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『愛する人に伝える言葉』(エマニュエル・ベルコ)パターナリズムとインフォームドコンセント

 シンプルなストーリーでありながら見事な構成で、終始感動しきりでした。たとえ語り尽くされたかのように思われるストーリーであっても、構成次第でその滋味は汲み尽くせぬものになる好個の例かと思い、無粋を承知で考察してみたいと思います。

※作品の内容および結末など核心に触れる記述が含まれています。未鑑賞の方はご注意ください。

 物語は、主人公バンジャマン(ブノワ・マジメル)が自らの死を徐々に受け入れていく過程を描いているので、紆余曲折はあっても、それ自体、単線的でシンプルです。そのシンプルなストーリーを支える構成は、ミッドポイントを境に前半、後半でドラスティックに変化します。それぞれどのような構成なのでしょうか。


ドクター・エデ(父)とバンジャマン(子)

 医師と患者の関係は、ある種のパターナリズム(父権主義)とも言われ、その非対称性は圧倒的です。しかしドクター・エデ(ガブリエル・サラ)の治療方針は医師主導のパターナリズムではなく、患者の自己決定権を尊重するインフォームドコンセントに基づいています。

 映画前半の構成は、バンジャマンの演劇ワークショップと、ドクター・エデのチームカンファレンスを並行して描くことで、二人の非対称性ではなく対称性を描こうとします。この対称性があって、片や、四季の移り変わりを見せ、日差しの入る大きな窓のある医療チーム、片や、日の一切射さない地下の演劇チームというコントラストが際立ちます。
 面白いのは二人の対称性を描くはずのワークショップとチームカンファレンスの中で、二人がそれぞれ教師(と生徒)、チームリーダー(とメンバー)という非対称性におさまっている点です。この入れ子が魅力なのですが、その点に関してはまた後で触れるとして、頭から順にみていきましょう。

 映画は、チームカンファレンスでの看護婦の発言から始まります。彼女は、たった10分その場を離れただけで夫の死に目に会えなかった妻の嘆きを報告し、彼女もまたやりきれないのだと訴えます。患者は、自分がいつ死ぬか、そしてその時誰にいてほしいか、を選ぶことができるのだとドクター・エデは言います。その患者(夫)は、妻との別れを終え、一人で死にたかったにちがいないと。
 これは、ラスト、母クリスタル(カトリーヌ・ドヌーブ)が病室を離れたそのときに主人公が亡くなることを予告しています。

 一方、バンジャマンのクラスでは、別れを告げる恋人たちを生徒が演じています。演技のよそよそしさを指摘するバンジャマンに、相手をよく知らないのだから、よそよそしくなるのは当たり前ではないかと生徒が問います。それなら相手を知ればいいと答えるバンジャマン。別の生徒から、別れを告げながら相手を知るのかとツッコミが入ります。
 これは、父のことを全く知らないバンジャマンの息子、レアンドル(オスカー・モーガン)が、父との初めての対面と同時に死別しなければならないラストを予告しています。
 
 このように二人の対称性の場であるチームカンファレンスとワークショップは、その構図を似せているだけではなく、それぞれシンプルなストーリーを入れ子状(ミザナビーム)に配していて、特にバンジャマンにとってそれは自らのストーリーを客観視する場となっています。自らを客観視すること、自らの似姿を見ることで、「そうだったのか」という気づきを得て乗り越えることができる。ゆえに、バンジャマンはドクター・エデの治療を受けようと決意するのです。


バンジャマン(父)とレイモンド(子)

 ワークショップでバンジャマンは生徒に演技なんかするな、自分を解き放てと嗾け、怖いのかと問いかけます。怖れるなと生徒を叱咤した後、バンジャマンは嘔吐します。自分自身に毒づいていたのですから、いわば自家中毒です。それが証拠に、この後バンジャマンはエデに恐怖に効く薬はあるかと問いかけます。
 死ぬとわかっていることと、死を受け入れることは違うのだから、誰でも死は怖いとエデは言います。ここがミッドポイントとなって、バンジャマンが死を受け入れていく過程が描かれるのが後半です。そしてドクター・エデと並行して描かれていた前半の構成もここで変化します。

 ドクター・エデに代わってバンジャマンと並行するのは、彼の息子、レイモンドです。死を受け入れるのに戸惑うバンジャマンと、父親を受け入れるのに戸惑うレイモンドが対称的に描かれます。

 思い出してください。ドクター・エデとバンジャマンの最初の面談が物別れに終わったのは、治癒の可能性を失いたくないバンジャマンがドクター・エデに、医師としてパターナリズムを求めたからです。
 父であること(パターナリズム)を拒んだエデ(父)の元に戻ってくるバンジャマン(子)の姿は、かつて父であることを拒んだバンジャマン(父)の元にアメリカから単身やってくるレイモンド(子)の姿に重なります。
 たとえインフォームドコンセントのもとにあっても、本当に死を受け入れるまでに長いプロセスがあるように、たとえ病院まで、すぐそこまでやってきても、父親と直接対面できるまでには時間が必要なのです。頭ではわかっていても、すぐそこまで来ていても、あともう一歩が踏み出せない。

 このように後半は本当の父と子であるバンジャマンとレイモンドが並行して描かれます。
 その二人が同じ飛行機雲を異なる窓から眺めます。その描写があるからこそ、そのすぐ後、ドア越しに、ドアノブに手をかけるレイモンドと、その気配に気づくバンジャマンのカットバックが胸を打ちます。そこでは、そのドアが開けられることはなく、父と子が視線を交わすことはありませんが、私たち観客は、そこに確かにイマジナリーライン(絆)を見るのです。それを用意していたのが二人が見た飛行機雲というわけです。


最高の長回し

 死を受け入れたバンジャマンは、母、クリスタルに、ドクター・エデに、そしてユージェニー(セシル・ド・フランス)に別れを告げます。病室のギタリストにNothing Compares 2 Uをリクエストして病室を出るクリスタルをキャメラが追いかけます。彼女がトイレに入ると360°パンして出てくる彼女を正面で受け、ひっぱります。この長回しの間、薄く聞こえ続けていたギターの音色が不意に途絶え、クリスタルは察します。私たち観客もまた、ここで冒頭の死に目に会えなかった夫婦のエピソードがこれを予告していたのだと察するのです。
 部屋に戻ると、バンジャマンは亡くなっていました。クリスタルは息子の死に目に会えませんでした。ここで私たちはドクター・エデの言葉を思い出し、バンジャマンは一人で逝くことを選んだのだと了解します。
 その直後のレイモンドの姿に、動揺しない人がいるのでしょうか。見事だと思います。そしてこの最高のサプライズを用意したのが、(ミスディレクションを誘うエデの言葉だけではなく)長回しであったことに留意すべきでしょう。決して技巧を凝らした長回しではありませんし、それほど長くもありませんが、これほど長回しであることに意味のある長回しはなかなかありません。(それだけ、ただ長回ししているだけの長回しを誇る映画が増えたということかもしれませんが)


父と子(パターナリズムとインフォームドコンセント)

 監督のエマニュエル・ベルコは、次のように言ってます。

メロドラマを作りたいという長年の願望と、カトリーヌ・ドヌーヴとブノワ・マジメル用の脚本をもう一度書きたいという思いから、息子を愛する母親というアイデアがまずありました。

「愛する人に伝える言葉」公式HP

 たとえ当初のアイデアがそうだったとしても、結果として、母と子ではなく、父と子の映画になってしまったというのがとても映画的だなと思います。もちろん依然母と子の映画として見ることもできます(母と子の映画でもあります)し、あのカトリーヌ・ドヌーヴなのですから宣伝としてそうせざるをえないのも理解できます。映画鑑賞前に父と子の話だと思って観た人はいないのではないでしょうか。
 しかし、当の監督、エマニュエル・ベルコも、カトリーヌ・ドヌーヴもまた(父と子の映画ではなく)母と子の映画だとは思っていないでしょう。二人からそう目配せされているように思うのは、気のせいでしょうか。




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