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自分のこと1 0歳~9歳

全部貼れなかった。
今この景色無いんですよね。勿体ないなぁ。
見に行ったら変わり果ててました。

10年前くらいの伏見稲荷大社


さて、希死念慮者の生い立ちやら思考やらを紐解く上で、全貌を語る回2です。
つっても私は、他の方みたいに繊細な悩みから希死念慮があるわけではないので、参考になるかは甚だ微妙ですが。
私という自殺者の数値1は減らなくても、他の方の自殺数1が減るなら、大したことではありません。

さて前回は両親について書きました。
書ききれてないと思いますが、さすがに34年分を圧縮するのは骨が折れる。ご勘弁を。


まあこんな両親の元に生まれました。
兄弟は長男、次男、私。三人兄弟です。
とはいえ、成人するまでは(成人するまでは)いとことも仲が良かったため、A従姉、A従兄、B従姉、B従妹、B従弟、C従姉、C従姉、D二従兄、D二従姉、D二従姉が居ました。
まあ恵まれてたんじゃね。

父が週1で実家に帰りますので(泊まりませんが)、幼い私には娯楽がなんもないんですよね。
いとこ連中がいない時は決まって、家の玄関から見える場所の堤防に登って海を見てました。
玄関から見えなくなると困るそうなので(まぁ幼児の所在が分からないとか大問題ですね)、見えるとこにいました。

6時間くらい。

ただひたすら海だけを眺める幼児。

飽きないの?って何回か聞かれましたが、その意味がよく分からなかったので、私は割とアホの子だったと思います。
だって海だけを見ているわけではない。
旋回する……なんだあれトンビかな。
そんなものもいる、さざなみの音がする。
自然の息吹という壮大な音楽に囲まれて、ぽかぽかと日向ぼっこをしているのです。
何が暇なのか。

スピリチュアルな話もこのあたりは割と普通にあり、従妹と岩盤沿いに歩いたり飛んだりして貝殻のお宝を探していたりしたのですが
一回目は『帰りなさい。今すぐに』と声がしました。女性みたいだったな。
うちの地区を守る水神様は男神なので、別の方でしょう。
とにもかくにも、帰れと言われたので、従妹に「帰ろう」と言います。従妹は「なんで?まだ早い」と言いました。確かにまだ日は高い。
「帰れって言われたから」「だれに?」「聞こえなかった?」「しらんけど。帰るんやね?」
従妹に聞こえてない声に従って帰ると、岸に着いた丁度に、満潮になりました。
岩場を伝って帰る場所ですから、浸かったら帰れないわけです

従妹は「私は聞こえんかったけど、注意してくれてよかったね……」とさすがに身の危険を感じたようでした。
従妹が怯えてる横で私はというと、『よかった。』という言葉を聞いたので、海にお辞儀してました。
奇っ怪な子どもですね。


2回目も似たようなもんで
相変わらず従妹と岩盤沿いに貝殻のお宝さがしに行ってました。無傷の桜貝とか貴重なんですよ。夢があったんだ。
そしたらば、桜が咲いている場所がありました。
なんでこんなとこに1本だけ生えてんだ

暫くはキャッキャしながら遊んで、来年も来るからなぁと従妹とも約束しました。
1年後に従妹と「桜見に行こう!」と岩盤沿いに歩いていきました。

そんな木は無かった。

咲いてないとかじゃない。

そんな場所が。無かった。

多分これが最初の迷い込みだったでしょう。
命あってよかったもんですね。
そして桜の木は二度と発見されませんでした。


まぁ不思議体験はいくらでもありましたが、概ねいとことは良好な関係でした。
隠れんぼの隠れた場所がせこいとかちょっと根に持ってるみたいですが。
隠れんぼもしたし、トランプ隠しもしたし、階段使ってじゃんけんもしたし、枕投げもしたし、煉瓦の屋根に上がってはお互いの親に追いかけ回され、インターホンでいたずらをしてはお互いの親に追いかけ回されました。ガキだな。
夜中に叔母が見回りに来るのから隠れながら、こっそり遊んだりもしてました。
なんなら叔母の実家にお邪魔させて頂いたことすらあります。祖父の葬式にいらっしゃったのでビックリしました。私そんなに変わってない?変わってないな、うん。

家では次男によく虐められました()
長男が次男にちょっかいを出す、次男が妹にちょっかいを出す、あの連鎖ですね。
小さい頃は長男やら母が庇うので、次男はぶーたれていましたが、やめはしない。やめろよ。
年齢が上がるにつれてちょっかいの度合いが悪化して、食後に片付けに行こうとすると胃を狙ってくるんですよね。護身術身につけたのそのくらいからじゃね。お前のせいだよw

長男くんは無害でしたが、たまに無理を言いました。アイス四本買ってきてみたいな。
分かってない私は承諾して買いに行きますが、4本も持てない。カウンターで困る私を見兼ねて、「返しに来てくれたらいいから、使って」と、ソフトクリームスタンドを貸してくれるレジの人。こういうところが平成だったなぁ。嬉しかった。
嬉しかったんだけど、ソフトクリームスタンド2つにはなるので、ドアノブ回せない。つくづく私はアホの子でした。
ドア横の部屋に長男がいるので、扉開けてくれと頼みました。

他はそうだな
父が兄を叱るとかあるわけですね。まあ親の務めですね。
ただ父は説教が壊滅的に下手なので、反省させるどころか人格否定しただけみたいになるのはよくあり、人格否定かどうかは私には分からなかったけど、兄が何を言っても無駄だというのは分かっていたから、その場をあやふやにしようとはしました。
父が怒らなければ、兄は否定されない。
兄は稼がれた時間内でどうにかする。
そんなのが日常茶飯事でした。

あとはそうですね母かな。
子守唄や寝物語をしてくれるんですが、私がさっぱり寝つかないのです。3時間歌って声が枯れたとかもありましたかね。ごめんよ。
寝付きの悪さもそうだし、寝ても既に悪夢を見る状態でした。おかしいですね、この頃はまだ幸せだったはずなんですが。必ず悪夢を見るのです。

昔から『何かから逃げる』夢を見続けました。
それが抽象的なこともあったし、明確な恐怖を伴うこともあったし、単純になんかビルくらいありそうな蜘蛛に追いかけられるとかありました。
私があれダメなのは悪夢の登場率が高いからなんですね。

ただ、悪夢にも逃げ道が必ず存在していました。
何故かは当時は分からなかったけど。
小学生まで住んでいた土地を出てから現れなくなったので、土地神様の干渉だったのだろうとは、成人するまでは気付きませんでした。

それなりに裕福な家で、不器用な両親でも恵まれながら育ち、地域にいた友達と遊んで過ごしました。
その最中に、友達が一回、自宅への訪問を渋ったのを未だに鮮明に覚えています。
帰宅して、ちょっと荷物を取りに来ただけの娘に、やたらとどぎつく当たる母親。知識があれば『虐待じゃん……』と思えたのでしょうか。

その土地にいる間は、特に困ることには会いませんでした。
まあ散歩(仮)が好きで、自転車うっかり滑らせて転んでも人が来ましたし、うっかり川沿いに転落しても人が来ました。見ず知らずの人です。
知らなくても助ける、そんな時代がまだあった。
タイミングよすぎたので、土地神様の干渉はあったかもしれないけど。


さてバンバン行きます。
小学生になります。
何も知らないあの頃が懐かしいですね。
母もまだ「娘の成人式までは生きていたい」と思っていたそうで、まだ親の役割は放棄してませんでした。
まあ運動会のおにぎりを長男がたいらげてしまって叱ってた云々は、大変だったなぁと思いますが。

最初は一年生ですね。
一年の半年を休みました。体調がよくならないからです。
小学校六年間で一年分休んでいます。
もう慢性疲労症候群だったのでは感ありますが、本旨からズレるので一旦置いておきます。

一年生は特に何も無かった頃かと思います。
四年生からですね、いじめが始まるのは。
私、瘡蓋があると剥がさずにはいられない人種だったため、まぁ簡単に言えばそれがフケに見えるわけです。汚いと。
ついでに片斜視だったので、片目だけあらぬ方向を向いてるわけです。気持ち悪いと。

いじめの話は後回しにしますが(長すぎる)、
小学校も波乱万丈に過ごしていました。
体調がすぐに崩れますから保健室にはよくお世話になるんですが、保健室組(ではない)男子が「じゃっ、俺帰るから。保健の先生に言ってもいいけど、聞かれるまでは黙っといて~。」とか言って窓から帰るやついたし。いや何故窓???

小学校も老朽化で建て替えてしまってましたが、私が通ってる当時はプール横の煉瓦に黒い跡があり、他の子がわかったかは知りませんがそれを中心にして何かがいました。
先生に「この黒いのはなんですか?」と聞くと、「空襲の跡ですよ。原爆が落ちてきたんです」と。
さすがに毎年8月に平和宣言してますから、全く知らないとは言わないものの、知ってるとまでは言えない状態で。
簡潔に言うなら「たくさんの人がここで死んだ」だけはかろうじて分かるくらいです。小学生ですからね。
帰ってから父に聞いてみれば、「学校とか病院はそういうところに建ってることが多いよ」と。

じゃああの「なにかいる」は
死んだ人なんだろうなぁ。
何もできやしない。

他はそうですね
初めて「他人に指摘される」を受けた場所です。
いや、親からは言われてましたよ。マッチ一本火事の元ですよ。ガスコンロを使って、火傷をしない程度に、火は「燃える」と教わりました。

話が逸れました。
まあそんなで、指摘を受けたわけです。
なわとびです。

なわとび です!!

いつまで経っても二重跳びが出来ず。
まあ他の子も他の理由で何かしら出来なかったから、4人1組で教え合うみたいな、よくあるやつをやりました。
その時の私に指摘した子が上手くてですね。
「目瞑ってるから飛べないんじゃねえの」と。

言われてみれば、何故か目を閉じてるんですよね。
なんでかはしらんけど。
目を閉じないようにしたらあら不思議、簡単に飛べるようになって、毎週水曜に体育の全校集会とかあるんですけど、二重跳びだけ決着が着きませんでした。
一回も飛べなかった私と、体力には自信のある子で、10分以上経過したので()、止められました。

食堂のおばちゃんに「ごちそうさまでした」を言う習慣がついたのも小学校です。
書いてるとキリがないくらいくだらない話もあったな。
夏休み明けの花壇は絶望しましたが(雑草の力強さよ)、友達の男子が手伝ってくれました。
私は知識担当(親父の趣味が畑とかの園芸なので、引き抜き方を知ってる)

友達の弟くんが身体障害者でしたが、受け入れ態勢が出来てからは本人もよく笑ってましたかね。
家にずっといても、心が死んでいくもんね。

結構書いたな。
いじめの話からは次にします眠いです(最近ずっと眠い……)

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