見出し画像

映画技法講座1「上手と下手(動き)」

 ずいぶん前にブログで書いた記事ですが、いくつか動画リンクが外れていたり、多少修正もしたかったのでnoteにて改めて公開したいと思います。

「人の横顔」を描いてくださいというと、あなたは左右どちら向きの横顔を描きますか?

 もちろん例外は常にありますが、圧倒的に左向きの顔を描く人が多いはず——面白い統計があります。画家が描く肖像画を調べたものです。自画像では、右向きが多く、他人、特に女性の肖像では左向きが圧倒的になるそうです。レンブラントに限って言えば、自画像は57点中、右向きが48点、左向きが9点で、女性の肖像(被親戚)は66点中、右向きが14点、左向きが52点だそうです。(参考 鈴木武『街と都市の空間配置 -左右の位置の意味一』

画像1

 ここから導き出されるのは、自分に近いものは右向き、自分から遠いものは左向きに描かれるという傾向でしょう。

 さて映画の現場では、右、左という言い方はしません。例えば、キャメラ側から(キャメラに正対している)俳優に、右を向いてください、と言っても、キャメラ側から見て右なのか、俳優側から見て右なのか、判然としないからです。
 右だの左だのという指示は、話者と聞き手が等方向を向いていない限り、そこに誤解が生じてしまいます。そのような混乱を避けるため撮影現場では、キャメラ側から見て右を上手、左を下手と呼ぶことになっています。
 これは客席から見て舞台の右を上手、左を下手と呼ぶ演劇の慣習に由来しています。

舞台には上手から下手に風がゆるやかに吹いている

 とは、劇作家、別役実の言葉ですが、彼は『別役実の演劇教室 舞台を遊ぶ』の中で、「目に見えない空間の癖」のようなものが舞台には存在し、「舞台には上手から下手に風がゆるやかに吹いている」と述べています。これはそのまま映像にも当てはまります。

 走るだけの人物を、いろいろなサイズで撮影したカットをそろえて、動きの方向を統一したものと、カットごとに方向を変えたもののふたつを見比べる実験です。フィルムの長さは両方とも同じにします。
 これを映写して見比べると、同一方向の動きにまとめたフィルムのほうが、あきらかに三分の一ほど短く感じられたものです。
 次に、右から左に方向が統一されたもののほうが、左から右のものより短く感じます。そして、方向性を逆に取り混ぜたものが、一番長く感じるのです。

富野 由悠季『映像の原則―ビギナーからプロまでのコンテ主義』

 と、このように、舞台であっても、スクリーンであっても、上手から下手に風が吹いていて、追い風になる上手から下手の動き(順路)の方が、向かい風になる下手から上手への動き(逆路)よりも速く感じられると結論づけられます。

『スーパーマリオブラザーズ』に代表されるような横スクロール型のゲームでは、プレイヤーキャラクターのほとんどが、向かい風(逆路)の方向性、つまり、下手から上手に動きます。ゲームという性格上、敵に立ち向かいクリアしていくわけですから、向かい風がふさわしいでしょうし、プレイヤーキャラクターは、まさに自分に近いものであるわけで、自画像に右向きが多いように、上手向きであるべきでしょう。上手に相対する敵キャラクターは、プレイヤーにとってまさに自分から遠いものと言えるわけです。

オールド・ボーイ

 ここでようやく映画から実例を紹介します。まずは『オールド・ボーイ』(パク・チャヌク )。主人公のオ・デス(チェ・ミンシク)がハンマー片手に単身殴り込みにいくシーンを見てみましょう。動画にはスパイク・リーによるリメイクの同シーンも収められています。

画像2

 オ・デスを横移動でフォローするこのショットは、もちろんセットでなければ(壁を壊さない限り)撮影できません。つまり、セットなのですから、進行方向は上→下(カミシモ)、下→上(シモカミ)のどちらでも可能であるにもかかわらず、下→上の向かい風(逆路)の方向が採用されています。
 これは、横スクロール型ゲームの理屈と同じと考えていいでしょうし、むしろ横スクロール型ゲームのイメージで撮影されたシーンなのではないでしょうか。
 一方、そのリメイクであるスパイク・リー版では、その逆、上→下(カミシモ)の追い風(順路)で撮影されています。役者もセットも全く違うので、ニュアンスの違いを即方向の違いにつなげるのは無理があるかもしれませんが、参考にはなるでしょう。

Modern Love

 次にDavid Bowieの『Modern Love』を使用した映画のさきがけ、『汚れた血』(レオス・カラックス)の名シーンを見てみましょう。

画像3

 これも下→上(シモカミ)の向かい風(逆路)で撮られています。もがくように疾走し、ときにフレームからはみ出そうになるこの動きには向かい風がふさわしいでしょう。

 そして『フランシス・ハ』(ノア・バームバック)。

画像4

 この『汚れた血』のオマージュは、オリジナルと進行方向が逆です。ここにはもはやアレックス(ドニ・ラヴァン)の身悶えはありません。描かれるのは、上→下(カミシモ)の方向、文字通り追い風に乗って走るフランシス(グレタ・ガーウィグ)の軽やかさでしょう。

 そして執筆時点で『Modern Love』シリーズのしんがりを務める『スウィング・キッズ』(カン・ヒョンチョル)。

 はじめは順路のダンスと逆路のダンスで、対話/対立するかのように描かれますが、一度は踵を返したドアを蹴破り、ロ・ギス(D.O.)が外に出ると、二人のダンスは共に逆路をたどります。
 資本主義社会に生きる私たち観客は(自画像に右向きが多いように)逆路のヤン・パンネ(パク・ヘス)の側から、順路の共産主義、ロ・ギスにアプローチし、時には対立もしながら、対話します。そして「魔法の靴」を履いた二人は、共に"fucking ideology"と向かい風の中進んでいくのです。しかし、音楽が止まると同時にその魔法も解けてしまいます。現実にはドアを蹴破れなかったロ・ギス、脱げてしまった「魔法の靴」。(これは、この映画全体のミニチュアバージョンだと言っていいでしょう。まさにミザナビームと呼ばれる入れ子構造になっているのが見事です)
 

時をかける少女

 アニメの場合はどうでしょう。『時をかける少女』(細田守)で、踏切のある商店街の坂道がどのように描かれているか見てみましょう。

画像5

画像6

 坂上が上手、坂下が下手に描かれています。上るのに抵抗がある上手への動きは、向かい風(逆路)。勢い良く転がり落ちる下手への移動は、追い風(順路)。
 監督は「映画のダイナミズムは坂道に宿る」と発言していますが、その坂道のダイナミズムが「上手から下手にゆるやかに吹いている」風に支えられていることがわかります。(少なくとも『時をかける少女』に出てくる坂道のシーンは全て、この方向性が守られています)
 アニメですから、セット撮影の『オールド・ボーイ』に同じく実際の環境に左右されることはありません。左右に、なにを配置してもいい、左右、どちらに動かしてもいい、そのようなときに、上記の傾向(ダイナミズム)を知っていれば迷うことはないでしょう。

 とは言え、アニメやセット撮影のできるビッグバジェットの映画でない限り、このような設計は難しそうです。しかし、だからといって上下(カミシモ)を蔑ろにしていいわけではありません。上下(カミシモ)は、映画にとって方向指示器の役割を果たすからです。

方向指示器

『いま、会いにゆきます』(土井裕泰)で、主人公、巧(中村獅童)がオフィスに向かう朝の描写と、帰宅する同日の午後の描写を見てみましょう。どちらも同じ橋の上で、登下校する同じ女子学生とすれ違います。

いま、会いにゆきます

 行きも帰りも上→下(カミシモ)の方向性で描かれているので、帰宅時の光景ではなく、日替って翌日の朝の光景かと観客が混乱してしまいます。もちろん程なくそうではないとわかりますが、この混乱は観客にとって、ノイズでしかありません。
 では、なぜそのようなことになったのでしょう。上図を参照してもらえばわかるように、帰宅のシーンが、橋の逆側(Xの側)を使って撮影されたからです。ゆえに、上下(カミシモ)=自宅とオフィスの位置関係もまた逆転してしまいました。
 橋の同じ側(○の側)で撮影されていれば、このような混乱は起こらなかったのに、です。キャメラカーで並走して撮影しているため、同じ車線を逆走できず、やむなくこのようになったのでしょう。だからと言って、このノイズを看過することはできません。ことほど左様に、方向指示器としての上下(カミシモ)に、私たちは左右されるのです。

Left or Right

ポン「私は『時をかける少女』をソウルの映画館で観たのですが、おもしろいうえにヒロインの痛みや悲しみを感じるほど、映画の中に吸い込まれたことを鮮明に覚えています。私は垂直的な空間が好きで、映画の中に高台や階段を登場させることが多いのですが、『時をかける少女』では坂道が重要なキーになっていることにも興奮しました。あのようなロケーションのモデルになる場所も、細田監督は徹底して探されていますよね」
細田「坂道のようなヒエラルキーを視覚で表現することは、とても映画的だと思います。そこに人間関係や、その時の人の気持ちが象徴的に表れるんです。『パラサイト』でも、階段の存在がコンセプチュアルで映画的な空間を作っていますよね」
ポン「実はスタッフの間では、『パラサイト』を“階段映画”と呼んでいます(笑) 」
ポン・ジュノ監督×細田守監督の相思相愛な対談が実現!『パラサイト 半地下の家族』の本質に迫る

 細田守が「坂道のようなヒエラルキー」即ち、斜めのダイナミズムを求めているのに対し、『パラサイト』のポン・ジュノは、「階段映画」とは言ってはいても、斜めではなく垂直のダイナミズムを求めていると思われます。つまり『パラサイト』は、上下(カミシモ)の水平方向ではなく、上下(ジョウゲ)の垂直方向に展開された映画と言えるでしょう。
 しばしば『スノーピアサー』が『パラサイト』の習作として言及されますが、その『スノーピアサー』は、確かに『パラサイト』が描いた上下(ジョウゲ)の垂直方向のヒエラルキーを、上下(カミシモ)の水平方向で描いています。下手(Left )が列車後方、上手(Right)が列車前方で、主人公は下手から上手(逆路)に進みます(≒『オールド・ボーイ』)。そして主人公が下す全ての決断は、上手か下手かの選択として表現されているのです。


いいなと思ったら応援しよう!