見出し画像

挨拶について考えてみる             Ⅰペテロ5章13-14節

2023年7月9日 礼拝

Ⅰペテロの手紙
5:13 バビロンにいる、あなたがたとともに選ばれた婦人がよろしくと言っています。また私の子マルコもよろしくと言っています。
5:14 愛の口づけをもって互いにあいさつをかわしなさい。キリストにあるあなたがたすべての者に、平安がありますように。

5:13Ἀσπάζεται ὑμᾶς ἡ ἐν Βαβυλῶνι συνεκλεκτὴ καὶ Μᾶρκος ὁ υἱός μου.
5:14ἀσπάσασθε ἀλλήλους ἐν φιλήματι ἀγάπης. εἰρήνη ὑμῖν πᾶσιν τοῖς ἐν Χριστῷ.

タイトル画像:MelanieによるPixabayからの画像


はじめに


今回をもって、ペテロの手紙が終わります。今回は、ペテロの結びになります。挨拶に始まり、挨拶に終わるのが世の常だとして、それが一体どういう意味なのかということはあまり考えたことがありません。今回は、ペテロの結びから挨拶の意味と私たちがどうとらえていくべきかについてご紹介します。

挨拶をしている人は誰か


Ⅰペテロの手紙
5:13 バビロンにいる、あなたがたとともに選ばれた婦人がよろしくと言っています。また私の子マルコもよろしくと言っています。

バビロン

バビロンとは、古代メソポタミアにあった邪悪で神を信じない都市として知られています。バビロンは、旧約聖書の時代(紀元前605年から紀元前539年まで)に世界で最も強力な都市でした。

バビロンはその武力の強大さや、異教文化を代表する国とも知られ、世俗的な権力の中心としての象徴として描かれています。それは、古代ローマ帝国や終末の時代の世界といったことに対しても比喩的に使われます。その比喩的に描かれているバビロンを見ていきますと下記のようになります。

Ⅰペテロ5:13
バビロンにいる、あなたがたとともに選ばれた婦人がよろしくと言っています。また私の子マルコもよろしくと言っています。
黙示録14:8
また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。「大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」
黙示録18:2
彼は力強い声で叫んで言った。「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、悪霊の住まい、あらゆる汚れた霊どもの巣くつ、あらゆる汚れた、憎むべき鳥どもの巣くつとなった。

出典 新改訳聖書 いのちのことば社

こうした記述を見ていきますと、 黙示録でのバビロンの用例は、かつてのバビロンを示すのではなく、現代における都市文化という側面がうかがい知れます。バビロンは神なき世界体制全体を指すメタファーとして扱われています。

さて、今回のペテロの手紙の内容から、この節のバビロンは一体どこなのかという点についてですが、ペテロもマルコもローマで活動していたと考えられている点を考慮すると、ローマを示すというが妥当だと言われております。

婦人

ところで、13節を読んでいきますと、『バビロンにいる選ばれた婦人』とあります。この婦人という言葉は、ἡ ἐν Βαβυλῶνι συνεκλεκτὴ (へー エン バビュローニ スネクレクテー)の文節のἡ(ヘー)にあたる言葉です。この『婦人』と訳された言葉は異論が多く、婦人と訳すのはどうかと思われる箇所です。

ἡ(ヘー)は英語の”She”を表す単語なので、「ペテロの妻」と解釈する説もあります。彼が妻帯者であったことは確かなようです。

マタイ8:14
それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。
Ⅰコリント
9:5 私たちには、ほかの使徒、主の兄弟たち、ケパなどと違って、信者である妻を連れて歩く権利がないのでしょうか。

出典 新改訳聖書 いのちのことば社

一方、ペテロが執筆していたであろうローマに妻を連れてきたかどうかという点は考えにくいとする学者もいます。

他方、ἡ(ヘー)が人称代名詞の女性型ですから、「教会」を表す「エクレシア」が女性名詞であり、『ともに(ὑμᾶς)選ばれた女性』という表現は複数ですから、「教会」であると考える説もあります。この説が推される理由として、シナイ写本ほか「エクレシア」を挿入している写本があることから蓋然性が高いと言われています。

選ばれた

こうして、『婦人』が「教会」であるとすると、より鮮明に『選ばれた』という言葉が輝きをもって捉えることができます。
『選ばれた』συνεκλεκτὴ(スネクレクテー)は、この箇所でのみ使われている言葉です。

原型はスネクレクトス。sýn「共にいる同一性」とeklektós「選ばれた」が合成された言葉です。英語で言えば、with electionという訳でしょう。
それは「選民の仲間」を意味し、すなわち、それぞれが主に属し、互いが属している信者たちといった意味になります。

選民の仲間(4899/syneklektós)とは、すべての贖われた者が選ばれた者(神に選ばれた者、エペソ1:4-11)である。 このことは、「主が私たちの選択をあらかじめ知っておられることと連動して、すなわち、主の絶対的な予備知識の中で(1ペテロ1:2参照)」起こるのである。 主は、私たちの未決定の自由な選択をあらかじめ知っていて、人々を選ばれるのです」

出典 The Dicovery Bible,G. Archer, Yale University – March 25, 1992

Ⅰペテロの手紙
1:1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々、すなわち、
1:2 父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。

出典 新改訳聖書 いのちのことば社

マルコ

 ここで『マルコ』が紹介されていますが、このマルコはマルコの福音書を著したマルコになります。ヘブル語名はヨハネであり、「主は恵み深い」という意味を持ちます。マルコとはギリシヤ語名で、ラテン語のMarcusには「ハンマー」という意味があります。

彼の母はマリヤと言い、父に関する言及はなく、マルコは若い時に父親を失っているようです。マルコの家はエルサレムの市内にあり、大勢の人々が集まるのに十分な広さを持っていたので教会の集会に用いられたいたといいます。

 またマルコは、伝道者でありバルナバ(慰めの子)と呼ばれていたヨセフのいとこでした(コロ4:10)。
バルナバがレビ人であることから(使4:36)、マルコの家もおそらく祭司系であったと考えられています。

マルコを信仰に導いたのは、彼を今回取り上げているⅠペテ5:13の中で「私の子」と呼んでいるペテロであったと考えられています。

彼は、第1回伝道旅行の時、パウロとバルナバの助手としてに同行するなど多方面で活躍していました。ところが、マルコはキプロスから小アジヤ南部、パンフリヤ地方のペルガに渡った時、チームから離れてエルサレムへ帰ってしまいます(使13:5,13)。

原因としては、キプロスで宣教活動の困難を経験し、パウロたちが進んで行こうとしていた所がさらに奥地で異邦人も多い地方であったため、それまで以上の困難を予想して、臆病になったためであるなどの理由が考えられています。

その後、パウロたちが第2回伝道旅行に出かける時にマルコを同行させるかどうかでバルナバとパウロの間に激しい反目が起りました。

使徒の働き
15:38 しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。
15:39 そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。

パウロは同行を拒絶、バルナバはマルコを連れてキプロスへ渡ることとなり、ついには別行動を取るようになりました。

それから約10年間のマルコの行動に関する確かな記録はありませんが、パウロがローマの獄中からコロサイ教会やピレモンへ手紙を書き送った時には、マルコはパウロと共にいることや、パウロは彼を同労者と呼び(ピレ24節)、コロサイへ派遣する予定であったことがわかります(コロ4:10)。

さらに数年後、マルコはペテロと共にローマにいましたが(Ⅰペテ5:13)、そこで、小アジヤの諸教会への手紙の中でマルコからのあいさつが送られているのは、彼がペテロと共にこの地方の宣教活動に参加したからであろうと考えられています。

そしてそれはおそらく、バルナバとのキプロス伝道と、パウロとの働きとの間の時期のことであったと考えられています。

バビロンの信者の婦人とは

直接的には「バビロン(現在のイラク)に住んでいる信者の女性」というように日本語訳で読み込んでスルーしてしまうのですが、

こうして、上記の単語の意味をまとめてこの文節を見ていきますと、あいさつをしているのは、「ローマ教会の信徒たち」であり、宛先は小アジア『ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々』に対して挨拶していると解釈することが妥当であると考えられます。

あいさつをかわしなさい


5:14 愛の口づけをもって互いにあいさつをかわしなさい。キリストにあるあなたがたすべての者に、平安がありますように。

こうして、ローマにいるペテロが手紙を結ぶにあたって、ペテロが勧めて
述べていることは、『愛の口づけをもって互いにあいさつをかわしなさい。』ということです。つまり、キスをして挨拶しなさいということです。

さすがに、この日本において、教会の中で互いに『愛の口づけ』をすることは社会通念上無理があります。
私たちの想像する口づけとは、男女が愛する時のものとしてとらえています。それは、深い愛情を示すものであり、隠れて行うものというように思われています。

しかしながら、現代でも頬にキスをする挨拶はヨーロッパから中東、ロシアに至るまで多くの国で行われています。 フランスも頬と頬を合わせるように挨拶をするようです。

古来、口づけはオリエントのあいさつのしるしで頬や額、髪、手や足に対してなされました。聖書のなかでは、身内に対して、友人に対して、愛する者同士のもの、敬意の表明、偶像礼拝の行為などの例があります。

イスカリオテのユダはイエスを売るための目印として口づけした例があります。(マタ26:48‐49)
罪深い女は、主に対する尊敬を表すものであった(ルカ7:36‐50)
口づけはたいてい出会いと別離の際に行われました(ルカ15:20、使20:37)
初代教会は口づけをきよいものに高めました(ロマ16:16、Ⅰコリ16:20、Ⅱコリ13:12、Ⅰテサ5:26、Ⅰペテ5:14).

もちろん初代教会においても、接吻が普通に行われていたようです。今回の節では、『口づけ』をφιλήματι(フィレーマティ)と書かれてます。その原型フィレマは、キリストのいのち(性質)を互いに分かち合う、キリストにある家族である仲間同士の間の特別な愛情を示している言葉になります。

ですから、『愛の口づけ』φιλήματι ἀγάπης(フィレマティ アガペー)というのは、愛と善意の表現であり、当時は神の家族としての一体感を確かめ合う挨拶であったようです。

こうして初代教会のキリスト者たちは、互いに 『愛の口づけ』で挨拶していました。

教会の集まりでは、女性同士、あるいは男性同士で行われるのが通例であったそうです。しかし、この習慣は乱用されたため、弊害が生じることとなり廃止されたようです。

アレキサンドリアのクレメンス(約200年)は、その乱用についてこうコメントしている。 キスの騒音で教会を満たすだけで、何もしない者もいる。 神聖さを装った毒に満ちた不純な接吻もある"。

出典 The Dicovery Bible,5370 phílēma

不純な接吻によって廃れたこの習慣ですが、本来の目的は、クリスチャン同士の深い結び付きを示すものでした。
儀礼的に挨拶をするのではなく、イエス・キリストの血によって結び合わされた、血を分けた兄弟姉妹同士が、心を超えて、たましいにおける深い結合と融合をこの『口づけ』という挨拶が象徴しています。

ところで、現代の教会においては、接吻するということはタブーですが、ペテロの言葉に学ぶこととしては、兄弟姉妹同士の関係性においてであろうと思われます。接吻を行い合えるという、深い結び付きが私たちの間に見られるでしょうか。

私たちのクリスチャンの間に、挨拶がの中に、偽善や儀礼といったものが含まれているとしたならば、それは表面的な付き合いにしか過ぎません。教会の兄弟姉妹の関係というのは、単なる付き合いでは無いはずです。
もし、教会の付き合いが表面的なものにしか過ぎないとすれば、このペテロの結びが単に形式的なものとしてスルーしてしまうものです。

主イエスは言いました。

ルカ 18:8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

信仰とは、単に信じるだけにとどまりません。信じているものに裏付けられた行いというものも生じます。個人主義が当たり前になるにつれて、人間関係が希薄になり、それは教会の中にも浸透してきています。兄弟姉妹の問題にあまり関わらない、寄り添うにしても形だけ。困っていたとしても、心配はするけど、それ以上は関わらない。それが常識というのが本当の私たちの姿ではないでしょうか。

教会の人間関係が最も重要であり、深い愛に結びつかれていなければならないはずの関係が壊れている。

これが現実ではないでしょうか。どこか兄弟姉妹を信頼しあえない。信用していないというのが現代の病理であり、それこそが、現代の教会が抱える大きな課題であります。

主イエスはこうした状況を『はたして地上に信仰が見られるでしょうか。』と言っていますが、今私たちが取り組まなければならないのは、今ある教会の人間関係です。

人間関係が主にあって結び合わされるなら、平安があります。どんな迫害や虐げがあったとしても、兄弟姉妹の間に心からの交わりがあれば、乗り越えられるはずです。また、初代教会の人々は、兄弟姉妹を愛し合うことによって力を得て困難を乗り越えてきたのです。

ペテロの手紙の結びにはこうあります。

5:14ἀσπάσασθε ἀλλήλους ἐν φιλήματι ἀγάπης. εἰρήνη ὑμῖν πᾶσιν τοῖς ἐν Χριστῷ.

エン クリストーと終わりにあります。「キリストのうちに」ということです。私たちは、はじめから終わりに至るまで、「キリストのうちに」あることです。

神によって選ばれ、神によって信仰をもった私たちは、キリストのうちに生かされており、キリストの栄光をゴールとして選ばれているものです。その私たちは、キリストの栄光のために、神の家族としてあらためて、一体となり心を一つにすることを求めるものでありたいのです。アーメン。