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性を解放、に尻込みした話

最近聞いた話で
尊敬の念を抱いたエピソードがあって。

そのエピソードを
シェアしてくださった方のことを
ここでは、ーーさんとさせていただきます。


ーーさんは自身の解放を
あらゆることを通して進めていくうちに

自分自身が性へのタブー視を
強く持っていることに気づいたという。


多いと思う。

それ。その想い抱えている人。


だけど
そんなん抱えていて当たり前過ぎることだし…と

アンタッチャブルで当然、てな具合に
放置してしまうものだと
フンワリ捉えていたので

わざわざ解放しようと思うのが
まず、すごいなぁと思った。
 

だけど、ーーさんは、それを見過ごさずに
性の解放に取り組み始めてから

今や、自身がセミナー講師となり
伝え始めている。

いや、すごいな。

すっごいな、それ!って
いや、本当にすごい。

ちょっと取り組んでみました、どころの
話じゃなくなっちゃってる。

すごい、というか
余程の突き動かされるものなければ
できないことだと思うので

よっぽどドンピシャだったのだろうと思われます。




タブーとしている、ということは
本当はそのタブーとしているものへの
憧れや欲求、興味関心があるからこそ
押さえつける必要があるという事なんだよね…。

別に何の興味関心もなければ
わざわざタブーとする必要はないんだから。

自分が、本当は腹の底から
必要としているものを
必死で禁止しているからこそ
タブー、なんだよね。

「本当は好き」というもの。
必死で閉じ込めているタブー。

それらと向き合って
しかもその発信を自分の名前や
顔も出して大々的に行っている…。

それ、自分の人生そのものを
愛したいという信念や
覚悟、決心が伴わずやっていたら
ものすごい苦業でしかない。

だけどその話をしてくれるーーさんは
キラッキラ瞳輝かせていて
何か喜びが溢れているようだった。

すごい。すごい。
すご過ぎる。

当初はーーさんの発信しているものを
目にした時に面食らった。

あ…そっち系なんだ………

ちょっと…ごめんなさいソッチ系苦手です…って
正直思いました。ごめんなさい。
わたしゃヘタレです。



ーーさんのことは親しい思いで
仲良くさせていただいているけれど

どうも、性の話題となると……
どうしても。拒否反応っていうか。
なんなんでしょう。
怖さがあるのだろうか。

そんなこと人目に触れて
やっていたら人に嫌な思い与えちゃうよ!

とか

きっと周囲から嫌われるよ!

とか

それはさすがに怒られるよ!
なんて思いもあるなぁ。

それとも、そんなに興味深いことを
大っぴらにやっていて羨ましい!
ずるい!という気持ちなのだろうか。


うーん。

人から嫌われる、って
その「人」って誰なんだろう。
「周囲の人」って誰なんだろう。

「嫌われる」って
何が、どうなったら「嫌われる」という
結果を達成していると感じるのだろう。


それ、自分の中の
「ちゃんとしていないとダメな自分」
からの声なんだろうな。

そんな、ちゃんとしていない
自分は嫌いだよ!とか


人からどう思われるか、って
自分が自分のことをどう思っているか、と
もうイコールと言っていい。


わたしが、人から
「やーい!キュウリ!」
って言われても
何にも感じようがない。
傷つきようがない。

え…キュウリ、だと思うの?
あなたはわたしのことを…?
さいですか…

ってくらいのものだと思う。

だけど

「やーい!低収入!」
って言われたら結構痛い。
自分でそう思っているところに
クリティカルヒットだから。

自分が自分のことを
何だと思っているのか。
何者だと思っているのか。

本当に、本当に、本当に
一番大事だと思う。

その、他の誰でもない
自分の抱いている自己像に
相応しい世界が展開していくのだから。 

いや、世界をその自己像に
相応しいものとしての捉え方を
するしかないのだから。




話は戻りますが

性、って………
本当タブー視してるわぁ、わたしも…
と、かなり触発と言うか気付かされたんですよね。

どう取り扱ったら良いかわからない。

昭和生まれは多いよねそういう人。

そもそも、自分が女性なのだということが
取り扱いきれていない。

そういえば、かつては
下の名前で呼ばれるなんて事は
まずあり得なかった。

小学生のときに
不意に下の名前で呼んでくれた
クラスメイトに対して

思わず、感情的になり
絶対に下の名前で呼ばないでと
強く言い過ぎてしまって
自己嫌悪したことを良く覚えている。

女の子としての
扱われ方がどうにもしっくり来ず。

当時は、そこまで
思い詰めていたほどではないけれど
男性になりたいと思っていたりもした。

というか、自分が女性であるという
納得感がいまひとつなかった。

科学で解明できないだけで
本当は、自分は男性かもしれないと
結構真剣に思ったりもしていた。

自身のセクシャリティを
自由に選んでいいなら
男性になっていたかもしれない。
世が世なら。




それぞれ、自由でいいんですけどね。

わたしが思うに
男として、とか女として、といったことが
根本原因ではなかった。

自分の存在というものに納得が
いっていなかった。

違和感があった。

何で生まれてきてしまったのか。
何かが間違っている。
おかしい。
生きるのしんどすぎる。

何がいけないんだ、
あれが悪い、これが悪い…

と、理由を探していた。

自分というものを
大切にする、愛するとか
大切にされる、愛される、とか
わからないまま生きていると

どうやったら大切にできるのか
愛することができるのか

周囲からもそのように
扱ってもらえるのか

まだ十代だった頃、
精一杯の知恵を絞って考えていくと
「自分が自分でなければ幸せなのに!」
という考えに至るしかなかった。

この時代に生まれて来なければ
この家に生まれて来なければ
女性に生まれて来なければ…

自分の存在が、いま自分の置かれている
環境ではしっくり来ない。全部違う。
だから、おかしいんだ。と。


周りに対しても全部違和感。
自分が自分であることに対しても違和感。

つまりは
今、ここ、以外に生きれば
きっと幸せになれる!と
本気でそう信じていた。

だから、何もかも捨てて
海外で暮らしたりしたいなぁとか
考えたこともあった。

今の自分すべてを覆すほどの
自分ではない何者かになる。
それが幸せなのだ、と。



自分を変えよう、と行動してから
そういった思いは和らいでいった。

人生を変えたい、と飛び込んだ
専門学校に入ってからは
みんなが呼びたい名前で呼んでもらえることが
嬉しさへと変わった。

結構、女の子扱いされるようになり
それもとても嬉しかった。

最初は戸惑ったけれど男女比率
9:1みたいな環境では
女性であるということが

自分のアイデンティティとしての
一番先頭に来てしまうものとなってしまって。

自己確立できていて
強い芯があれば、そんなものは
鼻でフン、といなすのだろうけれど

何しろ毎日が地獄の日々からの脱却であった
新たな学校生活では
人から好意的に扱われている感覚は
細かいこと抜きに、とても嬉しかった。

女の子扱い、というものも
楽しんで体験してみることができた。

そんな頃から、わたしの呼び名は
主に下の名前を
用いたあだ名が多くなった。

名前…わたしの呼び名って
本当に把握しきれない。


高校までの友人は
わたしの旧姓の名字を用いたあだ名で
わたしのことを呼び

それ以降仲良くなった方は
下の名前で呼んでくれて

結婚をして名字が変わってからは
新しい名字で呼ばれるようになり

音楽活動で知り合った方は
さくらさん、とわたしを呼ぶ。

面白いなぁ。




はい。また話が飛びましたが

最近、自分の女性性を解放するかのようか
機会に恵まれることがあり…。

とあるワークショップのようなものに
参加をした際に

鏡の前で身体を優雅に動かしたりする
動作をしたのですが…

恥ずかしくて
とてもじゃないけど
自分のことを直視できない。

心地よく身体を動かせない。
恥ずかしい。恥ずかしい。とても。

講師の方は
ため息の出るような美しい動き。

女性として生まれてきた喜びが
そのまま表現されているかのような…

なめらか。
曲線。
角がない。
流れるがまま。

もう、自分のことはそっちのけで
その動きに見惚れているだけで十分だ、という
気持ちになってしまっていた。

だけど、せっかくの機会なのだから!と
見様見真似で動いてみるのだけれど

動きを止めたくなる。思考が。

恥ずかしくて恥ずかしくて。

上手に講師の方が
誘導してくださるままに
やってみるのだけれども

ガチゴチ、変に緊張が走るから
腰やらなんやらが突っ張って痛くて。

身体が心地よさを、なかなか許可してくれない。

鏡越しに映る、講師の方の
うっとりとするような、なめらかで美しい所作。

そのすぐ横で、顔を引きつらせて
豊作祭りのような踊りをする
ガッチガチで必死な自分。

恥ずかしい………。

もうこの時、脳内では大ブーイング。


え?!お前が?!
肥満体で顔引きつらせて
美しく優雅に?!
大噴飯wwwwwwwwwww

と、まぁ
ニコ動のコメントの嵐みたいな状態な
騒がしい脳内。

やってみたい…という思いと同時に
強烈に、やめとけぇえええ!!!という
ブレーキがかかる。


いや、無理だってお前には!
美しく、とか
女性の喜びを表現、とか…!

歩くラードじゃん、もはや!

今までだって散々
身体動かす無様な動きを
馬鹿にされて笑い者にされてきたんだから
もう、やめとけって!

と、まぁこんな罵詈雑言の嵐です。
いやー、酷い酷い。我ながら。

脳内ではそのようなブーイングの嵐。

自分を取り囲む観客から
引っ込めー!ブスー!豚踊りー!

って生タマゴぶつけられちゃう感じ。


………
 
こんな罵詈雑言を読んでいて
胸を痛めた方もいるかもしれません。
ごめんなさい。

でも、止まらないんですよね。
そんなもの聞きたくないのに。
自分の脳内で、やんややんやと。

歌うのが苦手な方は
歌う時にこんな感じで
「変な声!下手くそー!」
とか、脳内で大ブーイングが
起きているそうですが…

わたしも、正にこの時
ひとつひとつの動きに対して
罵声浴びせられまくりになってしまいました…。




だけどだけど…


わたしは、やってみたかった。
不格好でもいいから、
最善を尽くしてやってみたかった。

解放!!!!って。



騒がしい脳内の声を放っておいて
講師の方の誘うがままに委ねていくと

心地よくなってきて
何とも言えない、穏やかさや
安らぎを感じて

次第にその気になって
楽しんでしまっている自分がいました。

ワークを終える頃には
もう、思考が静まっていて
心地よさに浸ってしまって
ぽわーんとした感覚がたまりませんでした。

合気道の稽古時とそっくりの感覚。

ぽわわわわ〜〜ん…。


わたしはこの感覚を
あまり知らずに生きてきたようです。

自分の身体で心地よさを表現することで
感じられることが
こんなにも安らぎを覚えるなんて…。

歌うのとはまた違った…

自分が使ったことのある意識や
身体の操作とは違うものを使ったような感覚。

人間、得意不得意があるけれど
過去に作ってしまった
苦手意識や、痛みを避けたいものが
不得意となっていくんだよね。

だから、本来の自分には
得意不得意、好き嫌いなんて無い。

本来、すべて何の色付けも無いものなのに
生きていくうちに身に着けていった
自己、とか社会性やら
過去に受けた痛みを避けたいが為の
行動を求めていく。

喜びを感じたいが為の行動も、
過去得た喜びをまた感じたくて、という
行動動機が隠れている。

もしくは、
妙な恐れなどのエゴがうるさくなければ
好き嫌いなく、何事にも着手しやすい。

好奇心、というものが旺盛になるはず。


直接的な性の解放というものでは
なかったとはいえ

自分が女性であるということで
なめらかな動作や
独特な表現ができるということの喜びは
体験してみたことによって
初めて得られるものがありました。

自分に与えられたものを
感謝して存分に味わって、表現して
生きていきたい。


改めて、そう思いました。

まだまだ解放し続けたい。自己というものを。



そうそう、そうだ!

レッスンに来てくださっている方に
メイクアップアーティストさんがいて

一度、メイクレッスンを受けさせて
いただいたこともありました。

数ヶ月前のことなのですが…
「眉毛」の
ポイントメイクレッスン。


わたしは………


化粧ってものは
習ったことなどないし

本当に適当でした。

デパートとかで
化粧品販売員の方に
メイクをしてもらったりとかも、ほぼ無し。

昔から、どうやって
産業廃棄物みたいなこの顔を
誤魔化すか…

それしか考えていない
メイクしかしてこなかった。

アイプチしたり、つけまつげしたり。
更にマスカラ塗って。

アイラインでグリングリン
目の周り囲ったり。
目の化粧だけが命だった。
これ奪われたら外に出れない。

災害時とかどうしよう、って
本当に恐れていた。

この悲惨な造形がどうしたら
マシになるのか、それだけだった。

いや、今はそんなふうに   
思っていないですけどね。思えないです。

自分のことを愛すべき相棒だと
心から、腹の底から思っているので!

まぁ、以前はおそらく
醜形恐怖症ってやつだったと思います。
長いこと。

ブスすぎて鏡割っちゃったこともあった。
ブスすぎて家から出られない、と泣いたりね。
これはよくあった。

いくら化粧しても
ブスが終わらないから
家を出る時間に間に合わなくて。

どうあがいても
化粧して美人になるわけではなく
ブスが化粧して更に汚いブスになるだけ、という
現実に泣いていたwwwwwwwww

いやーーー!!!わはは!!!!!!
笑っとこ!!!!!!!
悲惨なエピソードすぎるから笑っとこ!!!!!

いやー、悲惨。

かと言ってプロの方に
教えを請うこともしてこなかった。





若かりし頃…誰もが知る、
日本屈指、天下の有名デパートで
働いていたことがあり

化粧品販売員の裏と表の
裏側のほうを休憩室で
嫌というほど見てきたので

奴らには絶対に近寄ってはなるものか、と
妙な思い込みを築き上げてしまったんですよね。

今思えば、化粧品販売員さんたちは
休憩室で休憩していただけのことで。

休憩室でも、接客時のように媚びへつらう
必要なんかないし
普段通りの彼らの姿、
人間味のある姿で当然なんですけどね。

常に、しのぎの削り合いみたいな
戦場である売り場で仕事して
休憩室では毒吐いたり、ストレスフルに
なっても仕方なかったのだろう…と思います。

ただ、周囲にイライラをぶつけてきたり
トイレ割り込んできたり
鏡の前陣取って化粧してたりと…

彼らのことを、仲間内が総じて
物凄く気に入らなかったのは確かだ。
ケバい姉さん方のことが、すんげー嫌いだった。

へへ。言っちゃった。時効ですね。




そんな事はさておき
メイクレッスンですよ。
メイクレッスン。

まずはお手本に、と
講師の方が
わたしの顔に手を置いて…

アイブロウブラシで
ス、ス、ス…と…

眉毛を書いてくれる…


ス…………?!?!?!


と、電撃走りましたね。


わたしの今までのタッチって…一体…。

ズッ!だったかもしれない………。
少なくとも、講師の方の
繊細な絹糸をなぞるかのような

ス…………


といったタッチでは、決して無い。

優しく優しく丁寧なそのタッチに
謎の涙まで出そうになるほど
感銘を受けてしまって…

優しいタッチ……。


わたしゃあ
毎日毎日何をしてきたんだ……………


と、そのまま
地面へと這いつくばりたくなりました。

教わったとおりに
ス…ス…ス……………と
優しく優しく描いてみると

気持ち良い………!!!


メイクって…
気持ち良いものだったの?!

楽しい………


しかも仕上がりは
エクセレントぉおおおおおおお!!!!!!

なんじゃこりゃあああああああああ!!!!


眉毛の書き方教えてもらお〜っと♪
な、スタンスから
こんな展開が待ち受けていたとは!!!

感動のメイクレッスンを終えて
それ以来、メイクをすることが
楽しくなりました。

自分を愛でる、というか
優しく扱う、という時間になったんですねぇ…。



さて。

合気道を習い始めたのと
ジャーナリングコミュニティに参加したのが
ほぼ同時期の昨年、秋口のこと。
あと座禅会。

その辺りから
自分自身に変化が著しく起きています。

身体を動かすということや
本音での、人とのコミュニケーション
自分理解を深めて、自己表現をするということ。

2023年の折返しを過ぎて
ここまで、かなりハイペースで
進んできた実感があります。

さて。

ここからは
そろそろ歌のことを
重い腰を上げたくなってきています。

自分の声と向き合うことに
時間を使うことが、この頃増えてきました。

レッスンのことではなく
自己表現としての自分の歌に
向き合っていきたい、と。

わぁ、言っちゃった。
わざわざ宣言したみたいになっちゃった。

いや、ただ歌う時間を
一日の中に増やしたいという
それだけのことなんですけどね…!

マイク、新調してみました。

そんな訳でnoteの更新が
毎日ではなくなりそうです。
もしくは、短編な記事になったり。

とか言いながら

お前は、まーた長いのばっかり
書いてんなぁ〜

と、いうようなものを
更新するかもしれませんが…。

つい先日も更新せずに、
一日開いちゃいましたが

こんなペースで、お付き合いいただけたら
嬉しいです。これからも。



話を冒頭のものに戻すと
自分のタブーとしているものを
解放する、という話。

自分は歌が下手なのに
気持ちよく歌うなんておこがましいとか

そういった思いを抱えている方…

そのタブー、解放したら
ものすごい変化が起こります。

裏を返せば

本当は気持ちよく歌いたいのに
自分は歌が下手だから
そんな願いを抱いたらいけない、
調子に乗っちゃいけない、
恥ずかしい、

とか

そんな思いがあるのでは?と思います。

失敗しないようにとか
ああしなきゃ、こうしなきゃ、と
思考バリバリで歌う歌は
気持ちよくもないし
上手くも歌えないと思います。

たとえば
サーファーが、実際の海の波を読まずに
ただ自分の脳内であれこれ思考して
ホイ!っと波に乗ろうだなんてしませんよね。

自転車に乗る時に
重心バランスを感知しながら
ペダルを漕がなければ
運転することができません。

歌も、そうです。

音を感じて、自分のうたごころと
音とを合わせて波に乗るんです。

波があるんです。
感じなければ、感じられない波が。

そして、その波に乗り、
バランスを感知しながら運転するんです。
歌うんです。

そうやって歌う歌は
夢中になれていて、歌い終わってから
「あれ?不安を感じなかった!」
と気づきます。

夢中だから、問題に気づきません。

そもそも問題なんか無いのに、
問題を作るというようなこともしません。

自分のタブーを解放すると
自分が自分であることが心地よくなります。
自己否定から解放されていきます。

自分が生まれてきた喜びを感じよう!
といったものよりも

自分を縛っていたものから
解放されていけば
自然と自分が生まれてきたことへの
喜びを感じている自分が現れてきます。

というか
自分を縛っているものを
なすがままにしながら

自分の喜びを追求しても
自分は縛られたままなのですから

またすぐに不自由さにあえぐことになるのは
目に見えていますよね。 

解放、だけだと思うんです。
自由になるには。










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