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聖書の山シリーズ3 神と人との接点 ホレブ山

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出エジプト記3:1 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。
3:2 すると主の使いが彼に、現れた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。
3:3 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」

2022年8月7日 礼拝

聖書箇所 出エジプト記3章1節-3節




はじめに

前回に引き続き、聖書の山シリーズの第三回目です。今回は『神の山ホレブ』を紹介したいと思います。


神の山ホレブはどこか

ホレブとは、ヘブル語で「乾燥した場所」という意味です。モーセが神から律法を与えられた山として旧約聖書の中で特筆される山です(申4:10‐15,5:2,Ⅰ列8:9)。
ホレブ山は神の山と呼ばれる場所とされ(出3:1,18:5)
エリヤもここで神から啓示を受けた山として知られます。(Ⅰ列19:8)
ホレブ山とシナイ山は、ほぼ同じように扱われています。
学者によって、ホレブは山脈名を意味し、シナイは頂上名を意味する。
また、ホレブは北方の低い山脈部分とし、シナイは南方の高い頂上の部分を指すのだと考える学者、またはホレブとはシナイ山の低い部分とするなどと区別する人もいます。いや、両者は全く同じ山を指していると考える者もおり、ホレブとシナイの違いについて厳密には区別できないようです。

ジェベル・ムーサー(モーセの山)

私たちが一般的に知っているシナイ山とは、シナイ半島にあり、エジプト脱出の際に、エジプトからシナイ半島に向かって、モーセが神から十戒を授かったとされる山です。別名ホレブ山(Horeb)とも呼ばれます。

アラブ人がジェベル・ムーサーあるいはムーサー山(アラビア語で「モーセ山」の意味)と呼ぶシナイ半島南部の山(標高2,285m)が、シナイ山、ホレブ山としてよく知られています。


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ジェベル・ムーサーにはモーセに関わる伝承を持つ泉や岩が数多く存在していることから、土地の人々の信仰の対象となっているそうです。3世紀には聖カタリナ修道院が建設されました。聖書の記述と最もよく合致すると思われるのはこの南部説です。また、この山腹にあるカタリナ修道院からC・ティッシェンドルフによって発見されたのがシナイ写本という写本です。

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ラス・サフサファ

ところで、ジェベル・ムーサー近辺には聖書が示すような広大な平原が存在しないそうです。しかも、ジェベル・ムーサーとは、一般に私たちがシナイ山として知っている山の他にも存在しています。さらには、100万人もの人が幕営できるような場所がないこと、またエジプトからパレスチナへの通り道としては南に位置しすぎること、シナイ半島は、歴史上常にエジプト領であり、エジプト軍が駐留していた地域であること、しかも出エジプトに関する遺跡の痕跡が見当たらないこと、また、現在のシナイ山は4世紀にローマ皇帝コンスタンチヌスの母へレナが勝手に決めた聖地の一つに過ぎない。などの理由から、私たちが知っているシナイ山と、聖書が伝えるシナイ山とは一致しないのではないかという議論があります。

一部の聖書学者たちは、その北側のラス・サフサファ(Ras Safsafeh )をシナイ山としている人もいます。

アラビア半島のラウズ山

ロン・ワイアットは、ミデヤンの地をアラビア半島北西部とし、シナイ山(ホレブ山)を、同地のラウズ山(Jabal Al-Lawz ヤベル・エル-ローズ 標高2,580m)と主張しています。ところが、この山は、サウジアラビアのミサイル基地にする予定地であり、標的はイスラエルということもあり、入山が厳しく制限された山です。なぜ、この山がホレブ山であるのかといいますと、

出エジプト記3:1 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。

とあるように、ミデヤンの地がサウジアラビアにあったこと、サウジアラビアからジェベル・ムーサーまでの距離が200キロほどあるので、遠すぎるという点です。

また、エジプト第1王朝以来、シナイ半島はエジプト王国の領地であり、出エジプトを果たすという意味では、エジプト軍のいるシナイ半島を出なければならなかったと考えられます。また、モーセが渡った海も、紅海ではなくアカバ湾の浅い部分であったとしています。それを裏付けるように、アカバ湾を調査したスウェーデンのカロリンスカ研究所のレナート・モーラー博士率いる国際チームの調査によれば、海底からはエジプト第18王朝の戦車の車輪を閉じ込めた形の珊瑚が無数に発見されているそうです。

アカバ湾を渡れば、目指すミデヤンの地もラウズ山は近いということもあります。
さらに、この説に裏付ける証拠として1988年資産家で冒険家のラリー・ウイリアムズとボデーガードのボブ・コーニュークは、聖書の記述どおりの遺跡を発見しました。このことは、「隠された神の山」(ハワード・ブルム著1999年角川書店)と言う本に書かれています。

一方、ジェベル・ムーサーが伝統的にホレブ山と考える説も数多く、ホレブ山(シナイ山)がどこにあるのかについては、いまだに結論がついていないのです。

ホレブ山という接点

こうして、上の山ホレブがどこにあるのかということは現在においてもわからないのですが、一つ言えることは、このホレブの山で神と人との重要な接点があったということです。
では、ホレブでどのようなことがあったのかといいますと、まずは、モーセが神から律法を与えられた山(申4:10‐15,5:2,Ⅰ列8:9)です。この山は神の山と呼ばれ(出3:1,18:5)、エリヤもここで神から啓示を受けた(Ⅰ列19:8)場所になります。

モーセが神と出会う

モーセにしても、エリヤにしても、そこで出会ったのは神であり、それゆえホレブ(シナイ山)は神の山であり、神と出会う場所とされました。
モーセが初めて神と出会ったのもこのホレブでした。(出エジプト記3章)

出エジプト記
3:1 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。
3:2 すると主の使いが彼に、現れた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。
3:3 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」
3:4 主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります」と答えた。
3:5 神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」
3:6 また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

モーセが神の契約を授かる

エジプトから脱出した民が神と出会い、神との契約を結んだのもホレブでした。(出エジプト記19-20章)

出エジプト記19:20 主がシナイ山の頂に降りて来られ、主がモーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。

 新改訳改訂第3版 いのちのことば社

出エジプト記
31:18 こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

エジプトを脱した神の民は、エジプトという経済的な裏付けのない荒野を旅する脱出でした。彼らは奴隷という身分からの解放はありましたが、それは同時に経済的な奴隷状態からの自立が求められた旅でもありました。エジプトの時代においては、奴隷であることで生活の保証がありましたが、海を渡った先の荒野は生活が保証されないということに直面したのです。こうした危機に陥った民に対して、神はモーセを通して契約を与えるのです。食物やお金こうしたものはたしかに大切です。しかし、本当の危機がわたしたちに訪れた時、支えになるものは一体何になるのでしょう。
死を前にした時、私たちを勇気づけ、平安をもたらすのは、そうした物質にはないのです。私たちの指針であり、生きる目的は、神の言葉によってもたらされるものです。
生存の危機に脅かされたイスラエルの民は、モーセを通して、その生きる拠り所となる神の契約を授与されたのです。

預言者エリヤが神の言葉を聞く

預言者エリヤも、バアルの預言者との対決の後、命を狙われてここに逃げてきましたが、ここで神の言葉を聞きました。(Ⅰ列王記19章)

バアルとアシュラの預言者850人とたった一人で戦ったエリヤは大勝利を収め、イゼベルの復讐を恐れてしまいます。「それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた」(Ⅰ列王記19章3節)とあります。彼はイスラエルを越え、南のユダ王国の最も南に位置するベエル・シェバまで逃げ、そこで従者を残し、彼自身は一日の道のりほど歩き、南にあるネゲブの荒野に入りました。彼はそこでえにしだの木の下に座り、死を願うほど憔悴しきっていました。エリヤは、からすでも、やもめでもなく、主から与えられたパンと水に力づけられ、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着きます。

Ⅰ列王記
19:11 主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。
19:12 地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

人生の危機という接点

モーセ、エリヤの両者とも、ホレブでの神との出会いに共通するものは何であるのでしょうか。

モーセはホレブで神とお会いしたときに神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠しました。(出3:6)
一方、エリヤは神の声を聞いたときに外套で顔を覆った(Ⅰ列王記19:13)と記されています。
これは、神の顔を見たものは生きられないと知っていたからです。(創32:31)。神は聖であられるため、罪に汚れた人間は直接神を見ることはできません。モーセにしてもエリヤにしてもとっさに取った行動は、顔を覆うことしかできないものでした。もとより、人間は神の前に出る、お会いすることなぞ不可能な存在であるということです。

ところが、聖なる神は、こうした人間にお会いしてくださった。ホレブという場所を通してお会いになってくれたわけです。

どういう時に会ってくれたのかといいますと、人間の危機の時にです。神はふだん私たちにその姿を現すことはまずありません。しかし、生存の危機、信仰の危機、人生の危機はそうではありません。神は、自ら手を差し伸ばしてくださるお方であることが、モーセとエリヤの姿を通してわかることです。

モーセにおいては、エジプトの奴隷によって苦役と民族浄化によってイスラエル人が消し去られてしまう危機に追い込まれているイスラエル人の救出という詔命がありました。また、エリヤにおいては、イスラエル人の信仰が覆され、神の民としてのアイデンティティが奪われることに対する戦いがありました。

両者に共通する神の民としての権利や尊厳を守るため、神はその忠実な民の生存をご自身の誠実さにかけて残され保証されるという約束が、ホレブにおいて語られています。

神の目に見える奇跡や、力でもって信じる民にその臨在を表すのではなく、また目に見える奇跡や力を期待する信仰が真実ではないことをモーセとエリヤの記事は教えてくれています。

モーセにあっては、「石の板に書かれた律法」、エリヤにあっては「静かにささやく声」として語られました。
そのどちらも、神の言葉に聞く姿勢と、その御言葉にたいする信仰にその力と恵みが表されたのです。

神はそうした「神の言葉」の中にご自身の臨在と力と恵みを表される方であること、神の選びの民は、神ご自身の一方的な私たちへの愛によってと支えられるのです。

自分の力ではありません。神は一方的に私たちを愛し、保持してくださる。危機のときには必ず手を伸ばしてくださる。ここに確かな大きな慰めがあります。

モーセは、エジプト人を殺害した門でエジプトの王パロの追手を振り切り、ミデヤンの地に逃れました。一方エリヤは、850人ものバアルとアシュラの預言者と戦って勝利しましたが、復讐におびえ死を願うほど弱くなりました。

しかし、主は誰もいないと思えるところにも、主の民を失われないように残される神として存在されるからです。この神への信頼に生きる信仰をイスラエルの民に教えるために、このホレブの山での出来事を私たちに伝えてくれました。

神の救いの計画は、時によって、挫折したり、止まってしまったように思われるかも知れません。そのように私たちには見えても、神はご自身の変わらない愛と熱心によってその救いを実現されるお方なのです。
いま、わたしたちに求められているのは、この神の聖さと、確かさの両方を知り、自らの召命を考えることです。
ホレブの山は、危機にある私たちに対して、与えられている召命とその務めを全うさせてくださるお方が常に手を差し伸ばしていてくださる。
その、象徴がホレブの山であるということです。神と人間、罪によって直接的に出会えない関係ですが、ホレブという山を通して会見をし、神の御声を聞く場として御言葉を信じる場として、神はモーセとエリヤに設定してくれました。

もう、皆様もおわかりになったのではないでしょうか。このホレブの山とは一体何であるかを。
このホレブの山こそ、イエス・キリストの予表です。
イエス・キリストは神と人との接点となり、仲保者となり、私たちと神との接点をもたらしたお方です。
イエス・キリストによって、御言葉がより確かなものとされ、私たちはそのお言葉に従い信じる者とされています。
今や、ホレブの山がどこにあるかは関係ありません。
人と、神との接点となり、生きる指標を示したホレブの山となってくださっているのは、イエス・キリストであるということです。ハレルヤ。