見出し画像

人間、笑うようにできている。





画像、うまく反映できているのかな。
見れましたか…?
twitter過去投稿の転載です。

しゃれこうべ。
髑髏。頭蓋骨。

笑うのがデフォルトにできているんですよね
人間って。

感情どうこうのはなしではなく。

たとえ、どんなに
めちゃくちゃブチギレている
鬼の形相であったとしても

肉をめくってみれば
めっちゃくちゃ笑っているっていう。

これ面白くないですか。

もう、人間って笑うことが前提というか
もう、笑っているのに
あれやこれやと修行的に人生を生きて
しかめっ面したりして。

もう、笑っているのに。
もう、解放されているのに。

笑っちゃえば解放されるのに
しかめっ面して解放されたいともがいている。

自分の内側である
本体そのものと一致すれば完成なのに
本当の自分を探しに
世界中探して自己の未完成を嘆いている。

笑うとは、はらう。手放す。

人間のあらゆる執着を生む
肉体を脱いだら笑顔なんですね。



無表情のふりしてみたって、
この髑髏の与えてくれる身体使いのイメージと
内部感覚の一致をさせていくと
頭部がふんわりと浮いていきますよね。

あと、良い香りを嗅ごうとすると…
画像のように、鼻の空洞の形状通り
縦で上方向に鼻、嗅覚を使っている感覚になる。

すると、頭部が浮かんでくる。

眼球による視覚運動によって
物体を捉えるという「見る」動作ではなく

この空間に満ち満ちた素粒子を観ずるというか
自分もその素粒子レベルになり
溶け合っているような感覚であれば
「観ずる動作」になるはず。

眉間が持ち上がり、いわゆる
サードアイを用いたような格好になる。
これも、内部感覚としては
頭部が浮いている。

耳の穴の鼓膜で音を察知している、
というのではなくて

自分の後背部あたりの音を聴こうとする、
つまり、物理的なイメージによる
聴覚の駆使ではなく
音を観じようとする耳の使い方をすれば
間違いなく、頭部は浮いている。 

これだけ挙げてもキリがないほど
頭部のフワリとした感覚は
表現者にとっては必ず大切にしたいもの。

わたしはこれに加えて
ものすごい独特な自分だけの
聖域的な感覚を用いているのですが
出し惜しみしておきます。

誰か聴いてきてくれたら
直接お伝えします。
ネットには載せたくない。へへへ。

誰にも触れない、自分だけの
神聖な宮殿とでも申しますか…
そんなような物がある、感覚です。

とにかく、

感覚優位になっていたら
間違いなく頭部はふんわりとした
体感覚になっているはず。

そして、エネルギーを放てば
それに伴って揺れる。
揺らそうと思って揺らすのとはまた違う。

ペコちゃん人形とか
赤べことか、あの感じ。

一度揺らすと
ビヨーン、ビヨン、ビヨン…と

はずみの動作ですね。バウンド。


横方向に揺らしながら 
歌うことが、できる人は
まず頚椎をロックするような
緊張が走っていない。 

つまり、舌骨筋群も同じく。 

すなわち、舌や喉がたおやかに使える状態。
だから、発声に不自由がない。 

大抵、緊張がある状態で
歌っている人の頭の動かし方って
ガッチガチです。
ごめんなさい。厳しい言い方で。

でもガッチガチなの。

頭の重みでバウンドとかできないの。
コルセットはめてる人が
頭動かすみたいな動きになっちゃってたり。

はずみが使えていない。

首を固めたまま
胴体を沈めているだけ。

人間の構造上、緊張状態では
首を横には振りづらいものになっている。

はい!以外は発言してはいけない、みたいな
洗脳、戦後教育によって使い慣れてきた
身体使いでは首は縦にしか振れない。

よって、はずみがおきない。硬い。

NOが言える心理状態における身体感覚は
クビを横にユサユサと揺さぶることができる。
はずみも上手く使える。

はずみを起こせる状態
ゆらぎを起こせる状態

つまり、恐れに自分を任せていない状態。
洗脳、ハッキングされていない状態。自由。

ハッキング、という表現は
自分独自のものでありますが
わかりやすいと思うんですよね。

自分の思いにかなった自分ではなく
恐れや不安に動かされてしまっている状態。

怖い言い方をすれば
憑依されているとも言えるかな。


恐れや不安、つまり思考にハッキング
されている人には、
自らの手のひらで頭を包みながら歌う、
ということをやってもらってきた。

ハートに手を当ててもらったり
ハラの感覚を呼び覚ましたければ
ハラに手当てをしながら歌う。

手当て、というと語弊がある。
手のひらを用いて感覚優位に
なっていただきたいという狙いと
手のひらを感じる身体になってもらって
「感じる身体」になってもらいたい

そのような意図がある。
生徒さんにそんなことは伝えないけれど。
感じる身体になってもらうことは必ずしている。

ここに辿り着くまで
いろいろ、いろいろいろいろいろ
言葉を尽くして伝えてきたけれど

結局、言葉で伝えたって
言葉で理解してもらっていたら

思考が暴走する燃料を
ホイホイ投げ込んでいることに他ならない、
と気づいて頭を抱えた。

だから、もう手を当てるのが
一番早かった。感じること。

思考を止めるために思考してもらう
まぁ禅問答みたいなものではなくて
感じる身体になってもらうこと。

そして、感じる身体になっていれば 
思考は止まっている。

思考を止めようとするのは
エゴによる働きで、泥試合。

コントロールそのものがエゴによる働き

つまりエゴをエゴでコントロール、という
エゴの戦争は終わり。

それは簡単なことで、
ただ感覚優位になること。
感じること。
感じている時に思考はできない。
思考優位になれない。
感じている時にはエゴは身を潜める。

前回の稽古でも
釘宮先生が参加者それぞれの頭部を
手のひらで包んだ時に

わたしのレッスンと
おんなじことしてるーーー!!!!!!!と
驚いたけど、逆に言ったら
当たり前なことなのかも。

頭にはお休みしてもらって
自分本体の、本来の、自然の働きによる
身体操作がしたいのだから。

頭は不安、心配、により沈む。
フンワリとさせてあげたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?