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マリヤの懐妊                 2021年アドベント 第3週             

聖書箇所 ルカによる福音書 1章26節-56節

https://youtu.be/EWbAHnx5Ask

ルカによる福音書1:26-56
ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。

 御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」

  しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。

 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
 
そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」

 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。
神にとって不可能なことは一つもありません。」

 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。

 そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサべツは聖霊に満たされた。そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」

マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。 私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」

 マリヤは三か月ほどエリサベツと暮らして、家に帰った。さて月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。 近所の人々や親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをおかけになったと聞いて、彼女とともに喜んだ。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

はじめに

今回は、イエス・キリストの母マリヤについてみていきます。カトリックでは聖母マリアとして崇めていますが、プロテスタントでは、そうした見方はしません。あくまでも、イエス・キリストの母としてマリヤをとらえております。さて、前回はバプテスマのヨハネの懐妊を見ていきましたが、その懐妊は決して祝福ばかりとは言い難いものでありました。信仰による戦いがありました。マリヤも実は、ほのぼのとした降誕劇のようなファンタジーあふれる童話の世界のようなものではなかったのです。マリヤの受胎から懐妊に至るまでの苦悩と葛藤について見ていきたいと思います。

マリヤの孤独


 今朝読む箇所は、主イエスがお生まれになる前、御使いがマリヤに現れ、神の子イエスを身籠るという告知をするという有名な記事です。しばしば、クリスマスを祝う教会ではこの部分を取り上げて降誕劇としてお芝居として紹介される場面ですが、聖書では今朝読む箇所であるルカ1章26節以下にあります。この部分を劇や絵画を見ますとロマンチックで幻想的なクリスマスの一部分として描かれるところであります。私たちがイメージするクリスマスの出来事は、嬉しいもの、素晴らしい知らせであるとか祝福というものです。
 
ところが、その表面的なうるわしさとは裏腹に、イエス・キリストの懐妊という現実は、ユダヤ人社会では、非常識かつありえない出来事でありました。言い換えるならばそれは、逆境に転落するということを意味していました。31節を見ますと「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」とマリアに御使いが告げます。
 
 しかし、マリアはまだ結婚もしていなかったわけです。未婚女性であり、15歳ほどの娘が子供を産むということは、現代にあっても後ろ指刺される、冷たい目で見られてしまうことかもしれません。ましてや、当時の古代ユダヤ人の社会状況を見ますと、それはタブーであり、絶対にやってはいけないことの一つでした。
 
 そうした状況の中で、御使いは「おめでとう」28節で言うのです。当時の社会状況とタブーを照らし合わせて考えるならば、御使いの「おめでとう」という言葉は、悪い冗談かともいえるような非常識極まりない言葉でしょう。なぜならば、当時の慣習では男が18歳、女が14歳になれば婚期となり、親の決めた相手と婚約し、数年の婚約期間をおいて結婚するという結婚の順序があります。前回においてもご紹介しましたとおり、婚約期間中においても、結婚したと同等とみなされたという理由もありましたから、婚約者の知らないところで身ごもった場合、姦淫の罪を犯したとして石打の刑で殺されるか、

申命記22:23-24
ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は、あなたがたは、そのふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。彼らは死ななければならない。これはその女が町の中におりながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。

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 あるいは婚約を取り消されるばかりか、婚約者に「罪の女」として公表され、社会から追放されることが通例でした。マリヤはそうした社会の仕組みを知らなかったわけではありませんでした。従って、未婚の娘が身ごもるという出来事は、命を失う、社会的制裁を受けることになったわけです。

 神によって、懐妊したと周囲に説明しても、とうてい理解してもらえないことでした。当時の厳しい戒律の中にあって、彼女は一生日陰者とされ、生まれたイエスも父無し子として後ろ指さされながら、生涯を通して社会的制裁を受けつつ、マリヤと同じ苦しみの中を生きたと思われます。こうした試練をも承知の上で、若干15歳のマリヤは御使に対して38節で「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」とこたえますが、この言葉は、マリヤが神に献身を表明した言葉として示されております。
 
 マリヤはここで、夫ヨセフとは無関係にたった一人で子を産む決心を行ったわけです。献身といいますと、教会の中では通常、牧師や伝道者になるということを意味します。しかし、本当の意味での献身とは、一人で神と向かい合い、神に自分を献げることです。ですから、どんな職業であれ、献身は可能であり、クリスチャンであれば、そうするべきかと思います。マリヤは御使いとの対話の中で、自分にいかなる困難や試練が想像されるにしても、神が自分にされることには間違いがないと信じ切ったのです。私たちがマリヤに見習うべき点はこうした信じ切る姿勢かと思います。不幸に思われることすら、神のご計画として信じ切り神に委ねる姿勢です。

 ところで、献身を神に表明する人は、誰にも理解されない孤独を味わいます。献身を人からの低い評価や、どう思われようとしても、また社会で孤立するとしても神が望まれていることを行うことが求められます。献身にはそういう覚悟が必要だということです。
マリヤもそうでした。救い主イエスを授かったときに、自分は、世間での荒波に耐えていくという献身の告白を「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」の言葉のなかに込められていました。

理解してくれる人の存在


 39節を読みますとマリヤは受胎告知のあと、すぐさまユダの町に急いだとあります。どこへマリヤは向かったのかといいますと、親類のエリサベツのもとでした。エリサベツは、マリヤの声を聞くと即座に、メシアの母が来られたとわかったと記事にはあります。しかも、胎児であったバプテスマのヨハネも母の胎内で盛んに胎動したとあります。まさに、御霊が示してくれたことであったわけです。

 ところで、なぜ、マリヤがすぐにエリサベツのもとを訪ねたのかといいますと、マリヤの受胎を理解してくれるのはエリサベツだけであると思ったのかもしれません。マリヤの両親については聖書では語っていないのですが、両親には迷惑をかけたくないという思いも働いたのでしょう。頼りにできるのは、エリサベツ以外にないと彼女は思いました。
なぜならば、マリヤは以前に年老いた親類のエリサベツが、奇蹟によって身ごもったことと、御使いが現れ懐妊を約束してくれたことの一部始終を聞いていたと思われます。エリサベツの周囲では奇蹟が起こったと騒いでいたかもしれません。

 マリヤは、処女懐妊という誰も信じてはもらえない出来事を、先駆者ヨハネを懐妊したエリサベツは良き理解者、相談相手になってくれると思ったに違いありません。マリヤは御使いガブリエルから受胎告知を受けた時、言いしれない孤独を覚えたでしょう。親にも言えない、ましてやいずれは周囲は気がついてしまうという恐れを抱いたのではないでしょうか。まだ、15歳そこそこの少女が担うにはあまりにも大きな重荷であったのではないかと思います。一人で生きていくにも十分な稼ぎは得られないだろうし、ましてや婚約中に不倫したのではないかという噂が立つことで、信用も失い、得られるであろう収入も著しく損なわれていく、そうした社会の厳しい制裁にどれだけ彼女が耐えられるのだろうかと想像しますと、とても担いきれない重荷と不安のなにものでもありません。ところが、神は、そうした逆境の中にあっても救いの手を差し伸ばしてくださっていたことは私たちへの平安の手がかりになるものです。

 神はメシアご降誕のためのご計画が開かれるために、15歳のマリヤに相応しい相談相手、良き理解者としてのエリサベツを主はあらかじめ準備してくださっていたのです。エリサベツの存在は、マリヤにとって、とても心強い存在に映ったかと思います。しかも、理解できない両親に対してもとりなし、マリヤを積極的に擁護してくれる存在でもあったと思います。まさにエリサベツの存在は善き牧者のようでもあり、まさに、来たるべきメシアであるイエス・キリストの姿、良きカウンセラーである聖霊をほうふつとさせるものであります。

隣人になる

 マリヤは誰も信じてくれないと思う中におりました。こうした孤独の中で、エリサベツの存在は彼女にとって大きな慰めでした。 エリザベツ自身も誰も信じてもらえないような大きな奇蹟を体験していたので、マリヤに起こったイエス・キリストのご懐妊という奇蹟の素晴らしさを知ると同時に、自分が経験したこの世での孤独をよく理解できたのです。
振り返って、私たち自身も見ますと信仰を持ったということは神の大いなる奇跡の中で行われたことです。しかし、この御業を理解してくれるのはこの世にあってはとても難しいのです。この日本にあって、クリスチャンには孤独があります。家族の中で、学校の中で、あるいは会社の中で信仰を持っているのは、あなただけかもしれません。

 しかし、教会にはあなたを理解し、支えててくれる人がいます。 教会の一人ひとりはマリヤでもあり、エリサベツでもあります。神の大いなる恵みと孤独を同時に共有する者たちの集まり、それが教会というものです。 教会というかけがえのない交わりの原型はマリヤとエリサベツが模範として示してくれました。こうした理解者との交わりがあって、46-55節にある素晴らしいマリヤの賛歌が歌われたのです。私たちは、この二人の姿を見て、私たちは、良き理解者として孤独にある人々を助ける事ができます。ここにクリスマスの奇蹟というものが私たちの前に再現するのです。このクリスマスの奇蹟を豊かに体験していこうではありませんか。

心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
マタイによる福音書5章8節