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奈良で感じる日本人の信仰(1)ー  仏教伝来の地「海石榴市」にて

1.桜井の「海石榴市」に立つ


奈良県桜井市に立つ「仏教伝来之地」


 
 近鉄・JR桜井駅の北口に立つと三輪山が見える。美しい円錐型をしており、樹木の色もなぜか周りの山々と異なって緑が濃く見える。山そのものがご神体であり、昔から人の立ち入りが厳しく制限されてきたからだろうか。

 三輪山に向かって20分ほど歩くと大和川に突き当たる。川沿いを上流に進むと、古代に「海石榴市(つばいち)」と呼ばれた地域に出る。今ののどかな風景からは想像できないが、かつてはたいへんにぎやかな市があった。交通の要所でもあった。奈良盆地を南北に繋ぐ山辺の道と、大阪へと至る竹内街道、そして東の方向に延びる伊勢街道など、古代主要幹線の交差点であった。

 大和川も人々の往来を支えた。西に向かうと、奈良盆地を横切って龍田山を超え、大阪平野に抜ける。そして、仁徳天皇陵で有名な百舌鳥古墳群の北辺をかすめ、大阪湾へと至る。かつて、大陸や朝鮮半島から来た使節は、大阪湾からこの川を遡って奈良盆地に向かい、この海石榴市で船を降りた。古代の国際交流の拠点でもあったのだ。 

2.仏教伝来の碑

 

欽明天皇の宮殿跡。
百済から伝わった仏像を前に、
仏教を受け入れるか否か、激論が繰り広げられた地。

今、この地に「仏教伝来之地」と刻まれた大きな石碑が立っている。日本史でおなじみの仏教公伝である。538年(552年説も)、朝鮮半島の一角を占めた百済国の聖明王が、黄金に輝く釈迦仏像と経典を日本へ仕向けた。これらは対馬海峡を越えて瀬戸内海に入り、大阪湾から大和川に入って海石榴市までやってきたのであった。日本古来の神を代表する三輪山のお膝元に突然登場した「異国の神」であった。

 百済から到着した仏像と経典は欽明天皇の宮殿に運び込まれた。今、宮殿跡には「欽明天皇磯城嶋金刺宮址(きんめいてんのうしきしまかなさしのみやあと)」の石碑が立つ。「仏教伝来之地」の碑から徒歩でわずか数分のところにある。国際交流の拠点であった海石榴市の動きが手に取れる位置に宮殿を置いたのは、欽明天皇の計算だったのだろうか。

 異国で広く信仰されていた仏教を日本も受け入れるべきか。欽明天皇は腹心に質した。すると、賛成派の蘇我稲目と反対派の物部尾輿が激しい論争を繰り広げた。

 二人の対立は子どもに引き継がれた。585年、国中に疫病が流行ると、尾輿の子守屋は「異国の神を祀ったからだ」と仏教を非難し、蘇我氏が仏像を安置した日本最古のお寺とされる向原寺を襲撃し、仏像を池に投げ捨てた。さらに、日本最初の出家者であった善信尼ら3名の衣を剥ぎ取って公衆の面前で鞭打った。その地も海石榴市であった。日本初の仏教弾圧は、仏教の上陸地で行われたのであった。

3.古代の国際交流の地でもあった


この大和川がかつての国際交流の拠点であったとは、今からはまったく想像できない。
遠くに二上山が見える。向こうは大阪平野。


 今、「仏教伝来之地」の石碑に立つと、大和川の河原に模型の飾馬が復元されているのが見える。これらは608年に遣隋使から帰国した小野妹子と、妹子と同行した隋の使者裴世清を歓迎した75頭の飾馬を再現したものである。彼らはここで上陸し、山田道を通って飛鳥に向かった。

 海石榴市の北東には邪馬台国の跡とも初期大和政権の発祥の地ともいわれる纏向遺跡がある。当時の海石榴市は国際交流においても政治においても重要な拠点であった。この地に仏教が到達してから今日まで1400年間が経った。この間、仏教は日本古来の神道と共存し、日本人の心を形成してきた。奈良の地にたち、この長大な物語をこれから振り返っていきたい。


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