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ナザレのヨセフ          2021年アドベント 第1週

【新改訳改訂第3版】
マタイによる福音書  1:24-25 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

https://youtu.be/hIva8aEj9sA

【新改訳改訂第3版】
マタイによる福音書 1章18-25節
イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

はじめに

アドベントに入りました。アドベントとは、降誕節と言いますが、漢字の通り、イエス・キリストのご降誕を待つ時期として知られております。街角のあちらこちらにイルミネーションが飾られ、ショッピングモールのあちらこちらには、クリスマスツリーが置かれるなど、日本中クリスマス一色に彩られております。ところで、クリスマスにはどういうことがあったのかを知る人は少ないと思います。今回は、クリスマスに登場する人物たちの姿を通して、クリスマスを見ていきたいと思います。第一回目はイエス・キリストの養父であったナザレのヨセフについて見ていきたいと思います。

聖書におけるクリスマス

みなさまは以外に思われるかもしれませんが、聖書の中におけるクリスマスの記事というものは、聖書のごく一部にしか過ぎないのです。新約聖書の中には、四福音書やパウロ書簡等の書簡が収められていますが、クリスマスに関する記事は、マタイによる福音書、ルカによる福音書の冒頭に書かれているに過ぎません。また、クリスマスに関する預言は、旧約聖書のイザヤ書、ミカ書にわずかに触れられているだけです。

世界中で盛大に祝われているクリスマスではありますが、こと聖書における位置というものは、非常に少なく、当然のことながら、イエスの義父であるヨセフの資料というものは限られています。ですから、多くの教会では、クリスマスについてお祝いをするのですが、どこか叙情的な印象を受けるのは、資料の少なさに起因しているのではないかと考えます。

ところで、本題に移りたいと思いますが、今回取り上げるナザレのヨセフですが、『マタイによる福音書』によれば、マタイによる福音書によれば、ヨセフはナザレ生まれのダビデ家第42代の末裔でした。ヨセフの父はヤコブという人物です。マリヤとヨセフは許嫁として婚約が決まっていました。(18節)。ところが、婚約中にありましたが、『ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。』と18節に記されておりますように、処女であるマリヤが聖霊によって子を宿した事実を知ったヨセフは困惑したとあります。

当時の結婚観

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【新改訳改訂第3版】マタイ1:18-19
 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

 18-19節を読みますと、二人は、婚約期間中でしたが、「母マリヤ」「夫のヨセフ」と記されています。当時のイスラエルでの婚姻には、三つの段階があったそうです。まず、両親や仲人によって、本人たちが知らないうちに結婚の約束をすることです。これを許嫁(いいなずけ)と言いますが、二人は許嫁(いいなずけ)の関係にありました。

 次に、実際に結婚するためには、本人たちの意志を確かめたうえで、結婚式の1年前に、婚約期間を設けていました。なぜそうしたのかといえば、それぞれの実家で結婚に備えての教育を受けることと、万が一この時に、婚約を解消したければ、解消ができる猶予期間であったようです。しかし、いったん正式に婚約を承認しますと、婚約期間中にかかわらず夫婦とみなされたようです。ですから、婚約が成立してから、この婚約を解消する時には、その時には正式に離婚届けを出す手続きが必要でした。ですから、婚約を承認した時点で、結婚と同等の意味があり、この婚約期間を大切にしていたようです。それは、結婚ということが神様の御前でなされる、聖なる契約関係というものが強く認識されていたことがわかります。

 現代からすれば結婚が非常に厳格なように思われますが、イスラエル人にとって、結婚というものは、人間の考え出した制度ではなく、神の聖定と考えていました。

 つまり、結婚とは、神のつくられた制度であり、神が人間社会の基礎となるべきものとして制定されたものです。「男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となる」(創世2:24)。また、結婚は契約でした。結婚は神によって定められた契約(カベナント)です。箴言2:17やマラキ2:14には、妻は伴侶であり、契約による妻であること、結婚は神の御前で結ばれた契約であり、人の好みでつくられた制度ではないということがユダヤ人の間で強く共有されていたのです。


正しい人ヨセフ

【新改訳改訂第3版】マタイによる福音書1:19
夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

 ヨセフは「正しい人」であったとマタイの福音書に記されています。正しい人を本文では、δίκαιος(ディカイオス)と書かれておりますが、

聖書でいうところの正しいとは、感情や行動が完全に神の意志に従っている――神の御心に沿った生き方をしていた人物を示します。

 それゆえ、忠実に律法に従う生活をしていた彼にとって、御霊によって身ごもったマリヤを前に苦悩したことであったかと思われます。記事によれば、生物学上ありえないことが起こっているという現実に当惑を覚えたのではないかと思います。

 もしかすると、マリヤは他人と姦通したのではないかといった疑念が、彼の脳裏を覆ったのではないでしょうか。まさか、だれかに暴行されたのか...。そうした疑念や疑惑をマリヤに向けたに違いありません。

 ところで、私たちがこういう時代の習俗の環境に置かれたと想像してみましょう。過去の日本人の感覚からすれば、世間体を気にして離縁を申し出ることもあったでしょう。19節を読みますと、『彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。』とあります。一見するとここでは、世間体を気にしてヨセフは離縁したのだ。というように読み込んでしまうものですが、どうもそうではないようです。

 通常、ユダヤ人の律法に忠実な人であれば、マリヤを不義姦通という罪でもって世間に公表した上で、離縁するということであったようです。時代を遡ると、旧約聖書のモーセの時代には、姦淫は石打ちの刑になるため、離婚ではなく、死刑によって結婚が終了したわけです。それだけ、不倫や姦淫の罪というのは過去のユダヤ社会では重罪であったのです。

 さすがに、ローマ帝国治世下のイスラエルでは、死罪というところまでは至らず、罪を公表して離縁でもって解決したということでした。しかし、ヨセフは当時の慣習に従わず、『内密にさらせようと決めた。』とあります。では、なぜ、『内密にさらせよう』としたのでしょうか。そのヒントが、『決めた』という言葉にありました。

 『決めた』と訳された本文βούλομαι(ボーロマイ)ですが、この意味は、「意図的に、目的を持ち、愛情として喜んで、望む」という好意的な意味を持つ言葉です。そこには、世間体を気にして離縁するという意味は否定されます。なぜ、公表せずに内密にしようとしたのかと言えば、ヨセフなりに、当時の社会に抗って、マリヤを守ろうとしたということです。

 ボーロマイという言葉に、ヨセフのマリヤへの愛情がいうことがこの単語から伝わってきます。現在では、離婚は一般的で、不貞も人生経験の一つとして許容される社会とは異なり、マリヤがイエス・キリストを身ごもったということは、決して喜びなんかでもなく、ネガティブな烙印を押されたまま、ユダヤ人社会で日陰者として一生生きなければならないという曰くつきの妊娠であったわけです。

 つまり、イエス・キリストのご懐妊ということは、当事者たちにとって、とくにマリヤにとっては迷惑以外の何物でもなく、イエス・キリストを身ごもらなければ、ヨセフと穏やかな一生を暮らせるはずであったのに、身ごもったゆえに、一生傷を負って生きなければならないという事態に遭遇したわけです。現在、イエス・キリストのご懐妊をファンタジーとして、世界中で祝っておりますが、マリヤとヨセフにとっては、喜び祝うどころか、悲嘆と苦しみを一生負い続けることを意味する出来事でもあったのです。

 そうした、マリヤへの社会へのダメージを拭うためにも、秘密裏に離縁させることが彼女にできる最善の方法と考えて、彼なりに苦悩し、努力をした形跡がボーロマイという単語の意味に隠されているということです。

 こうしてみますと、ヨセフは、自分に恥をかかせるのかといってマリヤを責めたてるような人物ではなく、理解はできないが、とにかくマリヤを信じようという人間であったことが浮上します。

 彼は、人間の情愛よりも神への信仰を貫くという、四角四面で融通の利かないユダヤ人ではなく、律法を守る以上に、人を愛することが最も尊いことであると考える「正しい人」であったことが理解できるのではないでしょうか。

ヨセフの覚悟


また、彼が真の意味での正しい人であったことが、20節に示されております。

【新改訳改訂第3版】マタイによる福音書1:20
彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

彼は、離縁しようと思い巡らしているときに、主の使いが夢に現れて、『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」』20-21節に受胎告知の記事がありますが、主の使いの告知によって、マリヤと結婚することが、結婚の決め手になったようです。

 御使いのことば通りに彼は、マリヤを迎え入れ、結婚するわけですが、当然、周囲はマリヤの不貞を疑う人がいたでしょう。現在では婚前交渉が普通の事となっていますが、当時のイスラエルでは、婚前交渉は固く禁じられていました。当然ながら、ヨセフとの禁じられていた婚前交渉を噂する人もあったことと思われます。また、マリヤが御霊によって身籠ったことを真に受ける人はいなかったのではないかと思います。

 そうした疑念による世間の噂や嘲笑、蔑みから免れるために、御使いの告知を振り切り、ヨセフは離縁することも可能でしたが、彼は、誰も信じてはもらえぬ孤独の中に身を置く決心をそこでしたのです。つまり、それが、ヨセフの信仰でした。かれが今もカトリック教会において聖人と崇められ、今もクリスマスの主人公の位置を占めるのは、まさにこの決断にあると考えます。

 彼の決断とは、神に対するβούλομαι(ボーロマイ)の告白でありました。嫌々ながらではない、喜んで自分の身に降りかかるであろうネガティブな困難であろうとも喜んで受けていく、身を投じる覚悟の決心がそこにありました。彼は、イエスが生まれるまで、マリヤを知ることがなく、貞節を守り通したとあります。そしてその子の名前をイエスと名付けます。イエスという名は、「神は救いたもう」と言う意味です。最後にイエスと名付けた意味というのは、自分はこの子の父親であり、神から預かったこの幼子を自分の子供として育て上げようとの決然とした意志表明に映ります。

 世間では、誰の子供であるかわからないという噂がついて回る、しかも、ヨセフとマリヤは婚前交渉したのではないか?という疑いを持たれたわけです。イエス・キリストを、神の子として私たちは認知していますが、当時の社会では、認知がはばかれるような、良くない噂のたつこの子に対して親権を認めていくというのは、父ヨセフにとって精神的にどれだけ過酷であったのではないかと思います。認知できない子を実の子として育てていく覚悟と責任をヨセフは帯びていたのです。

 イエス・キリストのお生まれに対して、実は重い十字架をヨセフ自身が負ったのかと考えますと、まさに、私たちの罪を負い、私たちのために身代わりとなられたイエス・キリストの雛形のようにヨセフを見るものであります。

 しかも、かつては罪の子である私たちを、神は我が子として認知してくださっている。私たちを救うことにどれだけの気苦労と苦しみをキリストが負ってくださっているのかということを、知るときに、なんという恵みであり、感謝なことではないでしょうか。

 イエス・キリストを信じたとき、私たちはヨセフの経験を受けることもあるでしょう。家族からの迫害、友人との離別、嘲笑・・・。主イエスを信じたことによる困難を受けたことがあると思います。そうした渦中にある方は悲しまないでください。それは、まさにヨセフの受けた苦しみ、十字架です。こうした重荷を負った皆様は、主の恵みを豊かに受けている、神からのあわれみを豊かに宿している証拠です。かならずや、神はあなたに祝福をもたらすことを約束しています。その苦しみのうちに

 クリスマスを前にして、最初のクリスマスに関わったヨセフの苦悩と重荷を見ますと、『正直者は損をする』と言われますが、ヨセフの選択は、損をする一方の生涯であったかと思います。ですから、王族の一人に数えられてはいましても、貧しい大工のままであった理由かもしれません。しかも、大工というのは、当時の社会の最底辺の職業であったと言われております。ヨセフは、富や名誉、学識には恵まれなかったとしても――――正しい人として聖書に記されている彼は、単にダビデ王族の末裔として挙げられているのではありません。彼は、人間的な資質において本物の王でした。その王の息子イエス・キリストこそが、ユダヤ人の王であり、全世界の王ということになるのです。『正直の頭に神宿る』ともいわれますが、実際のヨセフは、現実世界では損失を被るばかりの生涯だったかもしれません。しかしそれは見た目のことであって、全人類の王イエス・キリストの養父という冠とともに、彼は本物の信仰という、王にふさわしい真の宝を所有していたのです。