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自由になるには、不自由であることに気づくこと

こういう話を書くと
伝わるであろう人が限られるぞー

自分でもよく、まだわかっていないこと
書いて意味あるのかー

んー…
でも書く!


っていう話を今回は書かせてください。


うち、猫さんと暮らしているんです。
4名いらっしゃいます。

で、そのうちの1名。

不思議ちゃんなんですよね…。


猫なんて基本的に
みんな不思議ちゃんなんですけど

いや、その1名だけが特に。
群を抜いて不思議ちゃんなんです。

通常は、ナデナデしようとすると
猫特性のしなやかさを駆使して
全力で手を避ける子で。

スキンシップ拒否タイプ。


だけど
自分がその気になったときには
それはもう…

恍惚の表情と喉鳴らし、ボディランゲージで
スキンシップを求めてくるんですね。

お手々はもう、コネコネしだしちゃって。
ミルキング、っていうらしいんですけどね。

あとはパン職人とか呼称されるらしい。
外国では。
生地をこねる動作に似ているから、らしい。

母猫のお乳をコネコネ、踏み踏みして
搾乳的なことをして飲んでいたという
アレの名残らしいです。

猫さんが甘えたくなるとやる表現の
ひとつらしくて。

たまらんのですよ…この一連の
甘えん坊的な仕草のどれもが…

こういった愛情表現の示し方を
この1名だけが著しく秀でていて。

なぜなのか。

全員家族、血の繋がりのある猫さん達なのに。
なぜ、彼だけが…。

まぁ、性格ってもんかな、なんて
思ってはいましたが

この頃、合気道稽古でエーテル体についてを
取り扱うようになり
気がつくとそのことを考えている事が多くて

ハッ!と点と点が繋がったような気がした。

思い起こすと
この不思議ちゃん猫と母猫さんの2名。
この2名はレッスンをしている
店舗の2階に居てもらう事が多かった。

不思議ちゃん猫はまだ
赤ちゃんの頃。

住居のほうには
父猫とその息子の2名。

そんな訳でレッスン中にも
猫さん達のことが見られるように
2階に続く階段を自由に
上り下りできるようにして、

レッスンの部屋の扉の隙間から
猫さんを見られるように、という
環境でありました。

すると、母猫さんは
レッスン中、レッスンの部屋へは
近づかない。
生徒さんの気配がすると寄り付かない。

しかし不思議ちゃん猫は
積極的に、隙間から
構ってアピール全開。

母猫さんは
知り合いの牧師さんの教会に
ダンボールに入れられて捨てられていた子で。

あんまり人慣れのする環境で
育たなかったこともあり
あまり人に対して心を開くことを
容易にするタイプではない。

不思議ちゃん猫は
産まれて間もなくから
店舗で、人と触れるというか

隙間から人間を知るという行為が
日常化していたので
人に対して恐怖心などを
感じていないのでは、という雰囲気。

なぜ、彼をレッスンスペースに
自由に行き来させないかというと
人が外に出入りする際に
脱走させてしまう恐れがあるので

心苦しいけれど
どんなに鳴いても
扉を開けてやることはしなかった。

それで、

ここからです。

前置き長いんですけれどね。

一緒に遊ぼうよーーって
鳴いても、入れてもらえない。

手で隙間から
触ろうとしても触れない。

そんな彼は
愛情表現や構ってアピールが
とても豊かな表現力を持ってして
表すようになっていった。

こんなに一緒になりたがっているのに
その願いを聴き入れてあげられないことが
切なくて申し訳なくて仕方なかったですが…。

そんなにもアピールしても
構ってもらえない彼。

だけど隙間からは
愛情を伝えあっている
コミュニケーションは取っていました。

物理的には触れ合えないが
何かなんともいえない 
気持ちのやり取りをし合っている。

すると彼は次第に
声にならない何かで
訴えかけ始めたわけですね。

目で訴えたり、
瞼の動きで気持ちを表現したり

サイレントニャーしたり

更には音でもなく動きでもないような
なんとも言えないものを放ちだすんですよね。

なんとも言えない何か。

あれ。

あれはエーテル体を
なんか、どうにか、何かしらしていたのては?と。 

彼は、未だにナデナデするよりも
声をかけるよりも

気持ちを投げかけると
すごく興奮して
瞬時に甘えん坊になってしまう。

触れられないけれど
隙間から「だいすき」を
伝えていた時に

彼からも、同じようにそれが
返ってきていた。

これねぇ………

エーテル体っていうか
気、っていうか。
想念、っていうか…。

うーん。


わたしもこれ
物心ついた時から
この感覚をよく使ってきたんですよねぇ…。

物理的ではない
気持ちを表現する手段。

これまた思い起こすと…
わたしの育ちの話になりますが。

下町。

密集した民家の
せせこましい住宅環境である実家。

夜に歌おうものなら親から咎められるわけです。

でも歌いたい。
叫びたい。

で、声を出さず
叫んでいたわけです。
熱唱しまくっていたわけです。
いーっつも。

CDをヘッドホンで聴きながら
自分は声を出さず熱唱。

エアギターならぬエアボーカルです。

他にも、ストレスがたまれば
暴言を叫んでいました。

ふざけんなあああああああ!!!!と。
声に出さず。

楽しいことがあれば
楽しさを叫んでいた。声に出さず。

それからそれから、
小中学生にして
深夜ラジオのリスナーになり
夜な夜な面白い番組を聴いちゃあ
爆笑していた。声を出さず。


声にならない声を出す。


どういうことか想像つきにくいですかね…
この話。

たまに、
笑いすぎて声でなくなってる人
いるじゃないですか。

もう、息できない!苦しい!みたいな。

あんな感じのやつです。

特にCD田中。
もう息ができなくなるほど笑った。
未だに大好物。

深夜ラジオでは本当に
苦しくなるほど笑わせてもらって
本当に救われてた。

大衆向けでなく
マイノリティの集まりに参加している
あの感覚がたまらなく心を
ほぐしてくれていた。

そんなワクワク感と爆笑。
その高揚感たるや
身体で現すのなら七転八倒。

でも、声を出してはならない状況である深夜。

でも心から、腹の底から叫びたい。
という心境だったので
息を吐く音を立てずに
声帯閉鎖を皆無としての吐息。

ハァァァァー、という
音すらも立てない、息を吐く音。

それを腹の底から思い切り
全力でやる、という。

その修練期間となった学生時代。
図らずも、いいトレーニングになっていた。
ブレストレーニング。

いわゆる腹圧トレーニングとか
丹田トレーニング、
あんな感じのことをできていたのでは…と。

これ、この声帯閉鎖を起こさずに
腹の底から全力で吐息、って…

激しく多量の息を吐こうとしても
出るのは湯気だけ、みたいなことになる。
風を起こすような息でなく。

これ…
中心帰納の感覚とリンクするんです。

中心帰納っていうのは…
合気道で自分を調える感覚、のようなもの
なんですけど…

その感じ。

歌う時もこの感じ。

ていうか
中心帰納して歌ってる。

めちゃくちゃ集中してるとき。
瞑想の時も。 
雑念に縛られていない時は
これ、この感覚。

 
うわー、なんか
これあとで消すかもしれない
この投稿。

なんかまだ自分のなかで
しっかりと論拠もないし
フンワリとボンヤリと
そんな気がする〜っていうことを
書いています。

でもさ
読んでくれている方、
なんとなく伝わりましたか?

集中してるときって
息止めてる、みたいになりませんか?

あの、息止めてるのに
薄く薄く吸ってるし吐いてるし、な感じ。
だけどめちゃくちゃ深い呼吸、な感じ。

めちゃめちゃ集中しているとき
あの感じ、なりますよね、ね!ね!

固唾をのむ、な時とか。
極上の美味を味わっている時とか。

雑な呼吸でなくて
必要最低限でありながら
濃密な呼吸をする、みたいな。

あの呼吸のときって
舌、舌骨筋群は
上顎を支える正しい位置になっている。

ざっくりいえば下顎の筋肉で
上顎を支えている。
つまり頭部を持ち上げている。

だから、頚椎は重さを支える部位という
役割から解放されて
自由に動くことが出来る。

そして、その状態であれば
頭部が沈んておらず
極端な言い方をすれば、
若干浮いているような状態となる。

頭を軽くしている状態。
頭の重みを支えるのを
頚椎に任せず、全身を使って、やる。

こうすることによって
頚椎がガチっとした使い方ではなく
揺さぶっだり、しなやかに使うことができる。

重たい頭を支えるばかりの
自由度のない使い方ではなく。

頚椎に自由が利くということは
頚椎と密接な関係にある舌も自由になる。
 
舌は喉と繫がっている。
ここが自由であれば歌う時
不自由さがない。

頭を軽い状態にさせてやると
思考も軽くなる。
本当に。これ言い広めたいくらい。


そして喉は横隔膜と繫がっている。

しゃっくりとかヒック!ってなるから
わかりやすいよね。

というか繋がっていない場所など無い。
全てが繫がっている。

さっきから
繫がっている、繫がっていると
表現してきたことは
隣り合っている、のほうが適切かも。

とにかく、人間の身体に
繋がっていない場所など無い。

指一本動かすにも
指一本だけの筋肉さえ動けばいい、 
なんて動き方を生物はしないですよね。

しかし、その繋がり感を切るのが
不自然な作為的行為。
過緊張、ストレス、恐怖心。

本来は繫がっているのが当然。
それを思い出す。

身体や精神が不自然さに傾いているとき
いま自分は繋がりを断つことをしているぞ、と
気づきを入れること。

そして繋がっていない動きをさせている
理由、思考をつかまえること。
すべてに気づきを入れること。

そして不自然なものがあった、と
気がつくことができると
わざわざ取り除こうとせずとも
自然に戻っていく。

それが自然、というものの法則性。
それに任せる。委ねる。
 
自分の状態に
いつも気づきを入れていくことで
自然に、自然な自分に戻っていく。
思い出せる。どんな時も。

何か訳のわからない
ストレスを受けたことによって
反応してしまうことに
人生を費やすことを終えられる。

今の自分は何を感じているか。
常に気づいていきたいですよね。

それが自由の入口だと思うんです。

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