見出し画像

一年の計はどこにあるのか

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 
ローマ人への手紙  3章23節

2021年1月2日 新年礼拝

はじめに

新年あけましておめでとうございます。
日本のことわざに『一年の計は元旦にあり』という言葉があります。
古く中国に由来するといいます。中国では、「一年之計在于春」と表現しますが、年頭に目標を定め決意を新たにすることが大切と考える習慣が古来から日本では根付いています。

 ところで、キリスト教において、このような習慣があるかといえば、あまり聞きません。どちらかといえば、元旦に礼拝を持つことはあっても何か特別なものがあるということはありません。キリスト教にとって元旦には深い意味はありません。キリスト教の歴史をさかのぼりますと、異教の習慣や、それにまつわる祝日というものを、排除あるいは、キリスト教に転換してきた歴史があります。クリスマスもそうでした。もともとは、冬至に行われていた異教の祝祭日が起源です。太陽信仰の性格を持つミトラ教というペルシャの宗教には「光の祭り」という重要な祭りがありました。ミトラ教徒は太陽神ミトラスが冬至に「再び生まれる」という信仰をもち、冬至を祝いました。他方で、ローマ帝国も土着の祭りとして、農耕の儀式を12月25日前後に執り行われていました。こうした異教の信仰をしている人々に受け入れられるためにクリスマスに吸収、転換し、キリスト教を拡めてきたという歴史があります。ところで、元旦にも祭りはありましたが、どのようなものであったのでしょう。

古代ローマの新年

 古代ローマでは、新年の祝いは3月1日に行われていたということです。これには理由があります。。農耕が始まる春の3月1日を新年の祝いとしていたようです。農耕が基準であったため、収穫が終わると、暦も終わるというカレンダーであったそうです。そのため、次の3月が始まるまでの冬の2カ月間には名前がなく、いわば空白の期間でした。その後、暦の改竄が絶えず、紀元前46世紀ローマ皇帝カエサルが太陽暦を導入してようやく、現在の1月1日が定着するようになりました。

古代ローマでは、新年の祝いは3月1日に行われていました。しかし、紀元前153年、元老院は新年を1月1日に制定しました。その後改ざんが絶えず、紀元前46世紀ローマ皇帝カエサルが太陽暦を導入してようやく、現在の1月1日が定着するようになりました。
英語のJanuary(1月)はラテン語のヤーヌスからきています。ヤーヌスとは、門、戸口の守護神で、すべての始まりを司る神であり、頭の前後に顔を持っています。過去を振り返り、そして、未来に向かう姿の象徴とされています。
ローマ人の新年のお祭りはカレンズと呼ばれるもので、3日間、奴隷も主人もともに祝いました。カレンズとは、古代ローマ暦の最初の月を表します。
新年には、聖なる小枝を与え合いました。後に、守護神ヤヌスの顔が刻まれたナッツやコインをプレゼントし、お互いの幸福を祈願するようになりました。

http://www.cluster-net.com/hiroba/news/197/1.htm

 こうしてみていきますと、ヤヌス神を異教のものとして廃棄したことや、暦の進化とともに新年が移り変わるよりは、冬至という太陽の運行の確実性に基づいたクリスマスのほうが定着しやすかったのかもしれません。

私たちの一年の計とは

 それぞれ、みなさまは、新年に向けて新たな決意や希望を神様からいただいた方もいるかもしれません。そうした思いやビジョンに私たちは導かれ、主の御心の実現に向けて歩んでいく者として、この世に遣わされておりますが、そうした、決意や、希望、ビジョンの根底にあるものは何かといいますなら、それは、Jesus Died For Me.(主イエスは私のために死なれた)ということです。

 このことを忘れてしまいますと、あらゆることが崩れてしまいます。「主イエスがあなたのために死んだ」というのは、いったいどういう意味でしょうか。

あなたは死んでいる

 聖書は、人間に対して死んでいると告げています。霊的に死んでいるという意味です。そして、それはあなただけでなく、すべての人がそうです。聖書はこう告げています。

絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。ローマ人への手紙 6章2節

新改訳聖書第3版 いのちのことば社

 私たちは皆、それは罪(Sin)という病を負っております。それは、肉体を蝕むばかりか、私たちのSoulを死に向かわせるものです。Soulとは、人の意識・思考・感情・意思などの能力の源と考えられる無形の実体であり、日本語で霊魂とも言いかえられますが、霊魂と聞きますと、ややもすれば、幽霊とかを連想しがちなので、私はあえてSoul(ソウル)としますが、それは、人間の意識の根底にある重要なものです。

 それが、罪(Sin)によって害され、その結果、喜びを失う、恐怖にとらわれる、憂鬱を招く、不満を抱く、嫉妬を覚えるといった、人間としてあってはならない、あるべきではない状態に陥らせるものです。それらのすべては、感じたくもないし、できれば経験したくないものばかりですが、罪の結果どうなったのかといえば、私たち自身の力では、解決できず、取り除けず悩みや絶望に向かわせるものです。

 ところでSinという単語を見てください。SINとあります。Sinの中心に何があるでしょうか。その中心はI(自分)です。自己中心というが罪の根源にあります。私たちのSoulには、I(自分)が居座るということをもって罪を招き入れている。つまり、自分がある限り、罪は消えて無くならないというジレンマを抱えているのが、すべての人の問題です。パウロはこうした人間のジレンマを告白しています。

私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。                  ローマ人への手紙 7章9節

新改訳聖書第3版 いのちのことば社

これが、真の人間の姿ではないでしょうか。クリスチャンであっても、聖職者であっても、それが普遍の人間の姿というものです。

死んだものは生き返らない

 時を刻むことを止めた時計を見たことがあるでしょうか。今の時計はほとんど電池で動きます。電池が切れると、時計は止まってしまいます。あるいは、壊れてしまって動かないということもあるかもしれません。止まった時計を時計自身が動かせないのと同様に、罪によって死んでいる私たちも、自分たちの力で、Soulを生かそうとしても無理です。Soulの回復のために努力をします。慈善活動をする人もいるかも知れません。善行や修行をします。決して悪いことではありません。むしろ、世の貢献のために良いことをすることは称賛すべきことです。しかし、そうした行いや心がけでSoulの回復にはつながらないのです。Soulの浄化に向けて努力しても、罪(Sin)は無くならならないことは、とても残念なことです。しかし、残念に思わないでください。神は私たちに脱出の道を備えてくださっています。

イエスは罪(Sin)のために死(Die)なれた

 その道とは、生きてはいても、霊的に死んだ私たちにむけて神は、イエス・キリストをこの地上に遣わしてくれました。それは、あなたとあなたの死んだ霊的な心(Soul)を生き返らせるためにです。神であられるイエスが、私たちの身代わりにとなって、死んで(Die)くださったので、私たちは生きられるのですSinにしてもDieにしても、その真中にあるのは、Iつまり自分です。つまり、罪によって死んでいる自分のために、イエスは、そのいのちを投げ出し、あなたを救ってくれたということです。
 
 実際、イエス・キリストは、とても力強く、彼を信じ、関わるすべての人の歩みを再起動させることができます。先ほど、人を止まった時計に例えましたが、イエス・キリストは私たちの心(Soul)を充電し、再起動させてくださるお方です。しかも、切れることがない永遠の電池です。

しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」ヨハネによる福音書 4章14節

新改訳聖書第3版 いのちのことば社

 その「いのちの電源」であるイエス・キリストに接続するならば、私たちは、切れることのない「いのちの電源」を手に入れることができます。いのちの電源は、私たちを支配していた罪(Sin)のIをイエス・キリスト(Jesus)に入れ替えることで可能となります。つまり、今まで、自分のSoulを支配していた”I”(自分)からイエス・キリスト(Jesus)に自分の主導権を譲ることです。つまり、イエス・キリストを自分の救い主として信じることです。こうして、罪(Sin)は壊され、死(Die)も破壊されるのです。

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。 マタイによる福音書 7章7節

新改訳聖書第3版 いのちのことば社

再起動させてくださるお方に委ねる

 そうした、パワフルで、切れることないエネルギーを日々与えてくださるお方を忘れては、私たちは何もできません。この一年、私たちに委ねられたビジョン、計画を主の御手に委ねましょう。私のために死んでくださったお方が力強く確かなものとして私たちの新年をバックアップしてくださる。昨年やり残した、完成に至ってない、失敗ばかりの結果だったと悩みながら新年を迎える方もいるかも知れません。しかし、落胆しないでください。イエス・キリストは、望む者全てに、再チャレンジを与えてくださる力があることを忘れてはいけません。

あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。Ⅰコリント人への手紙 10章13節

新改訳聖書第3版 いのちのことば社

 この手紙のように、神は必ず、脱出の道を備えていてくださるお方です。悪を善に、悩みを希望に、苦しみを喜びに、忍耐にはそばについてくださるのがイエス・キリストです。私たちはこのようなお方がそばにいて守り支えてくださる。ひとりひとりのクリスチャンには聖霊という助け主が、心の真ん中におられるそのことを忘れてはなりません。聖霊の働きを弱めるものがあるならば、それをイエス・キリストによって取り除いていただきましょう。いよいよ、この2022年を主の実りゆたかな年として、歩みだそうではありませんか。

一緒に祈りましょう。
神様は、あなたの心にすみやかに応えてくださいます。

神様、私は死んだ心から、生かされたいのです。イエス様、私の罪のためにあなたが死んでくださったことを受け入れます。あなたが私のために死んでくださったことを信じますので、今すぐあなたのいのちを私に与えてください。私を霊的に生かし、あなたと共に人生を全うさせてください。私はあなたについていきます。アーメン。