生きながらに現実手放すのが、スピリチュアルなのだろう。

現実に、辛いことがあって、泣きわめき、悲しみ、苦しみ、虚しくて、耐えられないとか。このまま死んだら幽霊まっしぐらやん。とか、思って。

未練だらけ。恨み辛み、執着、怨念みたいな。生きてても、生き霊さながらな自分。

死んだらさ、たまに、幽霊もいるけど、だいたいは、成仏するんよね、きっと。

死んでまで、もーいいかなー現実引きずらないで。楽になってしまおうって事だと思うよ。愛する家族に対する心配も、理不尽に殺された怨みも現実が終わってまで現実や過去にとらわれなくてもいいじゃない。

だいたい生死の問題が大きいのに死んでるんでね。家族の心配なんてどーでもいいよね。こっち来るの早無い?ぐらいの軽いノリになるよね。

では、死んで無くてもですよ。現実手放していいじゃない。死んで手放していいなら、生きてても手放していいじゃないの。どうせいつか絶対死ぬんだぜ。

と、言うのが成仏。悟りの入り口と、言うことかと。

座禅でも、瞑想でも、統合のワークでも、現実と距離を置いてリラックスしますよね。無になるとか。

統合のワークでは、不安や恐怖心、心配、どんどん手放して行きます。それって人間らしくなくなるじゃないですかって誰かが聴いたらしく。そうです。だって。それが人間らしいと言うなら人間らしく無くなります。人間ドラマは出来なくなります。だってさ。。

やっぱりそーなんだと。

だいたい、現実にがっつりコミットして、欲望や、地位名誉、優越感、恐れ、不安、心配、執着みたいなのあおるスピは、フェイクだと思うよ。現実は、変わる!とか。神様のパワ~!とか。

パワーは自分にしか有りません。外の力は有りません。その神様に力を許可してるのは私です。それ、私なんすごない?

と言うのが私的には

真実です。

これなら納得出来る。トラブルに巻き込まれない。手放し統合すすんだ人に嫉妬は起きない、その人も傲慢にもならない。

わたしは、それを自分に許可しているところ。現実手放していいよ。統合していいよね。心配悲しみ、もう辞めていいよ。死んでないけど、いいよ。いいよーなんの問題も無い。心配、不安、恐れ、持ってて役に立った事あったか?

とかってね、

自分に許可出してるところ。

そしてまた考え至るのは、

ああそうか、現実を楽しむために生まれたんだな。と。現実味を持って体感するために体を持って、全て忘れて、ドラマを楽しむために。生まれたんだな。

たった100の春一番も知らすに帰るんだ。

でもさ、何となく、スピリチュアルに触れる人は、もう十分かな!人間ドラマは。いいかな。新しい生き方しても。と、思いはじめてる。古い魂かも知れません。何十万年も輪廻した。

目を醒まして生きる遊びをやりに生まれてきたのかも。目覚ましが鳴ったのかも。それは、そっちの方が面白そうだと思うから。

現実逃避だと、見えるひとには見えるでしょう。

だけど。味わいつくしたわよね。心の苦しみにはそこがないって言うけど、体と同じで有ったわよね。それが恐かったけど、なんだ。そうなんだ。しかも意志で辞めることも出来るんだと。死んだら終わるし。幽霊になってやり続けるのも自由だけど。

もういいかな。これ以上辛い現実を作って味わうのも。それこそ、現実逃避か、死か、麻痺しか、無いのよ。現実向き合ったところで。

新しい道。行ったことがない道。面白そう。

傲慢は、当然、優越感も正義感も、お役目とか、使命とか、喜びとかも手放すんだよ。楽しそう。

そうそう、良さそうな方もね。現実の喜びを味わうみたいなのも凄い未練を生む両端だもの。欲望を満たす、味わい尽くすみたいなの。正義、成功とか、外側に依存した喜びとか。

それは、終わりにするんだ。そっちも。きっとそう言うことだ。

ただし、内側由来の喜びがあるはず。たしか…。安心感、リラックス、平和、無敵感みたいなの。静かでとてもパワフルなやつです。

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