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気づきは内側からしか起こせない

手に入れてやろうだとか
目論んだわけでもなく、

何も難しいこと無く
感覚的に理解したことを
人に教えるということはとても難儀なことだ。

その逆に、
どうしたらいいんだ!と身を捩って
頭をひねって

ああやっても、こうやっても
どうしてもできなかったのに
できるようになったという人は

そのプロセスを
いつかの自分と同じように苦戦している人に 
教えて差し上げることができる。

わたしは…
歌うことについては
正直、上に記したタイプ分けでいくと前者なので

どうやって教えたら良いのか悩みながら来ました。

そして、何故これが出来ないのか…
自分の感覚ではわからない
理解できない、と悩み

相手の感じているものを読み取ることに
精を尽くしてきました。

自分の伝えようとしていることが
伝わっていない時 

それは相手が
自分のことを相手が理解していないからだと
結論付けてしまったら
相手を弱者に仕立て上げてしまうんですよね。

できない人、という見方をしてしまう。
そして、その見方をされている側の人は
肌でそれを感じてしまうし

「観測者効果」ってものを
わたしは信じているので
ネガティブなラベリングをして
相手を観測しない。

それだけは一番気を付けている。

相手から「必ずできる」とか
「可能性」を見出すことだけに
力を注ぎ続けたいんです。
 





自分がラベリングして観測した通りの
現象が起きる。

しかも、
自分が先生という権威がある立場上
その力は更に強く働く。

生徒さんも、ある種の暗示に
かかってしまうような状態の場なのだから

良くないラベリングを
与えてしまうことだけは避けたい。


…………というのは
わたしが習い事をするたびに

散々、それをされてしまったという
やるせなさというか怒りのようなものが
あるんですよね。


できない、ということが
ただの事実としての認識であれば
「今の自分にはできないのだ」
と知ることができたことは、
素晴らしい収穫になると思うんです。

でも、教える側の人間が
生徒さんのできないことに対して
個人の感情的なものを織り込んだ
ジャッジをして当てつけるのは
単なる八つ当たりに過ぎないんですよね。

その八つ当たりを受けて
成長ができるのは、よっぽど
努力忍耐根性のある人。

その上下関係による
気味の悪いSMプレイみたいなもので
互いにwin-winになっちゃうケース
往々にして発生してしまうんですよね。



先生側は、
しっかりしごいて教えてやった!と満足して

生徒側は
今日もしっかりしごかれて成長した!

と、欠点探しして八つ当たりしたい人と
欠点直しして、カワイガリを受けたい人の
凹凸がうまいことハマっちゃって。


で、肝心な本質的なことは
置いてきぼりで
テクニックを磨くということをやる…。

本質的なところを
一緒に探求するナビゲーターで
良いと思うんです。教える側は。

「ゴールはこっちだよ!」って示す役で
良いと思うんです。

だって、内側からの「気づき」が
起こらなければ
どんなに答えを教えたり、与えたとしたって
全く意味がないから。

教わっても本当に理解することはできない。
真の気づきが起きなければ。

だから、教えるということは言い換えれば
気づきを起こす場を作る、
それだけで良いと思うんです。

というか、それが一番難しいし
その追求こそが有意義であると信じています。







良いところや、個性、
可能性をとことん伸ばすことが
一番大切ですけれど

相手へのジャッジを含まずに
というか、私的な感情が含まれていないもの

つまり事実としての「できない」ということを
伝えるのは
全く何の問題も無いと思うんです。

「できない」ということにプラスして

「そんなんじゃダメだ」
「なんでできないんだよ」
「下手だなぁ〜…」

とか、ジャッジを向けていたら
間違いなくそのジャッジを向けられた側は
その通りになっていく。

これ、前述した「観測者効果」ってやつですよね。

言葉にして相手を下げるようなことを
伝えたのなら尚更
そのように育っていくし

言葉にしなくたって
嫌なものを向けられている時
人は肌で得も言われぬ不快感を
感じてしまうものだから。

相手へのリスペクトを
絶対に失わずに接するということが
人との相応しい距離感なのだと思う。

距離がおかしいから
相手への不満が出るんだから
自分が相手への距離感の取り方を
見直す必要があるのだということなんだよね。

これを間違えるからおかしなことになる。




わたしは人に教える、というか
伝えるということを
仕事にさせてもらえているおかげで
人に教えることができるようになっていった。

やり方を伝えることから始まり
「そういうことじゃないんだな」と
気が付かせてもらってきた。


ちょっと細かい事を言ってしまえば
教える、という概念も
本当は違和感があるんですけどね。

シェアしたい、とか
この感じを渡したい、とかじゃないと
成り立たないことって
あるような気がしていて。

もちろん、教えるということも
素晴らしいんですけれどね。

本当の教えるという事って
「愛する」だと思うんですよね。
自分のすべてを相手に渡したい、っていう。


でも、教えるっていう
言葉に染み込んだ概念のおかげで
「教える」という言葉の奥には

「すごい人」とか
「無知な人にわからせてやる人」

というものを感じてしまうんです。どうしても。

そんでもって、気をつけていないと
自分がしっかり教えているのに、
しっかり理解しない生徒さんが悪いとか
妙な考えを起こしそうになる自分がいる。

いや、これまでに
そういう道を通ってきたんですよね。
傲慢になって、自分が正しいとか
相手が悪いとか…やるんです、気を抜くと。

そんなもの、自分が心地よい距離やフィーリングを
大切に保てなかっただけなのに。

瞬時に理解しているかどうかで
学びの質が上がるわけではない。

瞬時に理解できなかったからこそ
通る道があり、
その道でなければ
気づくことの出来なかったことが必ずある。


問題なのは、自分に伝えていることを
理解してくれなかったと感じて不快になり、
その自分の不快を他者のせいにしてしまう、
ということ。

それは、つまり
自分の心地よさや不快も
左右するのは他人なのだ、と

自分の主導権というものを
他人に預けているという
甘えが起こしているんですよね。


これ。


これなんですよね。



相手をどうこうするのではなく
常に自分を磨くというか
自分を知る、自分の内側を観続ける。
そして「感覚そのもの」になる。

「その感覚そのもの」に
動かされるがままの身体でありながら
理性的に動く。

これが自分と一致しているということなのでは。
やらねば、でなくて
やりたい、であったり
突き動かされるように生きるということ、なのでは。

これは、歌も中心帰納(合気道)でも
この感覚がすごく大切だと感じています。

その真理には、やはりというか
もちろん普遍性があり
人と人とのコミュニケーションにも
もちろん通ずるもので。

そして、大切なことは
「自分はどうしたいのか」ということに
常に気づくことだと思うんです。

現状が望ましい状態でないのであれば
自分にとって望ましい状態は
どのようなものなのか

そして本当の自分の望みとは一体何なのか。
常に知ろうとすること、
己に問うこと。

本当の本当の本当の望み。
わたしは今、何を感じているの?
どうしたいの?と問いかけること。

そしてその問いかけに答える
小さなささやきを聴き逃さない
大きな耳を持つこと。

これがいちばん大切なこと。

そして、教わりに来てくださっている方にも
そのように問いたい。
本当のあなたの望みはなんですか、と。

言葉は違えど、
その問いが自ずとフワリとやってくるように
仕掛けていきたい。

もしくは、自分で
そのような問いを立てられるような
流れを作っていきたい。

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