映画『オッペンハイマー』の補助線:スティムソンの「京都」発言
ついに日本公開が決まった『オッペンハイマー』ですが、試写会などもスタートし、制作側の「何かの答えを提示するためでなく、議論を呼ぶことを目的とした」という思惑通り、日本においてもやはり、既に賛否双方の声があちらこちらから聞こえ始めています。
わたしとしても制作側の意図は尊重して、この作品については自由に議論されるべきで、いろんな理解や解釈があっていい、という立場なのですが、やはりプロットが複雑だったり、日本人からするとやはり馴染みの薄い世界の、半世紀以上前の話、ということもあって、誤解や見逃しが発生することも多々あるだろうなぁ、という気もします。そこも含めて何を受け取るのも観る人次第、とは思うのですが、とはいえ、この先の一般公開に向けて、「せっかくお金と時間をかけて観るなら、誤解はしたくないなぁ」と思う方もいらっしゃると思うので、僭越ながら多少の「補助線」を用意できれば、と思います。まずは既にSNSで多少の話題になった、暫定委員会による「原子爆弾投下目標に関する会議」のシーンのスティムソン陸軍長官(当時)の発言について。
スティムソンの「京都」発言問題
※核心的ネタバレではありませんが、作中の1シーンについて詳細に触れています。
劇中、マンハッタン計画の最終局面で、陸軍長官であるスティムソンとマンハッタン計画の中心人物たちの間で「原子爆弾の完成後、それをどうするのか」という会議が開かれます。その中で、スティムソンが投下予定候補地のリストを取り出し、そこから京都を除外する、という一幕があります(より正確に言えば、既に除外されている京都が、手元のリストにまだ残っているので消し込む、というシーン。)
SNSでこのシーンが話題になっているのは、「アメリカの劇場で、このシーンで笑いが起きた」という話がきっかけになっているようです。
「〜ようです」というのは、その騒動は、わたしは自分でしっかり追ってはいないからなのですが、今改めて検索してみても、確かにそういう話は出てきます。そして、それに対して「笑うところじゃない」「けしからん」という二次的反応もちらほら。
とりあえずまず、そのシーンをちゃんと確認してみましょう。
当該シーンの実際について
このシーンでは、マンハッタン計画を推進しているオッペンハイマーとグローブス、その他の面々に向けて、スティムソンがリストを取り出し、目標地候補は12都市、いや、11都市だ、京都はリストから外した、と述べ、さらにその理由について付け加えるのですが、そこで笑いが起きた、それが許せん、とかそういう話になっているんですね。
このシーンの実際のセリフは以下の通りです。
このシーンについて、
とかそういう話が出ているわけですね。なるほど。
このシーンの解釈について
ちなみに、個人的な体験で言うと、わたしがこの映画をアメリカの映画館で4回観た範囲では、別に誰も笑ったりはしてませんでした。その上で、笑う人がいたとしてもまぁ驚かないな、という感覚はあるのですが、それはこのシーンをギャグシーンと受け取ってそれで笑った、という事じゃないんじゃないか、という気も同時にしています。まぁ人それぞれなんで、このシーン見て純粋に爆笑する人もいるのかもしれませんが、個人的には笑った人がいたとしたら、むしろ失笑に近い笑いだったのかと想像します。
このシーンは劇中にいくつかある、オッペンハイマーが「《現実》に直面する」シーンの一つなんですよね。彼と共に計画を推進していた、どちらかといえば《現実》側の立場であるはずのグローブスよりも、さらにレイヤーが一つ異なる(オッペンハイマーからすれば、さらに一枚分ズレた)世界が立ち現れる。自分の信じた世界、その向かう方向の先として原子爆弾を開発していたオッペンハイマーが、その爆縮レンズの収束点に向かっている「ライン」は一つではなく、さらにその先に伸びていくのも、彼が見ていたその一筋だけではないということが明らかになるシーン。
そして、このシーンの「新婚旅行」の一節は、実は現場でアドリブ的に付け加えられたものだということを、クリストファー・ノーラン監督自身が認めています。スティムソンを演じたジェームズ・レマーが、自らスティムソンについてリサーチをした上で彼が妻と二人で京都を訪れていることを知った上で提案したアドリブです。ちなみに元の脚本はこうなっています。
最後のト書き部分に注目して欲しいんですが、「新婚旅行」のラインがなくても、元々このシーンはスティムソンがその場にいる面々に「Unease」な空気を発生させることになっているんですね。政府筋と、軍部と科学者たち、という三軸を考えた時に、その間にある「断絶」を描くシーンと言っても良いかと思います。そのことが作品として観る者に何を伝えるか、という話はさておいて、つまり、描かれたものの意図ということはさておいて、描かれているのは、スティムソンに代表される「アメリカ政府」が、マンハッタン計画の当事者たちとも断絶していること、ではあるだろう、と。
ちなみにこのシーンはこの直前のグローブスのセリフも凄くて、科学者たちの立場、その中でのオッペンハイマーの立場、軍から来ているグローブスの立場、アメリカ政府の立場、それぞれが、あの狭い部屋で同じ会議に参加しているのに完全に「分裂」している、なのに時計の針は進み続け、後戻りもできず、歴史が通った道を観る者は否応なく辿っていくしかない、という、これはもう本当に「観てください」としか言えないシーンなんですが、とりあえずそれはさておき。
シーンの構造と連続する解釈のレイヤー構造
このシーンに、このアドリブが加えられることによって、このシーンは元の脚本より、若干、複雑なレイヤー構造を持っています。図にするとキャッチーで分かりやすいんでしょうが、面倒なので箇条書きにしてみると、
スティムソンが妻と京都に旅行に行った、という事実
それが新婚旅行であった、という作劇上の設定(ここは事実関係未確認)
それが原子爆弾投下目標の選定において「Also,」と言って間を置いた上で言及される
という作品構成のレイヤーがあった上で、
それを受けて、「原子爆弾投下目標の選定で京都が候補から外れた理由の一つが、スティムソンの個人的な新婚旅行の思い出である」と作品が設定している、とする解釈
あるいは「それが原子爆弾投下という深刻極まりない会議の中で、場違いにも口にされた軽口」とする解釈
という解釈のレイヤーがあって、その上記二点の間にグラデーションがあると思うんですね。劇中のスティムソンの中で、新婚旅行がその決定に0〜100でどのくらい関係しているのか、ある程度関係しているとした上で、それを公に口にしているのか、実は結構関係しているんだけど軽口的に言うことでそれを多少誤魔化しているのか、とか。そしてさらに、そのグラデーションのどこかのポイントを自分の解釈とした上で、それをどう思うか、という反応が最終的に出力されるわけです。
ちなみに補助線ということで言うとやはり、このシーン、このセリフの直後のカットがこれなんですよね。これだけ見てもアレなんですけど、実際にシーンを通して見たときに、スティムソンからこのカットに切り替わる瞬間、何を感じるか、というのがこのシーンのキモだろうな、と思います。
まとめ
鑑賞者があるシーンをどう解釈してどう反応するか、というのは本当に観る者の自由だと思うんですが、とはいえ、それにあたって、史実というものがあって、それに基づく(あるいはそこから逸脱する)劇中のリアリティというものがあって、その上に書かれるセリフがあって、それを演じる役者の演技があって、それを捉える撮影があって、それを最終的に作品にする編集があって、本当に改めて深掘りすると数限りない構成要素がある、ということを踏まえた上で、先入観抜きにそれを受け取ること、というのは非常に大事なことだと思うんですね。
もちろん、受け取った上で、自分が元々持っているもの、自分の背景、自分が住む国の事情、歴史、世界観、そういったものをぶつけて最終的に何を思うか何を言うかは本当に個人の自由なんですが。
ちなみに、この作品を日本で観る我々には、さらに「字幕」と言うレイヤーも被さってきます。このシーン、字幕でかなりニュアンスが左右される気がするんですが、果たして、どんな字幕になるのか。
『オッペンハイマー』日本公開は3月29日です。ぜひ皆さんも、劇場でご自分の目で見て、耳で聞いて、体で感じてみて、その上で、色々考えてみていただきたいと思います。そうする価値のある作品です。