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昔の自分に言ってあげたい言葉を探す

それが、私がいつも
誰かに助けを求められた時にやることでした。
数奇なるかな、私の人生はクズが多かったそうですが、私の気の強さはスカーレット、人の好さはコニーだったので、自分の気持ちを結構無視して生きてきました。だから生きてるんだな。

でも、いつだったかな友達が、いじめの話を聞いた時に「つらかったね」と言いました。
当時の私は「虐め方が低級だ」と思っていましたが、その言葉は引っ掛かりました。
そう、「つらいこと」はありました。言えます。
気付いてないように振舞ってきただけだった。
どうやら私は鈍いらしいので。

では私に最初に呪いを与えたとされる、母の言葉を。それを聞いて傷付いた私を。
今の私が言葉を掛けるなら、何をするだろうかと。

当時は分からなかったです。まあね小学生にもならないような幼児に、大人の事情なんか分かりません。
「役に立たない」「気が利かない」まあ罵詈雑言たくさん頂きましたよ。気を利かせても大丈夫って言うくせにね、そこで身を引いたら役立たずなんですよ。何しても否定されるのよ。
23歳まで愚直に仮面を被って生きてきたから、その言葉の意味を23歳にして漸く聞くことが出来ました。

薬の副作用で気性が荒くなる。
その八つ当たりだったろうから、覚えていないと。

母が服薬しないといけないのは、身体障害者だからです。
本人は断固として「あんたのせいじゃない」と、発症原因が私の産出ではないと言いますが
原因ではなくとも、一端ではあると理解している。
それにもう23歳です。
ブッキングして見える「役立たたず」と言う母の表情に、助けてくれないと書いてあったのは分かります。

不運なことに、父を含め、うちは男系家族。
そして考え方が古い。
家事は女がするものだから、居間でヘソ天で寝てるわけです。クソ邪魔
お皿を運ぼうか?とも言わない。机拭いとくね。とも言わない。醤油差し足しとくよ。とも言わない。

全部。身体障害者の母がやる
透析帰りで苦しい時にですよ。母さんから聞いた話では「透析はね、フルマラソンを4時間全速力で走ってる感じ」だそうです。
フルマラソン4時間全速力で走った身体障害者が台所に立つのが当然だと

母さんが私に八つ当たりしたのは、私が女だからというわけではなく。
私しか分かろうとしてくれなかったからだろうと、態度が言ってます。私が居ないと頑張れない。
その延長線で、八つ当たりが起きてしまった。

もちろん、私が何も思わないわけはありません。
23で意見が出ないほど温室で育ったつもりはない。
母さんが私に向けた言葉は、確かに、刃であったでしょう。
だってイジメでつらかったとか分からなかったクソ鈍い私が、ハッキリと傷付いたのです。

メルストしてるとね、家庭持ちの人もかなりいるじゃないですか。
私はそういう人たちに、必ず言ってきた言葉があります。
「どうぞ、お子さんを心から愛して差し上げてくださいね。」

私が愛して欲しかったからかと言われると、そこはよく分かりません。
ただ、愛されていないと傷付く気持ちだけが残っている。
それだけは、1人でも多く、避けて欲しいと願った。


さて話を戻しましょう。
母に酷い言葉を投げられ、その意味も理解出来ず、ただ否定されて為すすべもなく、泣き寝いるだけの小さい私です。いや身長変わってないけどな。(そうじゃない)

苦しかったなぁ。
つらかったなぁ。
「私の意志で産んだのよ」という割に「役に立たない」と言うのです。さすがに矛盾しているのは分かります。
普通の子なら「生まれなければよかったんだ」とかいくんでしょうか?しかし私は母の意志を疑っていなかったんですよ。
なので、斜め上をいきまして
私は道具として生きるものなんだ』と行きました。ぶっ飛んだよなぁ。

でも未だに思ってる。今この瞬間もです。
心からの親切心としての「助けたい」と、呪いとしての「役に立つ道具でなければならない」は共存してます。すげえな。

私は道具。
私は道具。
道具に心は要らない。
役割を果たして───廃棄されるのを待つだけ。

神代シリーズfirst

久しぶりに読んだな。読みたくないのか。
まあ私の作品は大体が『いつかの私の嘆き』です。直視したくないものもあるでしょう。
でもそれは裏返せば、『こうして欲しかった』が書いてある。

今でこそ完全記憶能力ではとか言われますが、実は記憶喪失に6回くらいなったことがあります。家族は知らないけどな
日記であったり、当時ならmixiだとかGREEだとかありましたし、メルマガなんかもあったので、私が『私』を引き継ぐのはそう時間を掛けなくても出来ました。その歪みからタルパ生まれたかもしれんけど。

忘れる可能性がある、つらい記憶。
そう、私の記憶喪失は全回において「心理的起因」による忘却です。何かショック強過ぎたものがあったんだろうね。
そういうものを、忘れない為に筆を執ってきました。この悲しみが、この苦しみが、いつか誰かの心を包めるなら、無駄ではないと。

だというのにまだ存分に振るえないとは、年齢が泣きますね。何やってきたの。いやまあ機能不全家族の相手してきたけど。
自分の近くにいる泣いてる人を救えずして、誰を助けるなどお口達者な馬鹿になれましょう。
それは家族だけではなくて
私にも向けられるものだったかな。まだ見たくないけど。

……。
悩むほど信じたい(願望)相手を、信じなくてよいとは言えないね。嫌がられるだろう。私は嫌がる。
でもその『呪詛』を
「肯定しようとしなくていいよ」とは
言えるのだろうか。

『呪詛』と言われるのも嫌いでした。
腐っても親です、悪様に言われたら腹が立ちます。
毒親だと言われては傷付き、酷い親だと言われては失望し、いや私ホントにね
高校2年までは愛想笑いすら出来なかったんですよ。
学校てさ、クラスで集合写真撮るじゃないですか。

一旦体から力を抜く。
口角を上げる。それから目を開く。
斜視の分少しだけカメラから視線を逸らす。
そのままキープ。

卒アル見てもね、高2より前の私の笑顔って作り笑いなんですよ。どう見ても。
高校と大学は転換期だったので、まあまともに笑えてるでしょうけど。

自分で色々試しました。
友達の悩みを解決するために、色々考えました。
でもねいつもみんな綺麗事ばかり。耳が腐りそうだ。
何が欲しかったのか何も分からない。
今だって「誕生日プレゼント何がいい?」って聞かれても「わからない」しか返せない。
まふゆみたいに「あんた分からない以外に言えないわけ?」とか言う絵名もいない。

この「分からない」は
どうなりたいかわからない ではなくて
どうしたら否定しなくていいのかわからない
そうなのかもしれないと思うと
躍起になって親の言葉を嘘ではないとしたがっていた私は、確かにいる。
『役立たず』を肯定したがっていたと言い換えてもいい。

その言葉を無理に肯定しようとして、私は苦しんでいたり、していなかっただろうか。

まあ今は割とどうでもいいんですけど
23だから10年前か。
いやさすがに若さがなくなってきたね。

でも、だからこそ、忘れないように書かないといけない。
誰かが苦しんでいるなら、かける言葉だって考えていける。すぐには出てこないのが玉に瑕ですが

誰かの傷付いた心を、包めずとも。
包める誰かに表現していけたなら。
伝えていけたなら。
それで誰かが笑ってくれるなら。


私の涙は、無駄ではなくなるのだろうね。

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