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黒沢清『CURE』(1997):<現実>と<非現実>のはざまで

 今までに何度も観ている映画だけれども、最近になってまた観返した。

 この映画を観ていると、「これは<現実>ではあり得ない」というシーンに出くわす。さらに、「<現実>なのか<非現実>なのか非常にあいまいだ」というシーンもいくつかあり、そのシーンを<非現実>だと考えると、それまで「これは<現実>だ」と思ってみていたシーンも、<現実>とは言い切れない思いにとらわれてしまう。
 今回は、そういう「<現実>~<非現実>」ということから、黒沢清監督の演出術をみてみたいと思った。

 まず、「誰が観てもこの場面は<非現実>だろう」というシーンから考えていきたい。
 映画の後半で、心理学者の佐久間(うじきつよし)が一人で間宮(萩原聖人)の隔離されている独房へ入るのだけれども、そこには間宮が住んでいたアパートにあった、手足を捻じらせた「サルのミイラ」があった。
 これはぜったい現実にはあり得ないことで、佐久間の「脳内幻想」と言えるだろう。
 そうすると、この映画の中でそういう<非現実>の場面はそこだけだっただろうか、と考えてしまう。

 まず、わたしが前から「これは現実?非現実?」と思っているシーンに、終盤に高部(役所広司)が行き、間宮と出会う廃校のような木造の大きな建物のシーンのことがある。その建物には先に間宮の独房へ行った佐久間も一人で訪れていたのだが、どうやらそこは、百年前に日本で「メスメリズム」の研究をしていた伯楽陶二郎という男の、「精神世界」なのではないかと思える。というか、そこは「メスメリズム」の世界なのだ。つまりはそこは<非現実>の世界。そこを訪れる人間は「メスメリスト」として、他者に「催眠療法」をおこなえる人間になるのだ。

 さいしょにそこを訪れた佐久間は、そこで自分が「メスメリズム」に感染したこと、「メスメリスト」になり得ることの自覚があったのだろう。しかしどうやら佐久間の中には「無意識化の憎悪」というものがなく、「メスメリズム」に感染しても「殺すべき対象」がなかったのだろう。しかし自分が伯楽陶二郎のことも知っていて、「メスメリスト」たる資格もあることを知っていた。佐久間の精神の中では伯楽陶二郎の「メスメリズム」は「邪教」であり、彼には自分が「メスメリズム」に感染したことは恐怖でしかなかったのだろう。だから彼は自殺した。高部が佐久間を殺したという考えも成り立たないわけではないが、別に高部は佐久間を憎悪していないのだから、それはちがうだろう(あんな面倒くさい殺し方はしない)。

 次に、その廃屋にいた高部のところに間宮がやって来て、間宮は高部に「どうしてオレを逃がしてくれたの?」と聞く。
 これがわたしにはわからなかった。本当に高部が間宮をあの独房から逃がしたのだろうか。
 高部が間宮の隔離された独房を訪れるシーンがあるのだが、独房の前の廊下には「見張り」の刑事が血を流して倒れていて、その奥の独房から高部が出てくるショットがある。そのときにはもう、間宮は独房にはいないようだった。
 たしかにこのシーンで、高部が間宮を逃がすシーンはカットされているとも見れるのだけれども、わたしにわからないのは、その前の場面で独房の中の間宮が、独房内のセントラルヒーティング装置を椅子で何度も叩きつけるシーンがあること。わたしはその叩きつける音で見張りをおびき寄せて殺害し、脱走したのかと思ったのだったが、見張りの倒れていたのはもっと廊下側であり、もしも間宮が見張りを殺害したのなら独房の中だろうと思った。
 高部はその見張りの刑事が間宮に自分の妻のことをペラペラとしゃべったことで、その見張りを恨んではいただろうから、高部が(単に間宮を逃がすためだけでなく)見張りを殺害することは「あり得ること」だろう。
 ただ、高部の内面深くにある「憎悪」というものは、「妻」に向けられていたと同時に間宮にも向けられていたはずで(「なんでお前みたいなヤツがのうのうと生きてるんだ!」と言ってもいた)、高部なら間宮を逃がす前に間宮を殺害していたのではないのか。それとも廃屋で間宮が高部に言ったように「オレ(間宮)の本当の秘密を突きとめたかったから」だったのだろうか。
 そのあたり、わたしにはこの「廃屋」のシーンが<非現実>だったように、語られていることも<現実>ではないのではないかと思ったりした。しかしこうやって先日につづいてまたこの映画を観て、「やはり高部が(見張りの刑事を殺して)間宮を逃がしたのだろう」と、いちおうは納得することにした(まだ疑念は残っているが)。

 そして問題。「いったい高部はいつ、その妻を殺したのか」。
 映画ではそのオーラス近く、例のファミレスのシーンの前に、病院の廊下を移動してくる高部の妻の死体が写されるのだが、実のところその死体は死後相当に時間が経っているように見える。
 じっさい、高部が妻に用意された「調理していない生肉」の夕食を壁に投げつけたあと、寝室の妻の寝顔を見て、包丁に手を伸ばすシーンがあるわけで、「このときに高部は妻を殺したのだ」と考えるのがいちばん真っ当だろう。
 しかしこのあと高部は妻とバスに乗り、神経科の病院に妻を入院させているのだ。「あれれ?」という感じだが、このとき高部と妻が乗るバスは、それこそ<非現実>のバスであった。バスの窓の外には雲がただよい、まるでそのバスが空中を浮遊しているかのようだった。
 これはまさに、高部の精神世界を漂うバスで、つまり高部の中では「妻を病院に入院させた」という認識だった、ということで、このバスのシーンのあとの「病院」の場面、(かなり無理っぽいことを承知で)これは<現実>ではないんじゃないか、と思うことになる。
 この「病院」の場面のあと、高部がクリーニング店を訪れるシーンがあったわけだけれども、クリーニング店内に「赤いドレス」があったことからも、このシーンは「高部の妻の死亡フラグ」という意味合いのはずである。

 例えばわたしなどはデヴィッド・リンチの映画を観て、あのいつも出てくる「赤い部屋」のことを<現実>だ、などと思って観ることはなくって、「これは<非現実>世界だ」と思いながら観るわけだけれども、この黒沢清の『CURE』においても、デヴィッド・リンチの映画のような<非現実>世界を取り入れているのだ、と捉えるべきだろう。そのことが公開から四半世紀以上経た今になっても、この作品が大きなインパクトを持ち得る理由ではないかとは思う。

 もっともっといろいろ書きたいとは思うのだけれども、実は高部は妻のことをまるで理解していなく、さながら「青髭」(妻が病院で読んでいた本)のようにふるまっていたのだ、ということをちょっと書いておく。
 高部は精神の均衡の取れなくなった妻を、結果として外出を禁じ(「買い物はオレが行くから」と言う)、妻を結果的に家に閉じ込める。そして、高部は決して妻の本当の欲求を知ろうとしない。
 妻は実はフランス語を学習していて、彼女のベッドのそばには「プロヴァンス」の本も置いてあった。高部は「どこか旅行へ行こう」と言ったとき、ほんとうに妻がいちばん行きたいのはプロヴァンスだったということを、まるで理解していなかったのだ。

 そして最後に、黒沢清監督の演出の見事さ、そして役所広司の演技の素晴らしさのことを。
 高部が間宮の「メスメリズム」に感染するのは、中盤の間宮の隔離独房で高部と間宮とが二回目に対面する、長い長いワンシーンワンカットシーンにおいてだけれども、このときの2人の立ち位置の変化、カメラの移動など、とにかくこのシーンから目が離せなくさせる求心力を持っている。そしてここでの役所広司の感情の爆発、見ていてもこちらの神経が激しく揺さぶられるのだが、ここまでの役所広司の演技は、これ以後すっかり変わってしまう。眼の鋭さなど、この演技の変化は凄味があった。
 そうだ、佐久間が間宮の独房に入ったとき、振り向いたときに、部屋の隅の暗闇から高部が無表情に現れるのだった。このシーンは怖かったなあ。
 

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