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『終ノ空remake』感想と、3部作を終えて

 どうもです。

 今回は、先日クリアした『終ノ空remake』の感想を書いていきます。昨年12/25(金)にケロQさんより発売された『素晴らしき日々~不連続存在~ 10TH ANNIVERSARY』に付属していたものですね。すばひびを先月クリアしてかなり良かったので、そのまま『終ノ空remake』にも手を出したって感じです。オリジナルの『終ノ空』自体もリメイク版終わった後にクリアしたので、最後らへんに3部作の比較みたいなものも含めて書いていければなと思っています。

 公式サイトからもわかる通り、ビジュアル面やシステム面はかなりブラッシュアップされていて、プレイ前から楽しみにしていました。彩名の"一にして全。"ってだけの紹介文、今見てもカッコいいな(笑)


 では、以下より感想になります。(今作だけでなく、3部作全てのネタバレあるので、自己責任で)



1.主体者Ⅰ 水上行人

 何も無かった日常から突然、事件に巻き込まれる…この流れ自体はすばひびと同様でした。だから途中まではそんなハラハラしなかったんですけど、やっぱり純粋に気になる要素は多く面白かったです。卓司の豹変ぶりが変わってなかったってのもあるし(笑) 彼の独特な存在感は健在でした(彼視点でまた後述します)。

 終盤、琴美を助けに行くところは男らしくて良かったですね。琴美との恋愛感情含め、そこはすばひびの由岐とは違って新鮮だったし。ただ、そのままいい感じにエンディングかと思い来や、やはり深入りしてしまう行人…待っていた悲劇は見覚えのある光景…。あーやっぱりこうなるのかと。彩名の怪しげな笑みも台詞も。このよくわからない感じに呆気に取られてしまう、これがすばひびの原型だったのかと知れて良かったです。そんで、エンドロール直前のデジタル時計の写真っぽいCGが最高にゾクっときた。SEと相まってホラー感が良き演出。

 序章だけど、登場人物は殆ど登場してくれて。中でも彩名の可愛さがマシマシでやばかったですね。ガリ食べるとこ好き(笑) もう書いちゃいますが、ほんと良かったです。すばひびのヤバい奴感と、それに合わせた言葉の謎の説得力も勿論好きだけど、今作のは何というか"ぽけーっ"としてる感じが可愛いだけにニヤけた時のギャップの表情とかが堪らんかったです。行人との会話も毎度楽しそうで、それを聞いてるこっちも楽しかったですわ。微笑ま。



2.主体者Ⅱ 若槻琴美

 流れとか大まかな内容は行人と変わらず、最後も何とも言えないスッキリしない終わり方…。しかし、あんな状態でも自分の身より行人を想うところは、彼女の弱さでもあり、強さだったな。その前のやす子に対しても、受け入れる強さが、優しさから来ているもので、とても良かったです。

 彼女は、『これが永遠に続いたらいいのにな…』と言っていたように、今の生活や世界に不満などなく、そのままであることを誰よりも強く望んでいた人なので、行人視点とは違い可哀想って感情がかなり湧いてきました。いつものように行人を起こしに行くことが嫌だけど、嫌じゃない。『こういうのは永遠じゃないから価値があるのかね』とは思いつつも、やっぱり永遠に続いて欲しい。そのくらい"今"に満足している。それが永遠に続くはずないなんてことは彼女もわかってて、だからこそ、今に満足している気持ちそのものは尊いもので。できる限りそれを保っていたかった彼女からしてみると、変わりゆく日常の様は相当嫌だったろうなと。

 そして、彼女にとっての普通の日常ー幸福を取り戻そうと、必死になるのはわかるんだけども、一人で行ってしまったのがね…。ただ、あそこで渦巻いてた行人を想っての行動はわかるし、それが彼女の優しいところ、魅力でもあるから責めきれなくて難しい…。ホント無事で何よりでした。

 あと、琴美は声がビジュアルに凄い合ってて最高に可愛かったです。東シヅさん、恥ずかしながら今作で初めて聴いたんですけど、むっちゃ好き。琴美の語尾が若干上がる話し方に可愛らしい感じが詰まってる気がしました。優しい声質も落ち着きます。卓司と喧嘩してる時がベストというか、怒ってるときがまじでいい。



3.主体者Ⅲ 高島ざくろ

 かなり暗くて、どうしようもなくて、ただただ悲しく虚しかった…。希望が一ミリも無いというか…。すばひびだと希実香という親友がいて、それが救いの道になっていたけれど、こちらはいないし…。彼女が変わってしまう原因も同級生からのいじめだけでなく、親に捨てられヤクザとかまで出てきて大人が介入してくるの、すばひび以上に不条理な世界で、彼女への仕打ちは理不尽だった。ホント彼女が何したっていうんだよ…。

 生きる意味を失いかけているときに、迷い込んできた一通の手紙。ここは同じでしたね。スパイラルマタイに、アタマリバースがまたくるんかーと嬉しいような悲しいような(笑) すばひびの時も思ったけど、彼女の視野がどんどん狭くなり、変に拡大解釈をしていくところ…世界の所為にまでしまうところに対して"良くない"って少なくとも外側にいる自分からは強く言えないよなと。ダメなんだけど、完全否定できないというか。もうそれだけ追い込まれたいたんだろうっていう気持ちも伝わってはくるので…。

 小沢が死んでしまったことを全て関連付けてしまった。平常だったらたまたまで流すものを運命だと思い込んでしまった。何もない、誰も信じられない状態だったからこそ、何でもいいから縋るものを求めていたのは紛れもない事実で。それを琴美や行人に対して向けていれば良かったものを、自分は救世主だと錯覚してしまったばっかりに…。彼女なりに自分と世界を救おうとし、加えて琴美の為だとはいえ、最後の結果(エンドロール怖すぎな…)から見ても、思い込みの深みに嵌まってしまったことが原因であるのは間違いないなと…。死に対する恐怖を失い、生きる意志を放棄した。すばひびで見た彼女同様、屋上での彼女は詰んでました…。

 ところで、この視点での彩名との会話は見事に噛み合ってなくて、笑いごとじゃないんだけど、面白かったです。テンション差が(笑) 中でも、生きる意味に引っ掛かりを覚えて言ったであろう、彩名の以下の言葉は印象に残ってます。

「終わらない世界に、意味をあたえて、世界を終わらすの?」
「小説にエンディングがあることにより、登場人物に意味があるように」
「世界にエンディングを作って、自分に意味を付け加えるの?」

 これはオリジナルの方でもありました。世界を小説のようにしてしまう、その中での自分の生きる意味を見出してしまう。すばひびから貰ったメッセージをベースにするならば、世界の在り方を否定してしまっている時点で、それは生の在り方を否定することになっている。それがやっぱり彩名にとっては悲しかったんだろうなと。今作でも彩名は高島さんを止めようとしてくれてはいましたね。全然噛み合ってなかったけれど…(笑)



4.主体者Ⅳ 横山やす子

 今回のリメイクで追加されていたのが、このやす子視点でした。これが本当にむっちゃ良かったです。というのも、モブキャラだったオリジナルより大分変わった上に、他のどの視点よりも物語性やメッセージ性が強く、すばひびに近いものを感じたからです。作品全体としてみれば、まだ最後じゃないから泣くとは思わなくて…ラストの展開まじで良かった。『小さな旋律』流すのも、最後の最後で、若槻琴美"さん"って付けるのも、きよしではなく"お兄ちゃん"って呼ぶのもズルすぎますって。エピローグまで最高。

愛は支配的で、暴力的で、利己的で…そして優しさに包まれている。だから人を愛するという事は意味がある。それは力だから――。

 彼女が若槻琴美という女の子に会ってから、幸福に生きようと行動を変えていく。相手や自分の感情よりも、合理的に考える事を優先する生き方から、感情を優先するような生き方に変わっていく。そして、やがてその感情が"愛"からくるものだと確信していく。これが丁寧に描かれていたと思います。ラストで若槻琴美への愛にとどまらず、姉弟愛まで乗せてきたことで、ずっと昔からやす子の根っこにある愛情自体は変わらずにあったんだ、この子は昔から優しく強い子ではあるんだ。っていうのがあのタイミングで前面に映ったのも良かったです。何というか、報われたというか、それに似た感情が湧いてきて、きよしと一緒に泣いてた…。

どんなにみすぼらしくても、何者にも屈服せずに死にたいと思った。

 序盤でこのように決心した彼女。実際、田荘や卓司にも決して屈服はしませんでした。自ら何度も強く提案し、前に出ていく。犠牲のようにも思えるけれど、相手を利用している以上犠牲じゃない気がします。自らの幸福の為ならば世界のすべてを利用して手に入れる、そういうところも昔から変わってないなぁと思いました。

 少し話は変わりますが、田荘絡みのところでは、彩名が大活躍で…ここもこの視点がとても良かったと思える理由の一つです。一瞬でも心配してしまった自分に対しても嘲笑うかのように、彼女はやってくれました、ち〇こから血はグロイし、びっくりしたけれど(笑) 結局、あの超常現象自体は少し哲学的で現実なのか空想なのかハッキリとはしないけれど、田荘達がああなってる結果自体は現実に起きている。怖いけど、そそられます。そして、彼女やリルルのような存在がいかなるものなのかについても大分触れられました。8章で後述しますが、「私は音無彩名。それ以上でもそれ以下でもない」っていうのは確かなんだろう。というか、そうであって欲しい。

「空想はいつまで経っても空想に過ぎない。だが、それを形にすることが出来たら、空想は現実にとって代わられる」
「彼らの様な存在に限った事ではない。人の歴史をいうものも、空想を現実にさせた意志の連続に他ならない」
「古き者どもは、自ら形を得ることは出来ない」
「必ず、何者かの観念を必要とする」
「それ以上でも、それ以下でもない…」

 必ず、何者かの"観念"を必要とする。ここでいう"観念"もきっと哲学の述語だと思うので、調べてみると「感覚的あるいは感性的表象に対立するものとして、知的表象ないしは概念、さらにはその複合体を意味するもの」らしいけど、よくわからんですね(笑) その人の意志や精神、感性に強く依存しているのは何となくわかるけれども。でも、すばひびの時もそうだったけど、こういう話が出てくる度に彩名が喋ってくれてるっていうのもあって興味深く聞けて楽しいのです。

 ということで、繰り返しの賞賛にはなるんですけど、今作品屈指の名シーンでの言葉を書き残してこの章は締めようかと思います。ここは本当にすばひびの皆守と由岐を彷彿とさせて、切なさ溢れる感動のシーンだった。やす子の言葉一つ一つが秋野花さんの素晴らしい演技も相まって沁みていく。やっと魅せてくれた100%本心からの笑顔が綺麗すぎて、嬉しいはずなのに、悲しくもなってくる。きよしも言っていたけれど、自分が泣いてる理由はよくわからんかったです…。本当にありがとうございました。

「世界がどうなろうと、みんながどうなろうと知ったこっちゃないけど、若槻琴美さんが幸せであってほしい」
「それで自分を犠牲にしているのなら、それは献身だろうが」
「違うよ。私の望みがそうなだけだもん。献身的って言われるとなんかくすぐったい」
「私が彼女の幸福を願うのは私のエゴなんだよ。それで、世界が滅ぼうがなんだっていいんだからさ」
「あの人は、その最後まで幸せであってほしい…」
「おまえ、お前さぁ。それ違うよ」
「違わないよ。愛ってそういうもんなんだよ。愛は最高のエゴだ。最高の自分勝手な想いだからこそ愛には価値があるんだよ」
「私には彼女に幸福を押しつけている。けど、それこそが私の幸福なんだよ…」
「愛って言うのはそういうもんだな」



5.主体者Ⅴ 間宮卓司

 救世主さん、間宮卓司。とりあえず相変わらず電波すぎて楽しかった(笑) "死ね"で埋め尽くされた脳内思考をテキストに起こした圧とかもだけどこれこれー!って感じで。ただ、すばひびとは違い、卓司だけにスポットが当たったままで卓司の型にはまったままでした。だから、余計に怖くてやべえ奴感は強かった気がします(オリジナルは更に)。どんどん深みにはまっていく、予言からの死…あれやこれやと関連付けて思い込んでしまうところは変わらずでしたが、そこへの執着がより強かった。リルルもこっちだとかなり自由で行動的。彩名みたいな側面もわかりやすく出ていた気がします。

 あとはそうね、屋上での彩名との会話が興味深かったです。卓司の妄想から拡がった、四次元主義の話ですね。

「ただし、時という特性と三次元特性を同じく次元の形式ととらえる。すると四次元主義とよばれる立場が考えられる。この時は私は君で"有る"と言って差し支えない」
「もし仮に、肉体の制限を受けない魂があると仮定する。それは、人格や記憶など、一切の個別の特性と関係がない、特別なものだとする」
「その時に必要な魂の数はいくつになるのか?」

(中略)

「たとえば――、肉体に魂が宿るのではなく、魂に肉体は宿っているにすぎないと考えれば…宇宙に対して魂の数は一つで十分か…」

(中略)

「宇宙に必要な魂は一つだとしたら、それは一つなのか?それとも全てなのか?」
「一にして全」
「魂とはそういう存在となる」
「なるほど…だが傲慢だな。それは神とは言わないか?」
「違う。魂の総体であって、その他のあらゆるものもすべて含めた無限の総体こそが神であると言える」
「魂という様態もまた神の無限平面のごく一部にすぎない」

(中略)

「一瞬の今は過去と未来を必ず内包している。たとえば落下する物体を受け止める時に、人は、その瞬間だけでなく、原因である過去から未来を予測して、今を行動する」
「間宮卓司が間宮卓司であるという保証。同一性を担保するものは、今という感覚質そのものこそ、"今"そのものではなく、過去と未来を織り込んだものとして存在している事」
「宇宙は、あるいは人の精神は音ではない。必ず音から次の音に連なる音節の様な形をしている」
「存在者としての人間は運動と慣性を持っている」
「それをコナトゥスと呼んでもいい」

 ここで出てきた「四次元主義」と「コナトス」については、以下のブログがわかりやすかったです。何となくわかった気がします。あと、彩名の存在がどういうものであるかも少し関連してますね。

 四次元主義を肯定する訳ではないんですけど、普通に面白いし、すばひびの『終ノ空Ⅱ』で彩名が提示してきた「すべての存在は一つの魂によって作り出された」っていう仮定の補強にもなる話だったので、色々と考えさせられるものでした。そんな事おかしいって思う一方で、ロマンは凄い感じます。すばひびの感想記事にも書いたんだけど、「魂」って「想い」で通ずるとこがあると僕は思っているので、だとすれば「想い」が時間的部分や空間的部分を持っていることにもなる。顔も名前も知らない誰かから伝わってきた「想い」が、誰かじゃないかもって思う瞬間ってありませんか?なので、そこまで不思議に思わないというか、そういうものに無性に駆られてしまう時はある。
 実際に、作中では、やす子が飛び降りる瞬間に「――(救世主様!)」という声を卓司が聞く。ほぼ確実に希実香の声でした。すばひびファンへのサービスだとも思うし、卓司がその懐かしさに気付いた様に、どこかの時間空間で繋がっている"何度目"かを示唆するものだったと思います。

 最後は水上行人との関係。オリジナルもそうだったけど、ここが一番の魅せ場であり、『終ノ空』という作品が持つメッセージ性が一番強いとこなのかな。って思いました。

「お前の言う事は、傲慢ではあるが、大筋で俺も同意するよ。世の中はクソだし、世の中の人間の大半はクソだ」

(中略)

「我々は、すべてを呪って、この世に生まれるからこそ、すべてが誤謬であるからこそ、我々は――」
「ああ、そうだな。そうだとも。もし仮に生まれる事が罰に等しいのであれば、俺達は、生まれた瞬間に負け犬だよ…」


(中略)

「呪われた、生を」
「祝福された、生を」
「あるいは――」
「呪いのように扱われている、死を」
「その様な死を、祝福のように受け止める」
「たぶん、ここまでは君とボクは同じ考えではないのか?」
「そうだな。俺もそう思うよ」
「違うとしたら――」
「生きようとするか、しないかの差だ」
「生への意志か…」


(中略)

「生きる事は、考える事じゃないんだ」
「絶望そのもの、幸福そのもの、それらを生きる事への価値とするな」
「生きる事は、まさに生きる事だ。それ以上でもそれ以下でもない」
「この嘘にまみれた世界を前にした時にどうするんだ?」
「そういう事は考えるんじゃないんだよ。世界が嘘にまみれてるとかは思考でしかない」
「俺達はただ、その時を見るだけなんだよ」

 世界の在り方に対しては同じ考えを持っている2人。卓司は以前から行人に対して、ボクと似ていると親近感を覚えていて、ようやく話が出来て嬉しそうでした。だから余計に、もっと早くに(卓司が覚醒する前)2人の会話が成立していれば、彼に「生きる事は、まさに生きる事だ。それ以上でもそれ以下でもない」という事を伝えていれば、何か変わったんじゃないかと思わざるを得ませんでした。教室で歩み寄ることが出来ずに卓司を見ていた行人も「好きだった。」を最期に言われて遣る瀬無い気持ちにはなったと思います。自分の目の前で人が死ぬっていう事に対して感情が湧かなくなったら、生きている人間とは到底思えないですし。

つれだつ友なる二羽の鳥は、同一の木を抱けり
その一羽は甘き菩提樹の実食らい、他の一羽は食らわずして注視す

 卓司が語った詩についても、難解でありながらニュアンスから何となくの理解。つれだつ友なる二羽の鷲は、卓司と行人。世界を食らう卓司と世界を注視する行人。けど、全く違っていながら、同じ様にクソな世界の在り方を"一度は"受け取っている。卓司も元々は世界を愛していた…自分と通ずるとこを見出した上だからこそ、自分とは違う世界の愛し方を示した行人に憧れの様な感情が湧いてきてしまう。その感情から、卓司は彼が好き"だった"んだろう。だから…"生きて"につながるのかなと勝手に思っています。

 リルルとの終幕も、笑顔を魅せた2人にとっては満足のいく終りであり、終りじゃないんだろうから良かったんだと思います。ずっと一緒のおとぎ話の先の世界で彼らがどう過ごしているのか、気になる気もするけど、そこはもう未知すぎる世界なので、想像にお任せします。って事なのでしょう。



6.NuminoseⅠ

 2つあるend√の内の一つで、オリジナルだと彩名endに当たるもの。因みに、"Numinose"の意味は調べたところ、

根源的恐れとしては,宗教的体験による情動として,R.オットーが,その著《聖なるもの》(1917)で,宗教的感情を分析し,神の力や意志,または聖なる力を意味するラテン語のヌーメンnumenから,ヌミノーゼNuminose感情という言葉を作り,その基底に相反する1対の感情が存在することを明確にした。それが畏怖(トレメンドゥムtremendum)と魅惑(ファスキナンスfascinans)であり,心理学者のユングは,人間が心の深奥にある元型にふれる時に,この根源的恐れと魅惑を感じると述べている。

だそう。畏怖と魅惑という二律背反的な要素を内包してるとこがポイントなんかな。この彩名endと後述する琴美endをヌミノーゼ体験として捉えるならば、わからんでもない内容だった気がします。余韻がちょっとゾッとするけど、確かに魅了されるものがあった。

 視点は行人で進み、行人視点で途絶えた7月20日の後の話。だけど、本当はいつで本当はどこで本当に行人なのかもわからず、とりあえず確からしいっていう感じで進むので、ふわふわした雰囲気で進む。
 彩名にも色々と記憶やら体調やらを追及される。

「今は、果てしなき時間の先ではないの?」
「これが最初なの?」
「これが最初の夏休みの一日目なの?」
「それは最初の1999年7月21日なの?」

(中略)

「もし、俺がいままでいた現実世界なるものが終わっていたら」
「あの世界、つまり現実世界と言っていたものは、あの世になる」
「そして、無限という死の世界がこの世となる」
「だってさ、それが絶対に死が存在しない世界だ。死が存在しない世界があるとしたら、それは生きているとは言わない」
「生きるとは死との対比ではじめて生まれる概念だ」
「だったら、死が存在しない世界に、生も存在しない」

 屋上で行人と会う。それがこれまでもあったかもしれない。これからもあるかもしれない。そんなニュアンスで無限ループの可能性を示唆しているのは明らか。加えて、この世界の在り方についても模索し、もしそれが本当なら元々彼がいた現実世界は"終わりがある"ことを意味している。そんなはずないと信じたいし、彩名は地獄には落ちてないと言うけれど、確かめたらいい。と促され、目をつぶるとまさかのHシーン。唐突であったけど、まぁいいでしょう(笑) 裸×ニーソむっちゃ好きなので、正直かなり刺さったし。卓司視点ではひたすら可哀想だったけど、ここでは笑っていて満足げな彩名が良かったです。情景描写の地の文は怖かったけど…。

 そして、そのまま思考テキストと彩名からは「だって――ここがすでに奈落」と告げられ、不穏な何とも言えない感じで終幕…。エンドロール中も何度も雲の姿が変わって見えて不気味だったな…。

たまたま「そうである」事。
たまたま、この世界がこの様な姿であった事。
たまたま、俺が俺であったという事。
このたまたまでありながら、一回限りの比類無き「今とここ」という不思議さ。
「今」である事は、時間的な位置を持たず。
「ここ」である事は、空間的な位置を持たない。
俺はそんな比類無き一瞬において、俺であるのだ。
それは本当にたまたまの必然であり、当然の偶然なのである。
だから、このたまたまの世界が、どの様な秩序を持っていたとしても驚く事はない。
たぶん、これまでと、これからは、いつでも違う。
「これまで」の公理は、「これから」の公理であるとは限らない。
たぶん我々はそんな剥き出しの不条理のなかを生きているのだ。

 ここでの行人の思考は卓司視点で彩名が語ってくれた世界の在り方―特に今という瞬間に対して否定している感じなので、やはりこの√での彩名や行人の人物像に対しては変な違和感を覚えるし、この世界はもう現実世界ではないんだろうと思わされる。けど、一方で"剥き出しの不条理のなかを生きている"っていう点はわからんでもないなと。どこまで追求しても、今の連続といえども、未来というものは予測の域を出ないんじゃないか。そこを突かれ、"もしかしたら…"っていう嫌な側面を強く出したものが、このend√の内容なのかなと思いました。でも、そんな不安や恐怖も含めて受け入れるしかない、っていうのは現実世界(卓司視点の時)で行人が「生きる意志」であると語ってくれていました。生きる事は、考える事じゃなくて、まさに生きる事。それ以上でもそれ以下でもないと。なので、やはりここに帰結するんだなと思うと安心というか、スッキリできる自分がいます。



7.NuminoseⅡ

 2つあるend√の内の一つで、オリジナルだと琴美endに当たるもの。始まり方は一緒で、こっちは屋上ではなく、教室に向かった行人。で、結局逢うのは彩名でした。ここの佇む彩名のCGがホント綺麗で大好きなんですよね。何でもいいからグッズ化して欲しいです。手元に置いてずっと眺めていたいくらい好き。

 話が少し逸れました(笑) ここでの彩名との会話もかなり興味深いもので、永遠…無限…永劫回帰…本当にそれがあるのか?良いものなのか?彼女なりに答えは何となく出ているんだろうけれど、ある意味その望んでいる答えを行人からを聞きたい、彼なら答えてくれるはず。そんな風に感じ取れました。そして、行人はしっかり答え、彩名と言葉を交わしていきます。

「無限の生など俺に想像は出来ない」
「無限などない。永遠などない。だから、俺は夢を見る」

(中略)

「無限なる神の一部だから永遠であるかどうかなど分からない」
「それでも、生は祝福されているからこそ、生への意志を人は持つ――」
「生への意志」
「そうだよ。生への意志とは、つまり自己を愛する事だ。そして自分を赦す事だよ」


(中略)

「生は呪われてる。そして罪深いものだ。だが、同じ様に生は祝福されている。だって俺達は自分の生を赦しているからだ」
「だから、生は祝福されているよ」
「だけどさ――」
「そんな身近な生は、捕まえる事は出来ない」
「我々は、生の匂いも、生の感触も、感じる事ができない」
「生はそこにあるにもかかわらず…」
「だから、人間は、それに至ろうとする」
「それは、回転のようにも見える」
「生へ至る回転運動」
「それを動かすのは、たぶん――」
「生への呪いと」
「生への祝福だ」
「幾億の呪い」
「幾億の祝福」

 卓司に語った、「生への意志」についてもう少し詳しく話を拡げてくれました。そして、最終的には人の生を生への呪いと祝福によって動かされる回転運動の様だと言う。これは、「生きる事は、まさに生きる事だ。それ以上でもそれ以下でもない」に合致する言葉なので、言われてみるとすんなり入ってきます。難しいようで、簡単というか。単純に、人の生は生まれた瞬間から呪いと祝福に支えられて、生きていく。呪いだけでは、生は酷く辛いものになってしまうし、祝福だけでも、生を赦すことができずに世界の有難みというか、愛し方を忘れてしまう(忘れてしまったものはいらないby希実香)。生は呪いと祝福、両方が共存して初めて機能するんだろう。辛いときこそ、生への祝福が目の前に広がっていることを、逆に、幸せなときこそ、生への呪いがそれを(当たり前ではないと)感じさせてくれていることを、忘れてはいけない気がします。

 そんな行人の言葉に対して、彩名は嬉しそうに言葉をつけ足していきます。

「あなたがここで見る夢」
「その夢は」
「あなたと同じ顔をしている」
「それは無邪気に笑う、神さま」
「それは、幾度も繰り返された物語」
「それは、祝福と呪いという二人の子供」
「天則の車輪は、天の周囲をたえず廻天する…」
「それは決して老朽する事なく。子供達は、対をなしてその上に立つ」
「彼らの素晴らしき日々は、"今・ここ"という形で連続する…」
「それこそを永遠の相という――」

(中略)

「行人くんは、自らの生を愛し、そして赦す。同じ様に、世界を愛し、そして世界を赦す」
「行人くんの祝福は、行人くん自身によって与えられる」
「行人くんは祝福されているよ」

 「"今・ここ"という形で連続する。それこそ永遠の相という――」
すばひびでも「永遠の相の下で」って言う言葉が出てきましたが、ここでの彩名の説明の方がしっくりはきました(すばひびである程度理解した上で聞いたからっていうのも勿論ある)。
 というのも、すばひびでのウィトゲンシュタイン的な「永遠の相の下で」は、世界の在り方(存在)を受け入れてから、それでもただ幸福に生きよ!って流れだったけれど、今作のは先ほどの「生への意志」からそのまま来てるので、どちらかというと逆の流れ。「生への意志」があって、それが世界の在り方を受け入れる理由になっている。思想自体は似ているし、然程違いはないんだけれど、生へ至る回転運動を語った行人の人柄も相まって、説明がしっくり来たのは今作のスピノザ的な「永遠の相」でした。きっと彩名も自分では上手く説明できない、このわかりやすさを行人に求めて話を振ったんじゃないかなって気がします。あくまで妄想で感覚的なとこなので、真意はわかりませんが(笑)

 そして最後には、そんな世界を祝福できる行人を好きだといい、感謝を気持ちを伝え、また会えるといいね、と言って彩名はキスをして消えていく…。代わりに姿を現したのは琴美。しかも日付は思っていたのと違う9月1日。彼女が話し出した映画の内容はまるでNuminoseⅠの様な奈落の世界。「ずっと、ずーっと、一緒だよ」と言う琴美の笑顔は、彩名の笑顔とは対照的にどこか不気味にも捉えられて、これまた何とも言えない余韻でした…。音楽も『電波と電磁波の関係』をアレンジした新曲で気持ちいい感じではなかったな…(笑) 結局、彩名は神様の様な存在で、琴美の一部として出てきた…あのやり取りは夢だったのか…そんな気さえします。それでも、神様ではなく「私はこの世界で、水上行人くんに出会えた事を感謝してる」と彩名が言ったこと、この√ですばひびから馴染みのある一つの答えが聞けたことは満足できるものでした。琴美の台詞も個人的には、"深読みできてしまう流れ"になっているだけな気がします(笑)

※オマケ。今作が入っていたボックスに付属の特製ブックレット、すかぢさんへのロングインタビューにて

『素晴らしき日々』と『終ノ空remake』で思想的変換はないのですが、『素晴らしき日々』で解決させた問題を『終の空remake』で再び掘り起こしている。つまり「世界はやはりクソなんだな」っ事ですね。

と書いてあったお陰で上述した「永遠の相」についての考え方は納得できました。確かに開き直ってる感じが強いのは行人だなと(笑)



8.より色濃く出たクトゥルフ神話要素

 オリジナル『終ノ空』や『素晴らしき日々』よりも、今作の『終ノ空remake』はクトゥルフ神話要素がガッツリ出てきました。超常現象を起こしたナイアーラトテップとかですね。この辺りから音無彩名やリルルの正体?についての考察はかなり捗るようになっていました。

 いきなりですが、音無彩名はやっぱりすばひびで感じた時と変わらず、ヨグ=ソトースっぽいなと個人的には思います。でも、ヨグ=ソトース的な"少女"。であって、少なくともあの世界にいる時は音無彩名。それ以上でもそれ以下でもないんだと思います。以下はその判断材料です(他にもあるとは思います)。

 まず、ざくろ視点ではざくろがラスト飛び降りる時の思考より。

大いなる扉の奥底、光を呑み込む真なる深淵にいるお前の醜い姿が。
お前の触手はあらゆる空間と時間を超越して侵入してくる。

 "大いなる扉"、"お前の触手"、"時間と空間を超越"、この辺りからかなり匂います(笑) それにざくろは彩名に対してかなり敵対心を持っていたので、おそらくそうでしょう。

 続いて、やす子視点では田荘の脳をやった時の会話より。

「私は音無彩名。北校の三年生」
「全宇宙を分かち支えたる無始者の形を取る唯一なる魂」
「すべてを知り、そして、すべてを知らない。一であり、全である。少女」

 ここのニヤニヤ顔好きなんだよなぁ(n回目)。"全宇宙を分かち支え足る"ってところと、"唯一なる魂"ってところが、卓司視点で彼女が語ってくれた四次元主義立場からの理論とも一致するので、間違いなさそう。

 最後に卓司視点では、卓司の妄想が切れた後の屋上での会話より。

「そもそも、その気になればすべてを思い出せる私が、いちいち観測することを好み、体験することを好んでいる」
「無限なる世界霊魂の連なりの果てであるものが、これではまるで人間の様…」 

 "すべてを思い出せる"、"無限なる世界霊魂の連なりの果て"、この辺りですね。すべてを思い出せるは、まるでメタ的に世界を認識している様です。あと、霊魂って言葉を彼女から聞くのは初めてな気がするんですけど、人間らしい感じを懐かしんでる辺り、彼女はもしかしたら元々どこかの世界で人間だったのかな。って…あくまで妄想ですが…。

 以上より、特に時空の制限を一切受けない、全てを観測し認識しているところから、彼女は「外なる神」の内のヨグ=ソトース的な要素を持っていると思わざるを得ないです。本人も「ナイアーラトテップではない」とは言っていたので、彼女を信じます。そして、可愛い一人の少女として、行人達の世界に来たのでしょう。

 一方で、リルルや田荘の話で出てきた褐色の綺麗なお姉さんはナイアーラトテップで良さそうです。決まった姿を持たず、様々な姿を取って人間の前に現れるっていう点は一致していて、その人その時々の願望や主観が強く影響しているところも。ラブクラフトの作品より、冒頭では人間の味方のように立ち振舞い、終盤になると人間を見捨てて世界の秩序を破壊して混沌に陥れようとする、って点も通ずる気がします。かなり悪戯っぽい性質を持った神ですね(以下参考までに)

 しかし、「世界の外側はあるのか?」っていう投げかけを利用してか、「外なる神」と呼ばれる架空の創作神話であるクトゥルフ神話を上手く付けたしたのすこぶる相性がいいというか、上手だなと。フィクションだからこそ問題なく機能するし、ホラー感を増すのにもうってつけだし。個人的にもファンタジー要素は好きなので、そういう面からも『終ノ空remake』は楽しめました。



9.さいごに

 今回、『素晴らしき日々』を1月にやって、その後『終ノ空remake』『終ノ空』と3部作やってみて、改めて強烈な作品だったなと。そう思いました。感動もしたし、怖い想いもしたし、笑いもしたし、ただまとめると"強烈"に落ち着くなと。

 どれが良くて悪いとか、そういう比較する訳じゃないんだけれども、魅力的な部分がそれぞれありました。なんか時代的に古い感じ、荒々しさも相まって卓司視点の恐怖感はオリジナル『終ノ空』一番強烈だった。ただ、ビジュアルがお世辞にも綺麗とは言えないクオリティだったし、物語性も結構薄い。薄いというか、投げかけられた感じが強いです。なので、それを元に作成された『素晴らしき日々』はビジュアル面は勿論、圧倒的な物語の完成度で「幸福に生きよ」というメッセージに説得力も持たせていました。由岐や卓司が投げかけに対する答えを示してくれた、ここが強烈でした。そして、『終ノ空remake』では8章で述べたクトゥルフ神話要素の強烈さは文句なしに最強、物語性は『終ノ空』を大分分かり易くした感じで、それに横山やす子視点が増えたことで、投げかけに対する答えが明確に増えたことは良かったと思います。単純にやす子視点だけでも感動できたし。
 また、3部作通じて得られるものとして、音無彩名やリルルの事だったり、彼女達(作品)から問われることに対しての答え(メッセージ)だったりを追求できたのは大きかったです。音楽もどれも良くて、まさか『終ノ空』からあった楽曲もあってびっくりでした。そんな感じで、本当にこの10周年という記念すべき機会に全部やってみて良かったです。

 ということで、何だかんだそこそこの長文になってしまいましたが、ここまで読んでくださった方ありがとうございました。また、改めて制作に関わった皆さん、ありがとうございました。次回作も凄く楽しみですので、応援しています。

 ではまた!

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