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加速する社会:切迫化する時間意識と脱・拘束の可能性

最近、タイパがいいとか、悪いとかいう言葉をよく聞く。タイムパフォーマンスの略語で時間効率のことらしい。コストパフォーマンス(コスパ)と並んで、行動や体験を決める大きな要素らしい。時間に対する意識がより高まっているということだろう。
また、時間の使い方も年々変化している。例えば、かって出張など仕事で地方に行く際、一泊で行くのが普通だった場所が移動手段の高速化で日帰りが可能になると、一泊せず日帰りで帰るばかりか、オフィスに帰社して通常の仕事をしたりする。それまでは一泊して翌日帰京していたわけだから、日帰りになっても、そのまま自宅に帰ればと思うものだが。
仕事中毒もいいところだが、こうした行動を仕事の虫とか、モラルということで済ませない気もする。移動時間が短くなったのだから、仕事もスピードアップしないと居心地が悪い。だれと競争してるわけではないのだが、社会との競争に負けているような気すらする。
こういう時間意識の変化、切迫感を個人的な性分と放り出すのではなく、社会全体の時間の流れが加速していることの証左だとしたら。
本書は、近代以降の時間構造の変化を詳述し、時間意識が言語や文化などと同様に社会構造化されていて、近代社会の変容の中で大きく変わっている様を解き明かす。個々人が勝手に時間を解釈したり、向き合っているのではなく、社会構造の一部に時間意識が取り込まれていて、個々人の時間意識は社会構造の影響を受けるのである。その流れは、時間の社会的加速化として現れている。

社会的加速とは、社会の中の時間の流れが年々加速しているということをさすが、その様相は以下の通りである。
ひとつは、技術的加速。
移動手段の高速化など、テクノロジーによって必要とされる時間が短縮されることだが、これは一定の目標に対する時間の加速、タイパの向上のことだ。
二つ目は、社会変動の加速。
これは、社会中での職業構成の変動や技術の浸透などの時間が年々加速していることをさす。例として、1次産業から二次産業へ、2次産業から3次産業へといった産業構成の社会的な変化は、後者になればなるほど時間が短縮されている。新技術の浸透もそうだ。画期的な新技術・製品、例えば、エアコンの普及にかかった年数と、PC,スマホの普及にかかった年数は後者の方が断然時間が短くなっている。
生活テンポの加速
食事時間の短縮、家族のコミュニケーション時間の短縮、生活行動の加速など日常の人々の行動も年々加速化している。
この3つの時間の加速は、個人的な思い込みなどではなく、社会構造の変化が引き起こしている事象というのが本書が指摘することだ。本書は、「社会が根源的に時間によって構成されている」と主張する。

時間のひっ迫、疾走する時間
社会的加速化の中で、私が特に問題と思うのは、生活テンポの加速化など加速化に伴って、時間の使い方が「豊かに」なるのではなく、年々ひっ迫感が強まっているという傾向だ。
家事や仕事などの行為時間については、技術開発によって、時間効率は向上しているにも関わらず、時間はより足りないと感じる。これは、職場にPCが導入された時などに顕著だった。投入当初は不慣れなこともあって時間がかかる側面もあったが、慣れるに従い、PC導入は業務効率を大幅にあげた。ところが、それは労働時間を短縮させることにはつながらず、より業務の高速化と長時間労働を生むことになったのは、よく知られた事象である。
余暇行動ですら同様で、移動手段の高速化が進む中で、一か所でゆっくり過ごすことより、より多くの体験を積み上げることに人々は熱心だ。
時間効率が上がることで、行動に余裕を持つということにはなかなかつながらず、一層時間はひっ迫している。
本書は、こういう切迫化を、社会変動の加速化がもたらした、「地滑りを起こしている急斜面(スリッピングスロープ)」という社会意識の立ち上がりで説明する。時間の加速化に伴い、人々の行動の選択肢は恐ろしいスピードで年々広がっている。また、仕事や家庭や地域という社会的なものも安定して続くのではなく、年々社会変動が短い時間で変化する、つまり激しく加速することで、将来像が激しい変化にさらされている。仕事や家庭の将来すら無限に広がる、よくなる可能性も没落の可能性も含めて大きく変動する予感に満ちている。こういう経験を通して、人々は時間変化の様相に危機を持っている。
今という、比較的安定した時間があったとして、そのすぐそばで状況が「地滑りを起こしている」のだ。その急斜面にたっているという感覚が、時間の切迫感を生んでいるのだ。
「同じ場所にとどまるためにできるだけ早く走っている」(P149)と著者は指摘する。
一方で、脱加速化の方向もないわけでない。加速する時間の拘束から逃れ、時間にひっ迫感を持たずに過ごす方策である。しかし、それは加速化する都市を離れ、田舎に隠遁することでは解決できないと本書は指摘する。脱加速化の方途は、困難ながら「近代のプロジェクト」を乗り越えることから生まれてくるしかないが、著者はその実現には悲観的だ。
私には、必ずしもそうではないかもしれないとも思う。
タイパなどと気にする若者の中には、脱加速化の選択の行動がちょいちょい現れていて、その様は年々強まっていると感じるからだ。
脱加速化のドアはそこまで来ているようにも思う。

加速する社会
ハルトムート・ローザ 
福村出版

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