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『乃木オタ回顧録〜デビュー10周年を迎えるにあたって』#1

乃木坂46も結成から今夏で10年、デビューから来年2月で10年の節目を迎えようとしている。僭越ながらデビュー直後から応援してきた中高年オタクがその活動の記憶と思い出に頼りなるべくデータの羅列にならぬようさまざまな事象を書き綴ってみたいと思う。なのでだいぶ思い出補正、推し補正が混入されているものと心得いただきたい。

「人は必要な時に必要な人と出会うもの。だから足りないと言うことも多すぎると言うこともないと思う。」
我が最推しが卒業・引退の間際に残した言葉だ。オタクの間で「もっと早く乃木坂46を知っていれば」とか「〇〇ちゃんが卒業する前に出会いたかった」など後悔の言葉を目にする事があるが、有難いことに私にはそのような後悔はほぼ無い。ある意味人生最大の幸運かも知れない。

2012年春〜出会い

2012年2月も末近くだったと思う。
ある日曜日の深夜、「希美まゆ」のAVを観終わりTV画面がテレビ東京の放送を映し出す。その画面にも「希美まゆ」っぽい子が写っていた。これが乃木坂46の橋本奈々未との出会いだった。言わばアイドル界に見つけた「希美まゆ」が橋本奈々未だったのだ。放送していたのは「乃木坂って、どこ?」
思い起こせば当時出演していたメンバーは2ndシングル「おいでシャンプー」の選抜メンバーだったと思う。メンバーの特殊な特技を披露する回だったか、橋本奈々未はメンバーの持ち物の匂いから持ち主を当てると言う特技披露をしていた。同じ回ではないと思うがサングラス🕶をかけてタモリのモノマネをしてたり、そんな頃乃木坂46に急速に興味を持ち始めた。


「君は…誰だ?」と言うキャッチコピーとともにデビューシングル「ぐるぐるカーテン」のCMが番組中流れていたのが印象的だった。当初自分は本当に秋元康プロデュースだとは思わず単なるAKB48のパロディグループかと勘違いしていた。次第に「AKB48の公式ライバル」と言うとんでもない看板を背負わされてる事がわかり日本人特有の判官贔屓気質からか、応援したいと言う気持ちが湧いてきた。北海道から上京し美大に通いながらアイドルしている橋本奈々未を基軸に乃木坂46と言うグループを見守ろうと決意したのだった。

橋本奈々未を入り口に興味を持ったものの周りのメンバーをよく見ればAKB48なんかより可愛い子ばっかりじゃないか!と、気づき始め人生で初めて「秋元康プロデュース」のアイドルグループに熱を入れ上げるハメになる。世代的にはおニャンコ世代なのだが秋元康には一切興味が湧かなかった。もちろんAKB48もチラ見しつつだが一切気を惹かれるメンバー居なかったのだ。ソレがこれだ。

「AKB48の公式ライバル」と鳴り物入りでのデビューが約束されてはいたものの当時のアイドル界はAKB最強の時代、公式ライバルをプロデューサー自ら立てる時点でその強さを推し量れると言うもの。いわば乃木坂はAKBのかませ犬的存在として好奇の目にさらされていた。

自分は後から知った情報で、当時オタクの間でざわつき論争になっていたのが「リクアワ事件」である。乃木坂46のデビュー曲を初披露するのが公式ライバルたるAKB48の「リクエストアワー」と言うライブイベント内と言う事になり、まだ数少なかったであろう乃木オタに運営は大顰蹙をかった。その模様は映画「悲しみの忘れ方Documentary of 乃木坂46」でも映し出されている。

2012年3月に入り自分は意を決したかのようにデビューシングル「ぐるぐるカーテン」のTYPE-Aを購入。(ジャケットに橋本奈々未がいたから?)デビューシングル発売日は2月22日なので10日から2週間経っていた頃だろう。引き続き他のTYPE-BとCを購入した(当時はまだDVD付きは3タイプ)。しかし通常盤は曲的にA〜C TYPEで網羅しているものと思い込みしばらく購入に至らなかった。少年チャンピオンのグラビアに乃木坂46を見つけては購入するなど、いろんなメディアで目にするに付けチェックするようになった。
「乃木坂って、どこ?」は毎週録画して観るようになったし、「乃木坂浪漫」と言う深夜枠の5分番組もチェックし始めた。とはいえCDリリースのチェックとテレビ、雑誌のメディアチェックくらいの軽いファン程度でしかこの頃はなかった。おそらく当時33人いたメンバー全員の顔と名前もまだ一致していない。

この頃から自分はTwitterを活用していたが乃木坂の話題はないかと「乃木坂」で検索すると最も出てくるのが「乃木坂カクタス」と言うイベントスペースだった記憶がある。

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