいの絶妙なものだった…。

シンは試合中も客をイジり、帰る時も客を追いかけた。
最後は灰皿をなぎ倒し、大きな音が響き渡ったが、灰皿以外は何もない場所だった…。

試合後、選手が乗ったバスの前に行くと、窓が開いてシンが顔を出した。
get out!!と叫び、わざわざ窓の外に向けてサーベルを振り回し、飲んでいたビールの缶を外に投げつけた。
みな逃げたが、缶は絶妙に人のいない所に投げ、近づいて見てみると中は乾いていて今飲んだ形跡はなかった。
専用の缶か…と感心していると、係の方が片付けにきた。

もちろん試合後の帰りのバスでそんな事をする必要はまったくない。
まったくないが、自分のキャラクターをまっとうするプロの仕事。
当時、もう50を過ぎていたので、さすがに動きは鈍っていたが、経験に裏打ちされた丁寧な仕事ぶりに感動を覚えた。
「プロレス、タノシンデ」
あのセリフのままじゃないか。

もういいや…と思う時に、僕の心のなかでシンが問いかけてくる。
お前は自分の役割をちゃんとまっとうしているのか?
僕は、仕事で家庭で社会で自分の役割をまっとうしているのだろうか…

うーん、プロレスは本当に奥が深い。

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