建築の2つのスペシフィックさ(TOTOギャラリー・間 「増田信吾+大坪克亘展 それは本当に必要か。」評)
TOTOギャラリー・間 「増田信吾+大坪克亘展 それは本当に必要か。」の3階展示室には、ほぼ白色に統一された大きな模型が台座なしで点在していた。この佇まいは、ドナルド・ジャッドなどのミニマリズムの作家による立体作品展示の風景を呼び起こさせる。この直感は何を意味しているだろうか。
本評ではまず本展覧会での模型表現の意図をミニマリズムの表現意図と類推することで解き明かし、その上で、彼らの建築作品自体の意味するところへと論を進めていく。
その論の途中、「スペシフィック」という言葉の多義性がそのまま建築の2つの側面をよく説明してくれる。本稿はより一般に建築におけるそれらの両側面について整理する役割も担うものとなるだろう。
1. スペシフィック・オブジェクツ
1965年の論考《Specific Objects》においてジャッドは、自作も含む同時代のアメリカ美術の立体作品に、〈自由な物性と空間性とを携えつつ、イリュージョニズムと構造的複雑さが排除されている〉という特徴を見出し、そういった新たな美術作品のあり方を〈スペシフィック・オブジェクツ(特殊な物体たち)〉と呼称する。
本展覧会の模型に関して増田氏が「空間の疑似体験を強いるような模型にはしたくなかった」と説明してくださった。実際、彼らの模型は高い解像度を保ちながら、観察者の没入体験(=イリュージョン)を促すようなものではない。添景の排除、マテリアルの捨象、またそもそも覗きやすい位置に設置されていないということからも、この意図は明白である。
もう一点、彼らの大型模型をジャッドの立体作品のように見せたのは、台座が取り払われている点である。一般に建築模型で台座が重要視されるのは「ここから内側が模型表現(フィクション)で、外側はギャラリー(現実)である」ということを示唆するサインとなるからだろう。しかしその機能ゆえ、台座付きの模型は必然的に〈展示空間-の内側の-台座-の内側の-模型空間〉というように図と地の関係を煩雑にしてしまう。台座を取り払う彼らの所作には、作品の構造を単純化し、観察者に物それ自体の面白さを見せるという意思が表れている。
このようになにかを想起させることや、構成を複雑に演出することを拒否することで、物それ自体の面白さを超えた意味を持つことを徹底的に拒否する〈スペシフィック・オブジェクツ〉としての性質を、あの模型は携えていたのだ。
2. サイト・スペシフィック
ここまで、増田大坪展3階における模型の意図と、ジャッドが〈スペシフィック・オブジェクツ〉と呼ぶ立体作品の表現意図との直接的な類似を明らかにした。
ところが、純粋なギャラリー空間ではなく実際の敷地に立つ建築作品となると、このような意味でのミニマリズムは完全には実現されえない。90年代に興ったスイス・ミニマリズムと呼ばれる潮流に属する最小限の構成の建築でさえ、さまざまな与件に応答し、性能を発揮しなければならないという時点で純粋なスペシフィック・オブジェクツとはなり得ていない。
このようなミニマリズムと相反する建築の性格を効果的に表現しているのが、4階の展示である。3階の模型を見た後4階の1/100模型を見ると、同じ形態が違った表情で現れる。それはまちの中で周囲と相互の影響関係にある一つの部位としての表情である。これにはすでに建築の世界で頻繁に使われている〈サイト・スペシフィック〉という言葉がよく当てはまるだろう。
興味深いのは、この〈サイト・スペシフィック〉という言葉も、元来は現代美術の一派を呼称するために召喚された語だということである。脱美術館・脱ホワイトキューブを志向し、固有の文脈を持つ〈サイト(敷地)〉に対して最終的にある部位となるような作品の性格を示している。このコンセプトは建築作品について語るさいも同じである。
3. 〈スペシフィック〉建築
このように、彼らが自覚的に自身の作品の2つの側面を整理して解釈し、両立を図っていることを、展示のフロア構成が物語っている。ここでまとめも兼ねて、2つのスペシフィックの語義を掘り下げてみたい。
i)〈スペシフィック・オブジェクツ〉における〈スペシフィック〉
は、〈ジェネリック〉の否定であり、どんなくくりにも〈属〉さない特定の〈種〉であることを強調する。ジャッドがスペシフィック・オブジェクツとして挙げた作品は、既存の美術カテゴリーへも属さず、更にはイリュージョンを排除することで観測者の脳内に描かれる勝手な物語に〈属〉することも免れる。建築においても、定型文化したジェネリックな評価基準では汲み取られ得ない価値があり、それをこの意味での〈スペシフィック〉という語で呼ぶことができる。
ii)〈サイト・スペシフィック〉における〈スペシフィック〉
は、〈ジェネラル〉の否定。これはいろいろな文脈に対して〈普遍的な〉解を与えることを拒否する。建築においても、敷地ごとの環境のようなコンテクストを丁寧に汲み取って、めいめいの解法を示したことが価値とされることがある。これも〈スペシフィック〉な価値ということができる。混乱を避けるためには、〈スペシャル〉、あるいは〈サイト・スペシャル〉と呼ぶべきだったのかもしれない。
このように、2つのスペシフィックは対立項でも並列項でもなく、角度の異なる別の価値を示す言葉であることに注意しよう。
今日建築の世界で語られるスペシフィックさは、〈スペシフィック(ii)〉を指しているだろう。だから問題意識は〈スペシフィック(ii)〉と〈ジェネラル〉の対立へと向かいがちだ。この強固な対立軸は、特に東日本大震災以後の地域性と一般性との間で揺らいできた私達の建築の価値判断基準を一元的なものとしていたかもしれない。
そういった中で、「増田信吾+大坪克亘展 それは本当に必要か。」は、近年の同様の建築展示では強調されてこなかった新たな位相の価値〈スペシフィック(i)〉を可視化すると同時に、2つのスペシフィックさが建築において両立可能であることを極めて明快に示してくれたのである。
参考:
Judd, D. (1965). Specific Objects.
荒川徹. (2015). ミニマリズムとパースペクティヴ.
スペシフィック・オブジェクト | 現代美術用語辞典ver.2.0
スイス・ミニマリズム | 現代美術用語辞典ver.2.0
サイト・スペシフィック | 現代美術用語辞典ver.2.0
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