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極限のもとでの約束              Ⅰペテロ5章10-11節

2023年6月25日 礼拝

Ⅰペテロの手紙
5:10 あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

Ὁ δὲ θεὸς πάσης χάριτος, ὁ καλέσας ὑμᾶς εἰς τὴν αἰώνιον αὐτοῦ δόξαν ἐν Χριστῷ [Ἰησοῦ], ὀλίγον παθόντας αὐτὸς καταρτίσει, στηρίξει, σθενώσει, θεμελιώσει.

タイトル画像:Filip KruchlikによるPixabayからの画像

はじめに


以前ご紹介した、Ⅰペテロ5章8節では「身を慎み、目をさましていなさい」という使徒ペテロの助言がありました。そこで、彼はさらに教えを続けます。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」と警告します。このような現実の中で、1ペテロ5:9節では、私たちが直面する敵に対してどのように立ち向かうべきかが示されていました。それには、信仰告白に堅く立つこと、兄弟姉妹との一致した信仰、兄弟愛によって悪魔に勝利していくものであるということでした。今回は、10節から神の与える恵みについて見ていきたいと思います。

しばらくの苦しみ


前回の9節で我々の最大の敵である悪魔との戦いについて紹介しましたが、霊の戦いに関してどのように対処すべきかということを見ていきました。

そこには、ペテロが語る悪魔との戦いは、エクソシストのようなおどろどろしい悪魔祓いのようなものではなく、きわめて常識的な内容でした。
ところで、エクソシストの意味ですが、Wikipediaによれば次のように記されています。

悪魔祓い

エクソシスト(exorcist)は、キリスト教、特にカトリック教会の用語で、エクソシスムを行う人のこと。エクソシスムとは「誓い」「厳命」を意味するギリシャ語であり、悪魔にとりつかれた人から、悪魔を追い出して正常な状態に戻すことをいう。

出典:Wikipedia 『エクソシスト』

 最近は、諸宗教に見られるようなオカルト・ブームにあわせて悪魔論への関心が高いように思われます。過度の興味を持ちすぎるとか、一方で悪魔的活動による危険を軽視するであるとか、他方では危険であるからといってアンタッチャブルな傾向に陥らないようにすることも必要です。このためにバランスのとれた聖書神学の学びが求めれているところです。

なぜ、こうした振れ幅があるのかといえば、私たちの信仰が感覚的、妄信的、私的解釈に陥っているということに問題があります。ことさら、霊的なものに関しては、私たちは無知に等しいと言わざるを得ないでしょう。無知が誤解や混乱を招く引き金になっています。聖書は何を私たちについて語り、教えているのかを正確にバランスよく神学を学ぶ必要があります。

苦しみの質的変化

ペテロは10節の中で、『あなたがたをしばらくの苦しみのあとで』霊の戦いにおいて、精神的な面だけでなく、具体的な迫害というような肉体的な面での被害というものがあり、あらゆる面での苦痛というものを経験するのは避けられない事実として教えています。

彼は、信仰者の苦しみについて、Ⅰペテロの手紙のなかで繰り返して解いていますが、そこには、信仰を持ったからといって苦しみからは逃れられないと伝えています。いや、むしろ、信仰をもつことで私たちの苦しみの質的変化が起こるということです。

私たちは信仰を持ったから、自然とこの世での苦しみから解放されるというように捉えてしまうものです。たしかに信仰を持つことによって今まで思い煩っていたことからへの悩みや苦しみといったものからの平安というものが与えられることは事実です。

たとえば、死への恐怖、死後にある裁きへの恐れといったものは、キリストを信じる者には平安に変えられるという経験をします。

ところが、キリストを信じてからの苦しみというものも生まれてくるのです。それが、悪魔からもたらされる苦しみです。悪魔は信じた者に絶えず戦いと誘惑を挑み続けます。さらに、そのあかしも生活も破壊しようとするのです。

今回取り上げる節の直接の読者は、古代ローマ時代の迫害されているクリスチャンたちに宛てて書かれたものです。つまり、極度の不安と心配にさいなまれる人々に向けて書かれたものでした。信仰を持ったために苦難を味なわなければならない人々が直接的な読者でした。迫害という深刻極まりないなかにあって神は何を示したのでしょうか。

二つの祝福をもたらす神


あらゆる恵みに満たす

そうした中にあって、神は、二つの祝福を私たちに与えています。

まず1つ目は『あらゆる恵みに満ちた神』と10節に記されています。そこで、注目したい言葉は、『あらゆる』と訳された言葉です。πάσης(パセース)と書かれてますが、原型はπᾶς(パス)。「あらゆる」「すべて」という意味になります。ただし、ここでの用法は冠詞がない場合、πᾶς(パス)はより直接的に「あらゆる(個々の)部分」、すなわちキリストに属する個人に焦点を当てています。

つまり、神は、『あらゆる恵みに満ちた神』という言葉の中には、
選ばれた民一人ひとりに対する恵みをもたらす神という意味が含まれています。
包括的な意味に捉えられるπᾶς(パス)。
あらゆるという意味の中に、個別に与える意味を持っていることに驚きを持ちます。

あなたを栄光に招く神

第二点目は、『あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった』という言葉です。

ὁ καλέσας ὑμᾶς εἰς τὴν αἰώνιον αὐτοῦ δόξαν ἐν Χριστῷ [Ἰησοῦ],
(ホ カレサス ヒュマース エイス テーン アイオニオン ハウトゥー ドクサン エン クリストー イエスー)

ギリシャ語本文では、このように記されています。ほぼ新改訳の訳どおりで問題ないと思われます。
ここでは、永遠の栄光の中に入れるのは、キリストによってであり、しかも、神は栄光に至るように招いてくださっているということです。

栄光とキリスト
ここで疑問に思えるのは、
なぜ、『神の栄光』というように書かれても良いものをあえて
δόξαν ἐν Χριστῷ(ドクサン エン クリストー)と筆者が書いたかということです。
”ドクサン エン クリストー”を英訳しますと、glory in Christ”
となります。”glory in God”でいいと思いませんか?
そこを調べますと、興味深い事実が浮かび上がります。

δόξαν(ドクサン)の原型はδόξα(ドクサ)という言葉です。ドクサは『栄光』”というように一般的には訳されます。

その深い意味には、『キリストが地上でのみわざを成し遂げられた後、天にいる父なる神とともに引き上げられた状態』を言います。
また、 『救い主が天から戻られた後、真のクリスチャンが入ることが定められ約束されている、栄光に満ちた祝福の状態』を示す言葉です。
というわけですから、δόξα(ドクサ)はキリストの栄光を表す言葉ですので、ペテロはあえて『キリストの栄光』というように記したようです。

あなたを招く神
こうした、キリストにある栄光に招き入れたのは、神であり、しかも、καλέσας(カレサス)原型は、カレオーです。カレオーは、『呼ぶ』とか、『招待する』『招く』という意味があります。

『招く』という言葉は、神が私たちをキリストの栄光に呼んだということであり、その神は、私たち一人ひとりに個別に恵みをもたらすということになります。
その恵みとは、もともとは、「喜びの基礎である」とセイヤーは言います。
恵みを頂いて、私たちは喜べるものと変えられたわけですが、その恵みはバークレーによれば、本来私たちが出席さえも拒まれる宴席に呼ばれるということを意味すると言います。
婚礼の式に出席すらかなわない席に、私たちの宴席が用意され、そこに招待されるということです。

(マタイ22:10)「最後の分析では、神の私たちへの招きは恵みの招きである。 どう考えても、婚宴に招待されるとは思ってもみなかったし、招待されるに値するはずもなかった。 彼らにもたらされたのは、王の広い心、広い心、寛大なもてなし以外の何ものでもなかった。 招きを与えたのは恵みであり、人を集めたのも恵みであった」

W. Barclay,The Gospel of Matthew, II, Edinburgh, 1958, 296

そうした場に私たちは招かれているということです。

神が私たちにしてくださる4つの約束


1.完全にしてくださる

καταρτίσει(カタルティセイ)原型はカタルティゾー。完全にしてくださるという言葉があります。この意味は、『 適切に、正確に適合させる(調整する)ことで、正常に機能するようにする。』という意味があります。マルコ1:19に『繕う』と訳されていますが、つまり、『欠けたものを直して完全にすること』になります。

つまり、私たちは、神に招かれて行くなかで、信仰において不完全であり、罪においても完全には聖化されず、そうした中で、神の姿を見た時に自分の心や体の醜態とを見比べて忸怩たる思いにしばしば駆られることがあります。しかし、神は私たちを愛しているゆえに、私たちを祝宴に向けて準備をしてくださるということです。神の前に列席できるように身も心も正装然とした姿に聖めてくださるということです。こうした『聖め』も私たちの努力や心がけでなされることではなく、神の恵みによって補われ完全なものとされるのです。

2.堅く立たせる

στηρίξει(ステーリクセイ)原型ステーリゾーが『安定させる、固定させる』という意味です。このステリゾーは9節で紹介した、ステレオスの動詞になります。ステーリゾーは、神が信仰を与えたことに関連している言葉です。信仰があるから、ステーリゾーであるということになります。つまり、信者は「神に支えられているので耐える」ことができます。キリスト者は、神に固定されているので、迫害や困難に直面しても揺れ動くことがない、不動である姿になることを示している言葉です。

この言葉は、ルカ22:32で用いられており、そこでは、「兄弟たちを力づけ」というように訳されています。

3.強くしてくださる

σθενώσει(ステノーセイ)原型はステノオー。ステノス 「強さ」から由来する言葉で、「動けるように」すなわち、「何か効果的なことを達成するように動けるように、強くする」という意味です。この言葉は、聖書中、この節しか使われていない言葉です。

ステノオーは、古典ギリシア語では、流れが勢いを増し、その流れが終わるのを止められないという意味でも使われます。 「威圧する」とも訳されますが、動物が敵に打ち勝つこと、つまり角を使って強さに打ち勝つ道具として使われるということですから、単に私たちの信仰が強められるということではなく、圧倒的な勝者として強められるということが明示されてます。

4.不動な者としてくださる


『隅のかしら石』 Electroglyph, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>,
via Wikimedia Commons

θεμελιώσει(セメリオーセイ)原型は、セメリオーです。セメリオーは、バチカン写本やアレキサンドリア写本には欠けている単語です。その元の意味は、「確立する」、「堅固に確立する」、「土台を築く」、「基礎を築く」。という意味があります。ここで思い出されるのは、エペソ人への手紙2:20-22です。そこには次のように記されています。

エペソ人への手紙
2:20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。
2:21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、
2:22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

わたしたちには礎となる隅のかしら石があります。そして教会は、その上に主によって建てられ「組み合わされて」います。キリストはこの教会の隅のかしら石であられ、私たちはその土台によって築かれている存在です。
そのイエスこそわたしたちの救いの源であり、永遠の命を与えてくださる御方です(ヘブル5:9参照)。
イエスに匹敵するお方はだれもいません。これまでいませんでしたし、これからもいません。御子は、わたしたちが永遠のいのちを持つことができるようにと御自分の命をささげてくださいました。主はわたしたちの信仰と主の教会の揺るぎない隅のかしら石であり、同時に私たちは不動の礎の上に立つ者として据えられています。

未来形で示されていること

これらの4つの約束で使われている動詞ですが、そのいずれもが、未来形で記されていることです。神は苦難を通過して後、すべてのクリスチャンをこのようにお取り扱いくださるということです。

未来形が使われているということで、再臨後の約束として考える学者もいますが、今生きている私たちの信仰生活上での約束として捉えることもできます。つまり、生きている間の信仰生活の中で約束されている言葉でもありますから、私たちの信仰生活の困難の中にも適用できる約束であるということです。

ペテロの頌栄


こうした言葉のあとに、ペテロは、頌栄で締めくくります。

Ⅰペテロ5:11
どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。

神は、世界の主であり、歴史の支配者でもあります。神は、苦難にあえぐ信徒はもちろん迫害している人たちをも支配する神です。ご支配という言葉(クラトス)には、支配に達するまで「発揮される力」を意味します。 クラトスは、神の力がこの世に現されたことを示しますが、それは、すなわち、イエス・キリストの十字架と復活の御業にほかなりません。その十字架と復活の力は、全世界に支配をもたらし、それまで悪魔に占領されていた領域に「神の旗を降ろす」ことを意味する言葉です。 この発揮された力は、死が復活によって支配されたことを意味しています。パウロは、このことをこう語りました。

Ⅰコリ 15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。

神は、私たちを勝利から勝利へと招いてくださっていることを忘れてはなりません。しかも、どのように私たちを取り扱ってくださっているのかということに耳を傾ける必要があるでしょう。

それも、クリスチャン全体に語っているようで、実は、個別に語りかけてくださっているということです。すなわち、一般論ではなく、自分自身への語りかけであることを記憶していただきたいことです。神は、今日も永久に私たちをキリストの栄光のうちに招いてくださっていることを忘れないようにしていきたいものです。アーメン。