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聖書の山シリーズ9 祈りの聖地 オリーブ山

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2022年9月18日 礼拝

聖書箇所 ルカによる福音書 22章39節-46節


ルカによる福音書
22:39 それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。
22:40 いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。
22:41 そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。
22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
22:43 すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。
22:44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。
22:45 イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。
22:46 それで、彼らに言われた。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。」

はじめに


聖書の山シリーズの第9回目。今回は、イエス・キリストの受難を色濃く映すオリーブ山をご紹介します。オリーブ山といいますと、イエス・キリストが十字架に架かる前に、弟子たちを連れて夜を祈りあかした場として知られる山です。このオリーブ山を通して、私たちに語りかけている主のメッセージとはいかなるものであるのかを見ていきたいと思います。

オリーブ山について


オリーブ山は、エルサレムの旧市街の東に隣接する山です。かつてここは、山の斜面一面に覆っていたオリーブの木立にちなんで名付けられました。キデロンの谷を隔ててエルサレムの東にある山です。オリーブ山は、中央・南パレスチナを南北に走る山脈の一部を構成し、尾根の長さが4キロにわたる連峰で、標高800メートル前後の3~4つの山を総称してオリーブ山と読んでいるようです。使1:12ではエルサレムから「安息日の道のりほどの距離」(およそ1キロ)の距離になります。エルサレムからは非常に近い位置にあります。

福音書に記されているように、イエスの生涯におけるいくつかの重要な出来事はオリーブ山で起こりました。使徒の働きでは、イエスが昇天された場所として記されています。イエスとマリアとの関係から、山は古くからキリスト教徒の崇拝の場所であり、今日ではカトリック教徒、東方正教会、プロテスタントの主要な巡礼地となっています。今日ではオリーブの木は見られず、荒涼としておりところどころにユダヤ人の墓が見られます。この山は今日、アラビヤ人によってジェベル・エト・トゥール(主要な山、聖なる山)と呼ばれているそうです。

ノイケルン, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons

旧約聖書にみるオリーブ山


裸足にされたダビデ

この山は旧約聖書に何度も登場します。ダビデが息子アブシャロムの謀反にあい、都落ちをする場面です。謀反にあったダビデは、悲しみのあまり、泣きながら、裸足でオリーブ山の坂を登ります。

Ⅱサム15:30
ダビデはオリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、はだしで登った。彼といっしょにいた民もみな、頭をおおい、泣きながら登った。

いのちのことば社 【新改訳改訂第3版】

Ⅱサム15:32 ダビデが、神を礼拝する場所になっていた山の頂に来た、ちょうどその時、アルキ人フシャイが上着を裂き、頭に土をかぶってダビデに会いに来た。

いのちのことば社 【新改訳改訂第3版】

ダビデは、オリーブ山の山頂に着き、そこから、バフリムの村へと逃れたという記事があります。

偶像を祀ったソロモン

次に、ソロモンですが、彼の晩年、外国人の妾たちの影響によって、ケモシュ神やモレク神などの偶像神の礼拝所を築きます。

Ⅰ列王 11:7 当時、ソロモンは、モアブの、忌むべきケモシュと、アモン人の、忌むべきモレクのために、エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた。

いのちのことば社 【新改訳改訂第3版】

ここにある、『エルサレムの東にある山』とは、オリーブ山を指しています。ちなみに、外国人の妻たちがもたらしたケモシュやモレクの神というものがどういう神であったのかを紹介しますと、新聖書辞典には、こう説明されています。

■ケモシュ (〈ヘ〉kemos) モアブ人の神の名.戦いの神として礼拝された(士11:24,Ⅱ列3:27).聖書はモアブ人のことをケモシュの民と呼んでいるほど,この神がモアブ人の間で広く崇拝されていたことを示している(民21:29,エレ48:46).ケモシュの前で子供を全焼のいけにえとしてささげたことが碑文に記されており,Ⅱ列3:27のモアブの王の長男を全焼のいけにえとしてささげた記事も同様の慣例を示すものである.ソロモン王はエルサレムにもこのケモシュ礼拝を導入し,ケモシュのために高き所を築いた(Ⅰ列11:7).この異教の神の礼拝はヨシヤ王の時まで続けられ(Ⅱ列23:13),イスラエルの信仰の腐敗に大きな影響を与えた.士11:23ではアモン人の神がケモシュだと記されている.Ⅰ列11:7ではアモン人の神は「モレク」となっている.士11:23のケモシュは「モレク」の間違いであると主張する説もあるが,「モレク」はケモシュを表す別名ではないかとも考えられる.

いのちのことば社 新聖書辞典 『ケモシュ』

ケモシュ、モレクともに、小児人身犠牲という、子供をいけにえとして捧げるという恐ろしい信仰の儀式がありました。

終末期にイエス・キリストが来られると聖書は約束していますが、世の終わりにが近づくと、教会にも信仰が見られなくなるというのです。つまり、クリスチャンであると信じてはいても、その実際は信仰が見られない状態になってしまっているというのです。私たちの心の中を点検してみてください。私たちの心のオリーブ山には、主なる神の神殿以外に何の神殿があるのかを見つめなおす必要があります。偶像は、何でしょうか。経済でしょうか、それとも職場でしょうか。私たちは、神を愛するとしていても、神以上に大事にしているものがあるのです。

オリーブ山は、私たちの祈りの心を象徴した山でもあります。祈りの心に余計なものを持ち込んだソロモンのようになってはいけません。預言者ホセアは言います。

ホセ 10:2 彼らの心は二心だ。今、彼らはその刑罰を受けなければならない。主は彼らの祭壇をこわし、彼らの石の柱を砕かれる。

いのちのことば社 【新改訳改訂第3版】

オリーブ山を聖めたヨシヤ

ソロモンの堕落から、およそ300年後のことです。ユダのヨシヤ王は、オリーブ山の頂に立つ、偶像の神殿を破壊して宗教改革を行います。

Ⅱ列王23:13 王は、イスラエルの王ソロモンがシドン人の、忌むべき、アシュタロテ、モアブの、忌むべきケモシュ、アモン人の、忌みきらうべきミルコムのためにエルサレムの東、破壊の山の南に築いた高き所を汚した。
23:14 また、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒し、その場所を人の骨で満たした。
23:15 なお彼は、ベテルにある祭壇と、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの造った高き所、すなわち、その祭壇も高き所もこわした。高き所を焼き、粉々に砕いて灰にし、アシェラ像を焼いた。

いのちのことば社 【新改訳改訂第3版】

こうして、300年もの間にわたりイスラエルを堕落させてきた数々の異教の神々の神殿が取り除かれ、イスラエルの神の信仰復興を断行しました。この行為は神に喜ばれたことでした。しかし、この後の歴史を見ていきますと、オリーブ山に建てられた教会がイスラム教徒に壊されるなど、様々な受難を受けていきます。信仰の戦いが常にある山として記憶されている場所になります。私たちの心もそうです。常にサタンからの誘惑を受け、試みられている場であります。その心にあなたは何を建てあげていくでしょうか。

再臨預言のオリーブ山

エゼキエルはオリーブ山の幻を見ます。

エゼ11:22 ケルビムが翼を広げると、輪もそれといっしょに動き出し、イスラエルの神の栄光がその上のほうにあった。
11:23 主の栄光はその町の真ん中から上って、町の東にある山の上にとどまった。

いのちのことば社 【新改訳改訂第3版】

主の栄光の象徴であるケルビムがエルサレムから離れ、オリーブ山に移る幻をエゼキエルは見ます。

ゼカリヤは終末の時に、メシヤがオリーブ山に立つと預言します。

ゼカ14:3 主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。
14:4 その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。

いのちのことば社 【新改訳改訂第3版】

その際に、オリーブ山は真っ二つに裂け、大きな谷ができると預言されています。
オリーブ山は、終末期における大舞台を繰り広げる場であることが予言されています。新約聖書の中にも、イエスが昇天する時、このときもオリーブ山で昇天しますが、再び来臨する際には、オリーブ山に降りてこられると紹介されています。

使徒による働き1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

いのちのことば社 【新改訳改訂第3版】

新約聖書にみるオリーブ山


オリーブ山といいますと、すぐに連想するのは、イエス・キリストの受難です。イエス・キリストが十字架にかけられる一週間前の日曜日に、オリーブ山のふもとにあるベタニヤとベテパゲを通ってエルサレムに向かいました。

マル11:1 さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、

いのちのことば社 【新改訳改訂第3版】

エルサレムに到着したイエス・キリストは、沿道で迎える民の「ホサナ」と歓声で迎えられます。その一週間、エルサレム神殿で人々に教えを説いていきます。夜になるとオリーブ山に戻られ、祈りを持つというのが受難週の日課でした。

ルカ 21:37 さてイエスは、昼は宮で教え、夜はいつも外に出てオリーブという山で過ごされた。

いのちのことば社 【新改訳改訂第3版】

大事なことを教えたイエス

イエス・キリストは、このオリーブ山で重要なことを弟子たちに教えました。それは、マタ24:3とマコ13:3に記されていることですが、

マタ24:3 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

いのちのことば社 【新改訳改訂第3版】

イエス・キリストは、世の終りについての教えは、オリーブ山で特別に語られたものでした。エルサレムにおいて示されたものではなかったのです。
終末の預言をオリーブ山でなぜ語られたのでしょうか。エルサレムで語られても良いことだと思います。むしろ、大事なことだからこそ、衆目が集まる場で語られても良いはずです。しかし、イエス・キリストはそうされなかった。なぜでしょうか。それは、エルサレムで語ることは適切でなかったというのが答えになるでしょう。エルサレムで終末のことを語ったとしても嘲笑されるか、神の子の権威が軽んじられるだけだったかも知れません。
オリーブ山を選んだ理由の一つとして、

黙 13:9 耳のある者は聞きなさい。

いのちのことば社 【新改訳改訂第3版】

オリーブ山は、御声を聴き分けられる者の象徴です。神は、私たちに御声をかけてくれるのですが、御声をかけてくださるのは、人の多いところや賑やかな場ではありません。奥まった静かな場においてです。エリヤもホレブの山で神の御声を聞いたとあります。

Ⅰ列王19:12 地震のあとに火があったが、火の中にも【主】はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。

いのちのことば社 【新改訳改訂第3版】

イエス・キリストもそうでした。最後の晩餐はエルサレムでとられましたが、その後オリーブ山へ退いていきました。そこで、弟子たちに終末について告げ知らせたのです。

はだかの祈り

マタイ26:30 そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。

いのちのことば社 【新改訳改訂第3版】

彼は、エルサレムの神殿で祈らずに、暗いゲツセマネの園で祈られました。本来ならば、主なる神が祀られている神殿で祈るべきことですが、あえて、人里離れたオリーブ山に向かいそこで祈っていたということには意味があります。イエス・キリストは祈りの心得について、次のように語っています。

マタ 6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

いのちのことば社 【新改訳改訂第3版】

祈りは、神と人との交わりであり、私たちが神に帰さなければならない感謝の表現であります。私たちの祈りは、万物の創造者であり、主権をもってすべてを導き、私たちの祈りを聞いてくださる方であるという明確な対象に対してなされるものです。祈りは何よりも神が私たちに求めていることであり、また祈りこそ、神に生かされている者の信仰そのものの姿でありますから、エルサレム神殿のように、建物の壮麗さ、巨大さ、威容というものとはまったく無縁です。

ダビデが、アブシャロムの謀反のときに泣きながら登った記事を思い出してください。

Ⅱサム15:30 ダビデはオリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、はだしで登った。彼といっしょにいた民もみな、頭をおおい、泣きながら登った。

いのちのことば社 【新改訳改訂第3版】

ここで重要な点として、祈りの姿勢とは、心を裸にするということです。神の前に着飾って、自分を高く見せたり、自分をなにか立派なものとして神に出ることではありません。神の前に出るということは、ダビデのようにはだか裸足で神の前に出ることです。ありのままの自分をさらけ出すという行為です。着飾って、格好つけて神様にお言葉を申し上げる場ではありません。神は、私たちの隠れた罪をすべてご存じです。どの人も神の前に出たとき、神の前に問題を告白するときには、それこそ、「頭をおおい、泣きながら」出るしかないのが私たち本来の姿ではないでしょうか。

そういう場に、立派な神殿、壮麗で見事な装飾はいらないでしょう。むしろ、必要のないものです。私たちは、祈りの場に行くときにはだか裸足で、泣きながら神がおられるオリーブ山に向かわなければならないのです。

黙3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

いのちのことば社 【新改訳改訂第3版】

祈りの向かう態度とは、自分が「自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であること」の表明です。しかし、どうでしょうか。私たちは、今も、神のみ前に、格好つけて美辞麗句と取ってつけたような感謝を捧げていないでしょうか。神が私たちに望んでいることは、そういうことではないことを詩篇の作者は伝えています。

詩 51:17 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

いのちのことば社 【新改訳改訂第3版】

イエスの祈りの地

オリーブ山の麓のゲッセマネの園で、これから迫りくる十字架の苦しみを覚えて神に自分の苦しみを切々と神に祈っている姿があります。

ルカ 22:44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。

いのちのことば社 【新改訳改訂第3版】

このイエス・キリストの祈りの姿は、これから背負う十字架の苦しみを真正面から受け止め、その苦しみから逃れまいとする迫真の祈りでした。しかし、その苦しさを耳障りのよい言葉で飾ったりはしませんでした。

ルカ22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」

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イエスの本心は、十字架の苦しみから助けてほしいというものでした。メシアであるのに、何をメソメソと思う方も中にはいるかも知れません。しかし、十字架刑がどのようなものであるかについて知るならば、根性なしとは誰も言うことはできません。十字架刑とは、人を殺すための死刑ではありません。見せしめのための刑罰だからです。長く苦しませることが目的でしたから、たとえ、メシアだとしても、苦しんだに違いありません。また、その苦しみもすでに御存知であったでしょうから、余計につらいことであったでしょう。

イエスの昇天と再臨の地

こうして、イエス・キリストは、ゴルゴダの丘で十字架にかけられていきます。そうして彼は、いのちを落とし葬られますが、三日後に復活し、その姿を弟子たちにあらわします。そして復活後40日たってイエスはオリーブ山から昇天されるという劇的な最後の姿を見せます。

使徒の働き
1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
1:12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。

いのちのことば社 【新改訳改訂第3版】

イエス・キリストは、昇天と再臨のときに、オリーブ山を選ばれたのは偶然ではありません。繁栄と栄華とまた、再臨があ神のご計画の確かさがここにも示されています。神は、オリーブ山を祈りの場とし、その祈りの場から昇天し、また再臨される預言があるは、単に聖書の歴史観のみならず、私たちの祈りの具体的な適用がなされる場であるということです。

オリーブ山と私たち


神は、私たちにオリーブ山という山を示した上で、その山を通して、恵み豊かな祈りとその姿勢を教えてくれています。その順序とは、

  1.  神の前に私たちが無力であることをさらけ出す(ダビデ)

  2.  自分の心に巣食う偶像があることを認める(ソロモン)

  3.  心の偶像を取り除き、みずからを捧げること(ヨシヤ)

  4.  祈りの中に恵みと神の栄光が与えられること(エゼキエル、ゼカリヤ)

こうした祈りの順番を見ていきますと、祈りの姿勢を示してくれていたと理解できます。
まさに、このオリーブ山とは、単に山という地形ではなく、私たち信仰者の心の状態と祈りの姿を反映したものと言えましょう。

使徒の働き22章43節を見てください。イエスがゲッセマネの園で受難前に必死に祈っていたときのことが記されていますが、

使徒22:43 すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。

いのちのことば社 【新改訳改訂第3版】

御使いが現れて、イエスを力づけたとあります。じつは、このことは、イエス・キリストだけではありません。神は必死な祈りには、かならず応えてくださるお方だということです。自分の心にある偶像を聖めていただき、真剣な祈りには、神からの支えがあります。これは、真実です。

また、そのような祈りに対して、神は、豊かなしるしと恵みをもって私たちに臨んでくださいます。エゼキエルの預言を見てみましょう。

エゼ11:22 ケルビムが翼を広げると、輪もそれといっしょに動き出し、イスラエルの神の栄光がその上のほうにあった。11:23 主の栄光はその町の真ん中から上って、町の東にある山の上にとどまった。

いのちのことば社 【新改訳改訂第3版】

神の栄光が、我々に臨んでくださることを約束しているのです。しかも、その栄光は、オリーブ山という、祈る私たちの姿を通してとどまってくださるという輝かしいものであることを覚えてください。ハレルヤ!

参考文献


  • 新聖書辞典 いのちのことば社

  • 新キリスト教 いのちのことば社

  • フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)