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悪の非対称性 ペテロの手紙第一 3章9節


2022年1月16日 礼拝メッセージ

ペテロ第一の手紙3:9
悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。

μὴ   ἀποδιδόντες  κακὸν ἀντὶ  κακοῦ  ἢ λοιδορίαν ἀντὶ  λοιδορίας,  τοὐναντίον δὲ  εὐλογοῦντες,  ὅτι εἰς  τοῦτο  ἐκλήθητε  ἵνα  εὐλογίαν  κληρονομήσητε.

はじめに

前回は、クリスチャンの五つの目標について語りました。心ひとつにすること、同情しあうこと、兄弟愛をもつこと、あわれみ深くあること、謙遜であることの五つでした。そのいずれもがイエス・キリストが所有していたものであり、わたしたちの目標とするものだということを確認しました。
 今回は、Ⅰペテロ2章12節よりペテロは、その目標に対する実践を教えるものです。何度も繰り返しますが、当時のクリスチャンは社会的弱者が主体であって、様々なハラスメントを受けている現実がありました。そうしたハラスメントに対する具体的な対応についてペテロはどう教えているのでしょう。時代や文化的な背景が異なる現代社会においてどう適用させていくべきかを学んでいきたいと思います。

報復してはならない

ペテロは、まず、この言葉を語るときにμὴ   ἀποδιδόντες(メ・アポディドンテス)と語ります。直訳すると『報復してはならない』という意味になります。
ところで、アポディドンテスですが、自分の利益のために自分のものを引き渡す、売るという言葉がその直接の意味になります。ですから、μὴ という否定語がかかっていますので、自分の利益のために自分のものを引き渡さないという意味になります。ただし、このアポディドンテスは、良い意味でも悪い意味でも用いられ、良かれ悪しかれ、いずれも自分の利益になる行為について語る言葉だということです。

ペテロは、アポディドンテスを使う際に、悪(カコス)と侮辱(ロイドリア)に報いてはならないと言います。
こうしたことは、ペテロが言った、言わないを問わず、言わずもがなです。ところが、古代社会においては、皆様も聞いたことがあることと思いますが、ハムラビ法典によって定められた同害復讐法、目には目を(めにはめを)あるいは目には目を歯には歯を(めにはめをはにははを)とは、報復律である。人が誰かを傷つけた場合、その罰は同程度のものでなければならない、もしくは相当の代価を受け取ることでこれに代えることもできるという考えがありました。現代の感覚からすれば、それはやりすぎだろうと思う人もいるかもしれませんが、現代の死刑を見ても理解できるように、決してそれは奇異なものではありません。むしろ、ハムラビ法典以前の社会では、やられたら倍返し以上であり、一族郎党皆殺しというのが普通の社会でしたから、やられたら等価の害を加えるというハムラビ法典の考えは古代社会においては画期的な法律でありました。

ペテロは、こうした古代ローマ時代の社会の常識に対して反するような言葉を残したという点においてある意味画期的であったことでしょう。聖書の言葉の中で、ペテロが語ったこの言葉は、イエス・キリストが福音書で語った言葉に沿うものです。

しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
マタイによる福音書5:39

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

 イエスのことばは、同害復讐法が常識の世界に一石を投じるものでしたが、このことばをありのまま受け入れようとする人は少なかったのではないかと想像します。現代のクリスチャンであっても、このイエスのことばをそのまま実際の生活に適用させようとする人は少ないのではないかと思います。現実の世界を見渡しますと、クリスチャンが多い国であっても軍事力の維持や安全保障の名目で、人を殺傷する能力を維持しているのが現実です。事実、クリスチャンであっても平和の維持ということで兵士として派兵され、戦闘に巻き込まれるということもあるでしょう。
こうした現実を前にして、信仰という建前と現実という本音の乖離に分裂した状態に置かれているのが古代から現代に至るまでの人類の課題であると思うのです。
こうした乖離した状態に置かれている中で、私たちは、聖書がこう言っているから、そのとおりに生きましょうということで筆を置くのであってはなりません。どう私たちはこの現実に対峙していったら良いのかというのが、今回取り上げる御言葉の課題なのではないでしょうか。

報復の非対称性について

 さて、ペテロが語ったこの御言葉の対象は、奴隷や妻といった社会的弱者でした。人権というものが確立しておらず人としての価値がなかった人々に宛てて書かれたものです。つまり、対象は、報復しようとしても報復できない人々に宛てて書かれた手紙だということです。当時の奴隷制を見ていきますと、悪辣かつ陰険な主人に悩まされていた奴隷の姿があります。また、妻の立場にあっても、現代のような稼ぐ力がない女性の立場というものも非常に低く、主人に隷属しなければ生きていけない経済状態にあって苦しめられていたということです。彼らは、人間とは見做されず、道具として扱われていた現実にあって、主人や雇用主らが彼らに悪を働いたとしても復讐することはできなかったのです。一方的に苦しめられるということが普通であったのではないでしょうか。どのように苦しめられたのかと言えば、悪と侮辱によってでした。悪(カコス)とは、内面的な悪を示す言葉です。それも『弱者に対して危害を加え、歪んだ満足感をもたらすもの』という意味があります。つまり、悪とは言いましても、いじめをもたらす心ということになるでしょう。

いじめは、どういうところで発生するのかといいますと、対等な立場では生じません。対等でない、立場の非対称性が生み出されるときにいじめが生じて来るのです。また、公に出されない、闇があるときに生まれるのです。
 
 古代ローマの社会というのは、奴隷の労働力搾取によって支えられていた社会でした。人間の悪事が表面化しないという構造的な社会の課題が前提にあって成り立っていた社会でした。つまり、同じ人間でありながら、人間、非人間という圧倒的な非対称性があってこそ成立した社会であり、人間の非対称性の温存がローマの繁栄の原動力であったわけです。奴隷制という原動力を失っては、ローマ皇帝の力は削がれる、体制の維持は難しくなるということで、ローマ皇帝をピラミッドの頂点に据える体制を維持するためには、奴隷制は切っても切れない関係にありました。

こうした社会体制を維持、確立させるためには、権利の剥奪と権利の剥奪に伴うネガティブな人間の行為の隠蔽が必要となります。ですから、人間が闇に葬られる、イエスが律法学者やパリサイ人を糾弾した言葉は、そのままローマ社会において普遍的なものであったのです。

マタ 23:27 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。

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とうぜん、こうした人権の非対称性が当たり前の社会にあって、何をもたらしたのでしょうか。
それは、同じ階級間でのイジメを生み出すのです。圧倒的な力の差によって報復できないとなると、人間の感情のはけ口として、より下の階級に向かって矛先を向けるようになります。悪(カコス)は、より力の無い者に刃を向けるのです。

非対称性の矛先

ペテロは、人権の非対称性が生み出す悪について教えてくれています。人間は、強い人には、従わざるを得ない者には報復することは考えませんが、そのフラストレーションを同じ奴隷同士に向けていくということを教えてくれます。同じ階級同士では、イジメが生じないと考えるものですが、人間は、こうしたフラストレーションを数の力で、フラストレーションのはけ口を絞り込んでいきます。
 パウロは、こうした人間の行為を『党派心』という言葉に要約しました。仲間を作って、自分たちが上に立とうとするということです。実は、キリスト教初期の伝道活動においても、クリスチャン同士であっても派閥争いがありました。パウロは、ピリピ人への手紙の中で、クリスチャン同士の抗争の一端を垣間見せておりますが、同じ仲間同士であっても一致、協力するべきであるのに、主導権を取る取らないということで、党派心を持って活動するという悲しく悪しき現実が存在していたのは事実です。

ピリ 1:17 他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。

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クリスチャンであれば、誰しも、悪を行いたくはないと思うのですが、教派間、教会間にあって、パウロが受けた苦しみは現実に存在します。パウロは、教会にあって権威のある者としてとらえている人も多いかと思いますが、実際はそうでなかった。むしろ、支持者も少なく、また、使徒としては見做されていない人物であったために、軽んじられたというのが現実です。同じクリスチャンどうしてありながら、支援者が少ない、数が少ない、権威がない、力がないということで、軽んじられる、また、妨害を受ける、無視されるということがありました。

報復する方法について

悪を行わない、侮辱しないということは当たり前のように聞こえますが、これは、私たちにも内包している罪でもあります。そうしないようにしようとしてもそうなってしまうのが、罪の性質であります。さきほど、ペテロの宛先について述べましたが、上位の者から受けた悪には、悪でもって報復できず、そのフラストレーションは同じ仲間同士に悪が蔓延すると語りましたが、他方、そのはけ口として、ペテロは、侮辱(ロイドリア)を教えてくれます。報復できない代わりに侮辱(ロイドリア)することは可能です。悪を受けた者に陰で侮辱することは可能です。直接言えない相手に、陰でロイドリアをするのです。

ロイドリアとは、罵ること、抗議すること、非難すること、罵倒すること、悪口を広めることを意味します。私たちは、直接立ち向かえない相手には、侮辱をして悪のはけ口を見出すのです。侮辱はいけないと思いながらも、陰で侮辱をもって報復するのです。

十字架につけられた者として

ところで、ペテロは、悪を行う者、侮辱する者になってはならないとなぜ語ったのでしょうか。逆に、『祝福を与えなさい』と語ります。この祝福を与えなさいというのは、信仰上の建前を語ったのではありません。

ペテロの宛先は、反抗すらできない奴隷や妻といった人々に書かれたと伝えました。つまり、社会的には、十字架につけられた状態と考えることができます。人間として見做されず、人権すら持つことができない人々に対して私たちは魅力も感じないし、無視されてもおかしくない人々であるわけです。そうした人々の姿に十字架につけられたイエスを見ていたわけです。
 十字架上にあったイエスは、どうであったのか。十字架上で復讐すらできず、痛みと苦しみに耐え、ただひたすらに死を待つしかなかったのです。

Ⅰペテ 2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

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つまり、律法学者、パリサイ人、大祭司たちの権力の行使にあって、圧倒的な負の非対称性のなかにありました。そこで、イエスがしたこととはなにか、彼は、動けない、動かせない身体の中ではありましたが、口だけは動かすことができました。しかし、彼は、一切罵るのでもなく、自分の無実を訴えるのでもなく、そのいのちを神に委ね続けたのです。あらゆる人間の権利を剥奪された十字架刑の中にあって唯一語る口を残されていても、それを悪のためには用いませんでした。却って、

ルカ 23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

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と祝福を残したのです。祝福をギリシャ語でεὐλογέω(ユーロゲオー)と言いますが、利益を与えるために(理由)話すという意味になります。まさにイエス・キリストの十字架は、その最後に残された権利までをも与え続けたということにあります。奪われたのではなく、最後の最後まで、自分を与え続けた。これが、イエス・キリストの十字架の意味です。

 ところで、祝福ということは、相手を利するだけではありません。それは、同時に神に身をゆだねることを意味し、祝福するということは、神に対して良いことをお返しするということでもあります。報復できないと考えると、私たちは、やられた損で終わってしまう。悲しい気持ちになってしまうかと思います。しかし、私たちは、私たちの益のために召されたのではありません。

 信じて救われたものは、主の益のために召された者です。この世においては確かに損ばかりしかない人生に終わるかもしれません。イエス自身、損しか無い人生でした。しかし、天においては違います。救いという莫大な富をもっても手に入れることができない大きな価値を見出すのです。私たちは、どんなに虐げられたとしても、認められないとしましても、それらを損と思ってほしくないのです。むしろ、イエス・キリストと同じ十字架の上につけられているという意味を見出してほしいのです。
 もし、あなたが、悪にあって苦しんでいる、悲しんでいるとするならば、決して報復してはなりません。むしろ、信仰をもって祝福されていることとして受け取りましょう。しかも、このことはクリスチャンとしての明らかなしるしであることを覚えていただきたいのです。

 最後に、自身のエピソードを語りたいと思います。かつて、ある教会に属していたときに、非常に優秀で、かつ、自分の自慢ばかりする兄弟がおりました。祝福されているとは思いましたが、その方の証を聞いているのが苦痛になり、何とかならないのかと思っていたのです。そういう証が頻繁でしたので、老宣教師に相談しました。その宣教師は、どう答えたかと言いますと、一言「兄弟、彼のために祈りましょう。」そう私に語ってくれたのです。不満を伝えたのに、祈りなさいとだけですか。と内心思いました。しかし、自分の信仰が成長するに従って、その宣教師の答えがわかったのです。祝福するということは、こういうことだったのかと。ユーロゲオー(祝福)には祈るという意味もあります。私たちの祈りが、報復を祈るものではなく、神への捧げものとして受け入れられるものであるべきだということを教えていただいたことを思い出します。

Translation 聖書対訳

【NASB】
not returning evil for evil or insult for insult, but giving a blessing instead; for you were called for the very purpose that you might inherit a blessing.
あなたがたは、悪には悪を、侮辱には侮辱を返さず、かえって祝福を与えるために召されたのです。

【KJV】
Not rendering evil for evil, or railing for railing: but contrariwise blessing; knowing that ye are thereunto called, that ye should inherit a blessing.
悪には悪を、憤りには憤りを与えるのではなく、逆に祝福するのです。あなたがたは、祝福を受け継ぐために召されたのだと知っています。

【TEV】
 Do not pay back evil with evil or cursing with cursing; instead, pay back with a blessing, because a blessing is what God promised to give you when he called you.悪には悪で、のろいにはのろいで返すのではなく、祝福で返しなさい。祝福は、神があなたを召されたときに与えると約束されたものだからです。

Lexicon レキシコン

ἀποδίδωμι,v {ap-od-eed'-o-mee}
Tense P Voice A Mood P Case N Number P Gender M
1)自分の利益のために自分のものを引き渡す、売る 2)支払うべきものを支払う、排出する 2a)借金、賃金、貢物、税金、生産物 2b)宣誓して約束したもの 2c)夫婦の義務 2d)責任を果たす 3)返す、回復する 4)良い意味でも悪い意味でも報いる、報われる。

から与える、すなわち(特に支払いとして)返すということで、その報酬を促したり正当化したりするものに焦点を戻す(報酬であれ判決であれ、接頭辞の力に注意)、575

Commentary

(1 Tim 5:4) これは、息子や娘が年老いた親に「恩返し」する精神的な責任を意味しています。これは、年老いた親が不毛な老人ホームでさっさと死んでしまわないように、感謝の気持ちを持って振り返ることを示唆しています。振り返って恩返しをするということは、若いころにたくさんお世話になったことを思い出すということです。

κακός,a \{kak-os'}
Case A Number S Gender N
1)悪い性質のもの 1a) あるべき姿ではない 2) 考え方、感じ方、行動の様式 2a) 基底的な、誤った、邪悪な 3) 厄介な、有害な、悪質な、破壊的な、有害な

正しく、内面的に汚れた、腐った(毒された);(比喩的に)道徳的に腐った性格から流れ出る内面の悪意(=「腐はすでに木に宿っている」)。

カコスはしばしば「邪悪な、内なる悪」という意味の代名詞的な形容詞(つまり実体として使われる)である。

カコス(「邪悪さ」)は、体質的なメイクアップ、すなわち惨めな(embittered)気質を持つ人を、他人に危害(injury)を加えるという歪んだ満足感へと拡張する。

[語源(kak-)は「本質的に悪い(有害な)」「性質と目的において悪」(H. Cremer, 326)を意味する]。

この「心の悪意は人道と公正に反しており、一般に悪意と呼ばれている」(J.カルヴァン、エペ4:32)。

要するに、2549 /kakíaは、道徳的に(精神的に)腐った化粧から進行するため、反射的に害を与える根本的な邪悪な悪(酸っぱい)の性質から進行します。 これは、苦痛(悲惨)を与えることによって「ひどい喜び」を受け取ります。 Plato、Rep。10。608 e) "(R. Trench、315)]

kakos(「性格上の悪」)は4190 /ponērós(「伝染性の影響としての悪」)とは異なります。 2556(kakos)は「セプトゥアギンタのアガトスに対するアンチテーゼ」(R.トレンチ)です。つまり、2556(kakós)は4190 /ponērós(「積極的に痛みを広げる悪」)の源です。

(「痛みに満ちた邪悪」)は、不必要で感情的な痛みを積極的に広げます。 2549 /kakía(「邪悪な性向」)は、この邪悪な行動の根底にある潜在的な現実です。

(kakos)は「抽象的には悪である; 4190 /ponērós、善に積極的に反対する悪」(K. Wuest、Word Studies、Vol 2、Hebrews、77)。 「kakosとponērosを組み合わせると、kakosは常に最初に置かれ、「性格が悪い、ベース」、「ponēros」、「効果が悪い、悪性」を意味します」(Vine、Unger、White、NT、49)。

R.トレンチ、「2556(kakos)は、その性質に応じて悪を説明します– 4190(ponērós)は、その効果に応じて」(Cremer)。 「2549(カキア)は悪意のある性向を意味し、4190(ポネロス)は同じものの活発な運動を意味します」(J.セイヤー)。 2556(kakos)は2549 /kakía(「邪悪な性向」)を直接反映しており、4190(ponērós)はその活発な成果です。 4190(ponēros)はその痛みを広げる「伝染性の悪」です。 2549(カキア)は、他人に惨めさや苦痛をもたらすことに喜びを感じる「内なる堕落」(「悪意のある悪意」)です。 カキア(「悪意の態度」)は、悪意のある手段に身をかがめ、悪意を持ったり傷つけたりします。つまり、「心の邪悪な習慣」です。

anomía(「無法状態」)「おそらく存在する罪の最強の言葉です。...266 /hamartía...は、「失敗する、目標を失う」という意味を持っています。 458 /anomíaは、より極端な形の罪を表しています。..hamartiaとagnoēmaには、特に後者の特徴である無知の要素が含まれている可能性があります。

(saprós)は、「腐っている」もの、すなわち「腐った木」から生じる無用な効果に焦点を当てています。5337 (phaulos) は内部腐敗を強調する(「徹頭徹尾腐ったもの」)。

(adikēma)は、特に不義に焦点を当てた悪行(神の不承認を経験)。4189(ponēria)は、「積極的に、悪を広める」(その必然的な苦痛に焦点を当てる)。458(anomia)は「掟破りの態度」、3892(paranomía)は「非常に意図的な(情報を得た)違反」を強調しています。2549(カキア)は、邪悪な行為の原動力となる「内なる堕落」に焦点をあてています。

Examples

カキア(「内なる悪意」)は、危害を加えることに傾倒した悪質な性向からにじみ出ています。 それは次のように使われています:1コリント14:20(NKJV)、「悪意を持ってあなたがたの子供たちになりなさい」。 1ペテ2:16(KJV)、「悪意のマントのためにあなたの自由を使うのではなく、神の僕として」。

kakosは、悪の本質的な内在する原則(2549 /kakíaの根源)です。 2556(kakos)は、使徒23:9(KJV)で使用されています。 ロマ7:21、「その時、私は悪が私に存在するという原則を見つけます」。 ロマ12:21、「悪に打ち勝たれるのではなく、善で悪に打ち勝つ。ヘブ5:14、「実践のために善と悪を見分けるために感覚を訓練された成熟した者」。

ponēros(「伝染性の悪」)は、自責の念を広げます。 マタ7:17、「悪い(4550 /saprós)木は悪い(4190 /ponēros)実を結ぶ」で使用されます。 2テモテ4:18、「主はすべての悪行から私(すなわちパウロ)を救い出してくださいます」。 ヨハネ第一3:12、「彼の(すなわちカインの)行いは悪であり、彼の兄弟の行いは義であった」。

「サタンは、この世のすべての災いの最初の作者として、強調されている」(R. Trench, 317)。

(サプロス)は、使用に適さないもの、すなわち、受け入れがたい品質のものを表し、それゆえ、病気の木(マタイ7:17,18)、その実(マタイ12:33)、適さない言葉(エペ4:29)に使われています。
phaulos)は「価値のないもの(『paltry』または『mean』)」を表します(L. Morris, at Jn 3:20) 。

Commentary
(ヘブル5:14)感覚(145 /aisthētērion、「感覚知覚」)–発達した信者は、(diatēneksin)感覚能力(145 /aisthētērion)を行使することから、両方の密接な判断(区別する)まで、しっかりした食べ物を楽しんでいます )望ましいもの(2570 /kalós)と惨めなもの(2556 /kakós)。

これは、絶え間ない実践、つまり、神の好みの意志と「一致する」ために自分の感覚的知覚を行使することで発展します(2307 /thélēmaを参照)。 これは、主の信仰の働き(「主の生まれた説得」)を受け取る(従う)ことによって起こります。

"感性 "が大事 ですから、聖書では "信仰か感情か "ではなく、"感情を伴った信仰 "なのです。例えば、法律家が今でもわいせつ物の判断に使っている法的なテストを見てみましょう。"見ればわかる "です。

私たちの感性は、聖化が深まるにつれて、罪に対して動揺する(怒る)ときと、義(神に認められたもの)に対して喜ぶときとが、より早く分かるようになります。

また、信仰は感じられるものであり、主が与える「神から与えられた確信」でもあります(ヘブル11:1、Gkテキスト参照)。4102も参照。
振り返り: 神の声を聞く(識別する)ためには、私たちの道徳的な感性に重きを置くことが賢明です(ヨハネ10:3,4,27参照)。また、長い時間をかけて培われたクリスチャン・リーダーの信念を尊重することも、賢い信者の証しです。

救いの成長によって、神の意志に関する私たちの「感じた説得力」は、ますます信頼できるものになります。つまり、私たちが信仰生活(神が内側に誕生させるもの)を進歩させるにつれてです。ヘブ2:1、ローマ10:17、1ヨハネ5:4も参照してください。

ἀντί,p \{an-tee'}
1)反対、反対、前2)代わりに(何か)の代わりに2a)代わりに2b)代わりに2c)そのため、2d)したがって、この原因のため

λοιδορία,n \{loy-dor-ee'-ah}
Case A Number S Gender F
罵ること、抗議すること、非難すること、罵倒すること、悪口を広めること

罵倒するひと、口の悪い人を意味し、厳しいことを言う(口撃する)、非難する、苦い(不味い)発言を吐く、意地悪な、侮辱的な言葉を使って、士気を下げる(屈辱を与える)ことを意味します。

loidoreō(「罵倒する、誹謗する」)とは、野蛮な(未開な)批判をして侮辱する(非難する、叱る)ことを意味します。

J. カルヴァンは、"3058(loidoreō)は厳しく非難することを含み、人を叱責するだけでなく、鋭く噛みつき、公然と軽蔑を突きつける。"と述べています。したがって、3058(loidoréō)は「呪われた刺し傷で、人を傷つける」(WS, 458)のです。

τοὐναντίον,ra \{too-nan-tee'-on}
Case A Number S Gender N
1) on the contrary, contrariwise

5121 tounantíon(中性定冠詞3588/hoと1726/enantíonから、「反対に置かれた状態」) - 正しくは、反対に置かれている状態(状況)(「逆に」)です。

5121 / tounantion(「逆に」)は、不動の(落ち着いた)違い(反対方向の何か)を伝えます。

εὐλογέω,v \{yoo-log-eh'-o}
Tense P  Voice A  Mood P  Case N  Number P  Gender M

1)賛美する、賛美で祝う 2) 祝福を呼びかける 3) 厳粛な祈りで物を奉献する 3a) ある物に神の祝福を求める 3b) 自分の用途に合わせて祝福するよう神に祈る 3c) 聖なる祝福を告げる 4) 神の 4a) 栄えさせる、幸せにする、恵みを与える 4b) 神の恩恵を受けた、祝福された

2127eulogéō(2095 /eú、「well、good」および3056 /lógos、「word、reason」から)–適切に、利益を与えるために(理由)話します。したがって、祝福します。 2127 /eulogeō(「有益なものを授ける」)は、神を祝福する人々(ルカ1:28;エペソ1:3;ヘブ6:14など)と神を祝福する神の人々(ルカ1:64、2: 28、24:53; 1コリント14:16;ヨハネ3:9)。 2127 /eulogeō(「祝福」)は文字通り「良い言葉をもたらす」、つまり利益(祝福)を与えることです。さらなる祝福を刺激するのは、まさに祝福の本質です。 2127(eulogeō)は、豊かにするリベラルな(寛大な)精神を含みます。 2127 /eulogéō(「bless」)は、自分自身を与える(「自分を与える」)ことによって利益を渡します。
振り返り:私たちが神から信仰を受け取る(従う)とき、神は私たちの中でこれを優雅に行います。

ガラ3:9:「それで、信仰を持っている人たち(4102 /pístis)は、信者であるアブラハムに祝福されています(2127 /eulogéō)」(NASB)。 聖書の「神を祝福する」とは「神を賛美する」とは異なります。祝福(2127 /eulogéō)神とは、神に身を委ねることを意味します(完全に神に「身をゆだねる」)。

ルカ1:64:「そしてすぐに彼の口が開かれ、彼の舌が緩み、彼は神を祝福して話していました。」
1コリ14:16:「そうでなければ、霊だけで(2127 /eulogéō)を祝福するなら、贈り物のない場所を埋める人は、あなたが何をしているのかわからないので、あなたの感謝の気持ちで「アーメン」とどのように言うでしょう。」 (NASB)。

「神を祝福する」は、私たち自身を主と広げ(共有し)、完全に主であるという私たちの言葉を与えます。
詩103:1,2:「1ダビデの詩篇。 主をほめたたえよ、わが魂よ、 そして、それはすべて私の中にあり、彼の聖なる御名を祝福します。 2わが魂よ、主をほめたたえよ。 そして、彼の利益を忘れないでください」(NASB)。
詩104:1:「私の魂よ、主を祝福してください! わが神、主よ、あなたはとても素晴らしいです。 あなたは素晴らしさと威厳に身を包んでいます」(NASB)。
詩104:35:「罪人を地から消費させなさい そして、邪悪な者はもういなくなりましょう。 主よ、私の魂を祝福してください。 主を賛美しなさい」(NASB)。
残念ながら、この区別はNIVのOTテキストでは削除されました。したがって、NIVは詩104:35の終わりを「私の魂よ、主を賛美しなさい。主を賛美しなさい」と訳しています。
簡単に言えば 聖書は私たちに「神を祝福する」と呼びかけています!参照:ルカ1:64,68、2:28;ロマ1:25、9:5; 2コリント1:3、11:31;エペソ1:3; 1ペット1:3。 「神を祝福する」と「神を賛美する」の区別は、聖書の元のヘブライ語/ギリシャ語のテキストに注意深く保存されているので、両方とも真の崇拝で実践されるべきです! 「神を賛美する」は、神の働きと性格を認めます(高めます)。対照的に、「神を祝福する」とは、神に身をゆだねることを意味します。 [「神を祝福する」ための聖書の命令。 OTの(ヘブライ語)テキストで頻繁に使用されます。詩103:1,2、104:1などを参照してください。残念ながら、それはNIV(および他の翻訳)によって「排除」され、「神を賛美する」と同じになりました。] 神はまた、私たちを祝福してくださるときに、私たちに「ご自身をお与えになります」。
A. W.トーザー、「神は...を与えますが、彼は与えません!」
振り返り:「祝福(2127 /eulogéō)神」とは、神に身をゆだねることを意味します。神に永遠に影響を与えるので、神を祝福することはとても重要です。どうして?主は、これまでの、現在の、またはこれからのようになることは決してありません(黙示録4:8を参照)。
したがって、今、神に影響を与えるもの… 。永遠にそうします!マル3:6とヘブ13:8に照らしてこれについて黙想してください。 同義語に近い 3107 / makarios( "blessed")は、2127 /eulogéō( "to bless")の結果です。つまり、神は受容的な信者に彼の言葉を授けます。 [2127(eulogeō)は、「自分を捨てる」(=「神を祝福する」)という個人的なコミットメントを表しています。] 3107(makarios)は、誰かをうらやましい(裕福な)立場に置く神の祝福の影響に焦点を当てています。

ὅτι,c \{hot'-ee}
1) that, because, since

εἰς,p \{ice}
1) into, unto, to, towards, for, among

καλέω,v \{kal-eh'-o}
Person 2  Tense  A  Voice P  Mood I  Number P
1)呼ぶ 1a) 大きな声で呼ぶ 1b) 招待する 2) 名前で呼ぶ 2a) 名前をつける 2a1) 名前を受け取る 2a2) 名前をつける、名前を呼ぶ 2b) 名前や肩書を持つ 2c) 名前で敬礼する

ἵνα,c \{hin'-ah}
1) that, in order that, so that

εὐλογία,n \{yoo-log-ee'-ah}
Case A Number S Gender F
1)賛美、賞賛、キリストや神について 2) 上質な談話、洗練された言葉 2a) 悪い意味で、聞き手を魅了するために巧みに適合した言葉:公平な話し方、立派な演説 3) 祝福の呼びかけ、祝福 4) 奉献 5) (具体的な)祝福、恩恵

κληρονομέω,v \{klay-ron-om-eh'-o}
Person 2 Tense A Voice A Mood S Number P
1) 多くを受け取る、たくさん受け取る 1a) 特に、遺産の一部を受け取る、遺産として受け取る、相続権によって得る 1b) 相続人になる、相続する 2) 割り当てられた部分を受け取る、割り当てられた部分を受け取る、自分のものとして受け取る、所有物として受け取る 3) 共有者になる、得る