多様性って言ってる人間が多様性を受け入れていないかもしれない話
「加藤君はどんな社会を目指しているのですか?」
「そうですね。多様性を認め合える世界です。みんな違ってみんないいと思うんです」
インタビューなどで質問されて僕が答えていること。
それが「多様性」。
本当に心からそう思っていたのですが、「多様性」という言葉を使う自分に最近はわずかな違和感を感じている。どこか模範回答のような、優等生っぽい発言のような。いや、逆に安っぽさすら感じている。大事な言葉であり、概念だと思うのに、どうしてそう思うようになったのだろう。
そんなことを思っていたある日、僕のことを書いてあるnoteを読んだ。
これを書いたのは17歳の小林さん。空調のプロとして活躍されている。直接あったこともないし、Twitterでも絡んだことはなかったと思いますが、時々、「いいね」させてもらったらり、逆にしてもらうくらいの関係。ただ、気になる人でした。
そんな小林さんの「ダイバーシティの仮装」というnoteに、返信というか反応して、僕も多様性、ダイバシティーについて書いてみたいと思う。
多くの人が「多様性、大事だよね」と言う。僕もそう思っている人間だ。ただ、この多様性って、結局は「私の望む多様性」なのである。自分が望まない価値観や人物は含まれていなくて、「私が許容する範囲の多様性」にすぎないと思っている。つまり、「自己中な多様性」なのだと思う。
真の意味で、全てを許容できる多様性はあるのでしょうか?
例えば、僕は感覚過敏研究所を運営し、感覚過敏の人が暮らしやすい社会を目指して活動をしています。
聴覚過敏があると、周囲の様々な音が不快に感じたり頭痛など体調不良が起きたりします。だから、もし、僕が聴覚過敏の人のために無音の世界や静かな世界を作ったとしたら・・・目が見えないなど聴覚を頼りに生きている人には迷惑な世界になってしまいます。
この世の中は、自分の求める幸せな状態が誰かの不幸な状態になることもあり、必ず光と影のような関係は生まれてしまいます。自分の利益と真逆にいる人を、「そういう人がいるのは当然で、そういう人がいてもいいよね」と言う割には、自分が不利益になる状況になれば、「生きづらい世の中だ!多様性を認めてほしい」と主張してしまう。
今の多様性を求める社会は、結局は、「●●してほしい」という要求に近いレベルであり、真の意味での多様性を望んでる人は少ない気がする。だから、僕は違和感を感じていたし、小林さんも違和感を感じているのだろう。きっと、僕たちのように、多様性を求める社会に違和感を感じている人はいるのだと思う。
真の多様性とは何だろうか?
動物の世界も共存する関係の生き物もあれば、食べられる関係、食べる関係の生き物もいる。全部が共存はできない。食べなければ生きれないから。自分を食べようとする動物を前に「僕を食べたい奴がいても仕方がないよね。それが多様性だから」とは思わないだろう。
いや、「あなたは私を食べたいのですね」と事実を受け止めることが多様性社会なのかもしれない。「それなら、私を食べてください」と相手の要求を受け入れることが多様性ではなく、「あなたは私を食べたいことはわかりました。しかし、私は食べられたくないので失礼します」これが多様性なんだと思う。
結局、多様性というのは、自分の許容範囲のサイズを広げながら、自分の利益と反する場合は相手が希望している事実だけ受け止め、全力で抵抗していいということなのだろうか。
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CRYSTALROAD 加藤路瑛の日常と頭の中
12歳で起業し株式会社クリスタルロードの代表取締役社長として、感覚過敏研究所の所長として取り組んでいる仕事の話、学校(角川ドワンゴ学園S高…
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