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鬱病で見つけた道

初投稿です。





まずは自己紹介も兼ねて、この数年を振り返ってみようかなと。

そもそも何者かってところからなんですが、
東京に住んで東京で活動している、女装のイベンターで、ドラマー、自己表現いろいろやりたい人、です。

現在47歳なんですが、女装もイベントもドラムも何もかも、
始めてからまだ6年。
芸事の下積みとしては6年なんて、序の口ですね。

あと、メインのSNSはTwitterでして。
(@CROSS_RAY_)

これも同じく6年前からずっと続けています。
いわゆるツイ廃ってやつです。

自分にできる表現は何でもやりたいなと思ってますが、今のとこは主に女装、イベント、ドラム、SNSというわけですね。

イベントに関しては現在、吉祥寺のCRESCENDOというライブハウスで2〜3ヶ月に1回のペースで開催しております。詳細はすべてTwitterで告知。

で。

そもそもなぜそれらを始めたか、というところ。

Twitterやツイキャスなどでたまに語ることはあるんですが、ざっくりとしか語ってこなかったので。

改めて、たぶんこのnoteというのはかなりの長文でも掲載できるんでしょうから(始めたばかりでよくわかってないw)

ちょっと徹底的に書いてみようかと思った次第です。

そもそも女装というものに、まったく縁が無かったし(V系が好きなのでV系の女形は好きだったものの)
自分が女装をするという発想自体が、ありませんでした。

それがなぜ、41歳という高齢から、
突然  始めることになったか?

それを書いていきたいと思います。






モラトリアムの果てに





モラトリアムという言葉。
ご存知の方もいらっしゃるでしょう。

猶予期間。要するに、何も決めず曖昧に先延ばし、保留にしたまま(逃げたまま)、猶予期間に留まりたがる人のことを、モラトリアムと呼ぶ。

僕は正にこれでした。いろんな仕事を転々としながら、長くは落ち着かず、フラフラフラフラ。
昇進の話が来ても、どうにもやる気にならず辞めたり。

そのパターンで何社目かの仕事を辞めた39歳ごろ。

当時は埼玉で一人暮らしをしていました。
しばらくはのんびりして、3ヶ月くらいまでには仕事始めればいいや、と思って日々ダラダラと過ごしていました。

そして2ヶ月ほどが経過したある日の朝。
激変が訪れます。



何かがおかしい




目が覚めると、言いようのない不安感が激しく。

ざわざわと落ち着かない、視界に黒いフィルターのかかったような気分。

寝起きはもともと、調子が良くない体質ですが、
そんなレベルではなく、凄まじい不吉を感じる。

のんびり仕事を探すだけの時期で、お金や健康にも特に問題は無く、何かあったわけでもなく。

後になって、これがいわゆる鬱病なんだとわかるわけなんですが、当時はその思考にも至らずでした。

あまりよく覚えていませんが、その日を境に、
メンタルは奈落の底へ落ち続けていきます。

何が理由だったのか?
今にして思えば、未来への不安感が、
無意識に限界を超えていたのかもしれません。

何をしたいのか、何ができるのか、

人生を、どうすればいいのか?  と。





正気が減っていく日々




ただユウウツなだけ、ならば、
誰だって日々経験していますよね。

そういう日常レベルのネガティブではなく。

どう言い表せば良いのかわかりませんが、
常に、加速度的に絶望感が増していく。
悪夢を、起きたまま見ている感じでしょうか。

とにかくまずは仕事を探そう、と思うのですが……

求人雑誌の、濁流のような文字を見ていても、集中できない。そして、自分にできる仕事など無いという気持ちが増していくため、すぐに読むのをやめてしまう。

数日が経ち、ついにはまったく読まなくなりました。

お金は多少あったので、この時点ではまだ生活に困りはせず、出前で何かしらを食べ、後は散歩をしたりテレビを見たりスマホを見たり。

ただとにかく集中ができず、不吉な感覚が増えていくばかりで、だんだん何も楽しめなくなっていきました。



永い悪夢




そのように1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月が過ぎた頃。

友人からの連絡さえまともに返せなくなり、誰とも会わずにただ1人、天井や窓からの空をひたすらにただ眺めているだけ。

不吉な感情が止まらず、過去のすべてが間違いだったような、未来のすべてが終わっているような。

現実感がありませんでした。正気では無かったと、大袈裟でなく思います。

横になって、ご飯も食べずに、日が昇り沈み月が出てまた日が昇りをただ鬱々と眺めたりと。

いわゆる廃人のような状態です。
しばらく拒食症になり、178cmの53kgくらいという、ミイラのような体になっていました。

そんな日々の中。

自分でも不思議でしかたないのですが、何年もまともに連絡することの無かった、姉に、電話をするようになります。

別に仲良くも悪くもなく、僕が実家のある九州へ、滅多に帰らないため、なんとなく疎遠だったという距離感。

一日に昼夜問わず何度もかけまくっては、とにかく怖いんだ、不安なんだ、死にたい、そういう内容の話を何時間もする。

さすがに異常を察した姉は、電話をかけ始めて2週間ほどで、言いました。

お前、自分でわかっているか?
自分が正気じゃないことを、と。

お金も尽きて、家賃滞納が3ヶ月くらい続いてもいたのですが、姉は、とにかくすぐに帰って来いと言いました。

着の身着のまま、言われるがままに、在来線と新幹線を乗り継ぎ、まず姉のいる福岡まで。

新幹線が大阪を過ぎたあたりだったか、突然、
僕は「正気」に戻りました。

そして、いやいや帰ってどうするんだ、そんなことしてる場合じゃない、仕事を埼玉で探さなきゃ、と。

その状態のまま、福岡に到着。

姉に会うなり、ごめんすぐ埼玉帰るわ、どうかしてたけど今は大丈夫だから、と言いました。

実際、自分でもあのおかしな状態からは脱したと思ってるんですよ、その時点ではね。

姉はもちろん、怒ります。

お前、それがおかしいとわからないか?
数時間前まで尋常でなくパニックを起こしてて、
今度は治ったから(埼玉)帰るって。
それがまともじゃない証拠じゃないのか?と。
とりあえずまずはお母さんに会え、それからだ、と。




悪霊が取り憑いたような




実家は長崎です。

姉の車で、実家に到着。
数年ぶりだったこともあり、母は笑顔で迎えてくれました。

その時は「正気」ですから、普通にある程度の話をして、ご飯を食べお風呂に入って、布団で寝ました。

何ヶ月も恐慌状態を経ていましたから、実家の匂いや空気感はその時、えも言われぬ安心感があり。

数年に一度しか寄り付かなかったのに、なぜか。

そして一晩が明けても、
まだ僕は「正気」のまま。

これはやっぱりすぐ、埼玉に戻ろうと。

姉も母も、急に大丈夫と言い出す僕を、不審がってはいましたが、わかったじゃあ戻りなさい、と。

そしてまた福岡まで姉の車で移動し、駅で別れ。

心配、迷惑かけてごめんとLINEを送り、姉も励ましの返事をくれました。

これですべては解決か、と思った、その時は。

いつの間にか寝ていた新幹線の車内。

目覚めると同時に、悪霊が取り憑いたかのような、
あの無限の不吉 不安が電撃の如く全身全霊を包み込み、凄まじいパニックを起こして、次の停車駅で降りました。

そして母や姉に電話。

やっぱり、

ダメだ、と。







無間地獄





大袈裟かもしれないが、無間地獄という言葉を使わせてもらいたい。

新幹線を降りて、
またすぐ実家に戻ってからの一年。

当時、長崎の実家には母と姉が住み、兄は福岡。

いよいよ母も姉も、事の重大さに気づき、笑顔が消えた。僕はと言えばもう、まともに会話すらできなくなっている。
すべてが怖いので、極力、発言をしたくない。

母も姉も、40近い、元気に関東で暮らしていた末っ子がおかしくなって帰って来て、これからどうなるのかと、恐ろしくなったんですね。

凄まじく田舎ですから、メンタルの病気なんて、
はっきり言ってキチガイ扱いされてもおかしくないんです。
親戚や近所や仕事の付き合いが濃い中で。

年配の方が多いですし、鬱なんて、
ほとんど理解はされません。

母も姉も、僕を隠すようになり、
僕も極力、隠れていました。
まるでスケキヨのように。
(何度か人に会わせられましたが、やはり僕がおかしいので、母も姉もすぐにそれはやめました)

病気なら病院に行け、と母も姉も強く言うようになり、メンタルクリニックに通いだしました。

薬を出され、話をする。

しかし、話なんか意味は無いんです。

こちらはとにかくもう、鬱思考と自殺願望しか無い。

形ばかり通い、薬も飲んだふりで捨てていました。

薬でどうにかなるとはまったく思わなかったので。

埼玉の部屋については、一度戻り荷物をまとめ、
引き払いました。家賃は姉が支払い。

そのもろもろ作業をしている時も、現実感が無く、絶望感が溢れ溢れ。

大好きだった埼玉をなぜ離れなければならないのか、と、自分が原因でありながら、
ますます鬱は増していきました。

次章では、ちょっと時間を戻します。





躁病であったろう  異次元の半日





まだ、実家に帰る前の、埼玉で1人、だんだんおかしくなっていった頃の話。

わけもわからず日々、尋常でない不吉な不安で、
どうにもならない中。

ある日テレビを観ていると、それまでの、
死神に抱かれているような冷たい、黒い、暗い気持ちがみるみる晴れていき、

だんだん力が湧いてくるんです。心身ともに。

感動するほどに眩しい、希望の洪水のような昂り。

うおおおお!!!  

治った!治ったぞ!!!

何ヶ月も廃人でしたから、それが終わったんだという錯覚は、爆発的に僕の気分を上げ続けました。

ただ、これが尋常な明るさではなく。

おかしいんですね。

限度を超えている。

電話できる、連絡できる相手に片っ端から電話をかけまくり、数ヶ月おかしかったが元気になった、これから何でもできる気がする、とにかく絶好調だ!

と、我ながら凄まじい勢いで話しまくる。

相手はもちろん、ドン引き、困惑していますが、
意識のどこかでそれを感じながらも、
口が止まらない。

その時点で確か、実家に帰ることは決まっていたんですね、だから姉や母にも電話したはず。

あまりそのあたりの記憶は定かでないですが。

テンションが止まらないので、公園に行きました。
当時のランニングコース。

今考えると本当に自分でも怖いんですが、

子ども連れを見れば満面の笑みで手を振りまくり、
おじさんランナー(赤の他人)に話しかけまくり、
木を見れば登り、小石を見れば1時間くらい蹴り続けたり。

用があって街にも出ましたが、乗っている間、
空が青い、日差しが美しいと感動し、号泣。

号泣ですよ、電車で。
人目をはばからず。

当時はTSUTAYAでよくDVDを借りていたので、
そのテンションのまま、映画を20本くらい借りてきました。

さあー元気になったし楽しもうと観始めます。

しかし。

このあたりで、だんだん、だんだん………

その、テンションの魔法が解けていきます。

当時よくあった症状として、
言葉にするならば、「脳が冷える」感覚。

悪寒の凄まじいバージョンですかね。
それも始まったり。

急速に、戻ったわけです。

躁から、鬱へ。

映画を観続けましたが、恐ろしいことに、

まったく、意味が、わからないんです。

セリフの意味、物語の展開、何も。

集中しようとしても、霞がかったように、何もわからない。

ゾッとしました。

ついに、本当に、

気が狂ってしまったと。





家族とは





話を戻します。

紆余曲折を経て、長崎の実家で暮らし始めた。

家族との仲はもともと、まあどちらかと言えば良い方?   くらいのものでした。

しかし、幼児期 思春期を過ごした長崎には、
良い思い出がほとんど無く(というかトラウマだらけです)あまり寄り付かなかった、関東に出てからは。

だから、自分が原因とはいえ、大好きだった都会を離れ、良い思い出がほとんど無い、凄まじい田舎に戻って来たことは、
ますます加速させたわけです、鬱を。

死ぬほど、死ぬほど、後悔もしました。

長崎には、黒い思い出があまりにも多過ぎて。

母も姉も、心配してくれるからこそ、廃人の僕には重荷になる、見当違いな対策をあれこれと持って来ては(しかたないんですけどね、
ベストを尽くしてくれたんですが、廃人にはそう思えた)僕が発狂して車で逃走し、

自殺未遂を繰り返すが死にきれず、捜索願を出されたり、警察に発見されたり、ストレスに耐えかねた姉に殴られたり(無理もないんですが)、
母が泣いたり。

同級生や親戚や近所の人や。

誰に会うのも、心底、地獄でしかなかったです。

なぜ帰ってきたのか?仕事は?
答えたくない質問ばかり。

人生終わった(と 思ってる)中年の恥さらしが、
人に会いたいわけ、ありませんから。




唯一の居場所





僕が実家に帰って何ヶ月か経った頃。

姉が新車を買い、旧車を僕にくれました。

母も姉も、もう長崎で暮らしていけ、と。

仕事をして、家を継げば良いと。
継ぐと言っても、家屋と山と墓くらいですが。

しかし仕事については、
どれもこれも短期間で辞めたり逃げたり。

会いたくもない同級生が働いていたりして、
ストレスで発狂、発狂、ばかりでした。

僕にしてみれば、今日にも死にたい、絶望感しか無いのに、長崎で仕事なんか絶対に、したくないわけです。

できることなら関東に戻りたい、都会に戻りたい、人生をやり直したい、その気持ちはまだありました。

渇望、渇望、狂うほどの。

ギリギリで、諦め切れてはいなかった。

都会で、自分の人生を創りたかった、もう一度。

話を戻します。

タイトルの、唯一の居場所とは、車です。

姉にもらった、箱型の白い普通車。
車種はまあ、想像にお任せします。

家にいてもどこにいても、凄まじい針のむしろ。
鬱は、酷くなるばかり。

死にたい、死にたい、死にたい。

そんな僕が唯一、多少なりホッとできたのは、
その車の中です。

まあその車で、失踪したり、
山奥に首吊りしに行ったりもしていましたが。

本気で、死にたかったんです。

でも、死にきれなかった。

無意識に、諦め切れていなかったからでしょう。




あるイメージ




結論から言えば、この鬱時期がきっかけとなり、
女装を始めるに至るんですが。

その伏線になるのが、日々薄氷を踏む思いでギリギリ生きる中、防衛本能なのか、

妄想をしていたんですね。
現実を忘れるために、膨大かつ濃密な妄想を。

その妄想の中に、なぜだかはわからないですが、
(もしかしたら無意識に、潜在的に願望があったのか?)

自分が女性の姿で、何かしら人前でパフォーマンスをする、というようなイメージが、
漠然とあったんですね。

だいたいいつも、そのイメージに至ってました。

まあその時点では、実行するとかそこまでは考えてないし、それどころでもなかったんですけど。





死ねないならば  生きるしかない





そんな毎日が、半年を過ぎたあたりだったか。

死ぬことを諦めました。

何度(首吊り)やっても失敗、失敗。

結局、恐怖に勝てなかったんですね。

死にたい気持ちは本物でしたけど。

後は、都会が恋しくて恋しくて………。

テレビに東京のビル群が映る度、涙が出ました。

もう一度、都会で暮らさずには、死ねないと。



そしてついに、生きることを選択したわけです。

鬱の発症から一年以上経ち、ようやく。





ある女性との逢瀬





生きると決めたあたりだったか、
タイミングはあまり覚えていないんですが、
比較的、メンタルがマシになってきた頃。

当時mixiをやっていて、そこで知り合った女性が、
実家から近く、何度か電話をする内、会うことになりました。

ド田舎ですし、お互いにお金が無いので、
それぞれの車で公園に待ち合わせ。

その女性も、似たような状況だったんですね。

鬱や、家族のこと、仕事のこと、様々な話題。

実家に帰ってからもほとんどは暗黒でしたから、
かなりの癒しになっていたと思います。

10回くらいは会ったかな?

いわゆる男女の関係には、なりませんでしたが。
軽く触り合うくらいで。

その女性の他にも、もう1人、会った人がいましたけど、そちらは1回きりでしたね。






もう一度  関東へ





母も姉も兄も、もちろん大反対ではありましたが、

何としてもまた関東に戻る、
その為に働くと宣言。

それまでいくつも、短期間で逃げていましたが、
どうにかこうにかまた働きだしました。

しかし…相当な激務で、
確か1ヶ月くらいでやめたかと思います。

全体的に、当時の記憶が曖昧なんですね。

廃人のような状態でしたから、たぶん脳も、
あまり働いていなかったと思います。

自分で働いて貯めたのか、
家族に出してもらったのか、
何はともあれ、埼玉までの旅費を用意できた。

埼玉には幼なじみが住んでおり、
しばらく居候させてもらう話をつけました。

もっと早くにそうしてもよかったのかもしれないんですが、なにしろおかしくなっていたので…。

この文章を、
家族が読む機会は、まず無いと思いますが、

もしもあるならば、感謝と謝罪を。

お母さん、姉ちゃん、兄ちゃん、ごめんなさい。
ありがとう。


特に、一緒に住んでいた母と姉には、
地獄みたいな一年を過ごさせてしまった。

昔に他界している父も、もしかしたら。





ミズノのスポーツバッグ





これはいまだにライブの日などに使っていますが、
僕が埼玉へ戻ると決まって、母が買ってくれたものです。

ミズノのスポーツバッグ。

母も、姉も、感慨無量というか。

地獄のような、嵐のような、そんな一年。

そしてまた旅立つ末っ子に、何を思ったのか。

その日、僕が乗る車を見送る母は、泣いていた。

1年間。



何一つ、楽しいことなんてなかったのに。

それでも、別れを惜しみ、泣いていた。





ついに  再びの埼玉へ




前項でも書いたように、記憶が曖昧なんですが。

また新幹線で、福岡→東京。
それから埼玉へ。

今回の新幹線では、「悪霊」は取り憑かなかった。

ある程度はマシになっているとはいえ、
まだ元気になったとは言い難い。

自殺願望もゼロにはなっていないし、
未来の不安はさらに増してさえいた。

発狂するほど念願だった関東なのに、近づいても、到着しても、
あまり感覚はなかった気がする。

不思議な感じ、夢の中のような。

そして幼なじみと、一年ぶりの再開。

長崎に戻る直前、その幼なじみとあと2人の友人と、別れ会で会って以来。

今思い出しても、別れ会での、
人生終わった感覚は凄まじいものがありました。

幼なじみは何も変わらずでしたが、
少し、不安そうではありました。


尋常でない様子は、彼もたくさん見ていたので。





人生の  再スタート




幼なじみ(以降Yとします)のワンルームアパート。
6畳くらいなので、男2人にはもちろん狭い。

それでもロフトがあったので、どうにか。

約束は2ヶ月。2ヶ月でお金を貯めて、
自分の部屋を借りる、と。

仕事をさっそく探すわけですが、
もはや一度死んだようなもの。

いまさら怖いものもない。
めちゃくちゃに好条件の外資に、面接を出願。

あれよあれよと面接が終わり、なんと、合格。

コーディネーター曰く、
滅多に合格者は出ないと。






ドラマのようなビジネスマン






前項に書いた会社で働き始める。

だんだんと、いわば  生き延びた  自分や、
また新しく望む生活ができる嬉しさで、
鬱は急速に治っていった。

しかし、今度は躁転。

その会社ではちょっと奇行に近いことを、よくやっていたと思う。

外資だから外国人ばかりでしたが、拙い英語で、
誰かれかまわず話しかけたり、
勝手に飲み会を企画して全社員のPCにメールしたり。(もちろん潰されましたが)

その会社は結局、
一年で辞めたんですが(上司と折り合わず)

ピカピカの一等地オフィス、外資の自由な空気、
バリバリのエリートビジネスマンと仕事、など、
良い経験ができましたね。






最終章   鏡の中に






この6年を振り返れば、無限に書くことはあります。

しかしキリがないので、最終章。

なぜ、女装を始めたか?に触れ、終わりとします。

Y宅で居候をしながら、外資で働き、という日々の中、もう1回死んだんだから好きなことをやろう、と思い、
歌の動画をネットに上げ始めたんですね。

そしてそれを見た友人が、
見た目にインパクトがまるで無い、つまらない、と。

ならばなにか派手な格好をしてみようかと、
今も覚えていますが、大宮のドン・キホーテへ。

そしてこの時、あのイメージを思い出します。

女性の姿で、パフォーマンスを。あのイメージ。




女装………!



しかし、果たして自分に似合うだろうか?
いろいろな意味で怖かった、勇気が必要だった。

でも、キーワードは「1回死んでる」ですから。

思い切って、ウィッグやメイク道具を買い漁った。

Yが不在の日、何の知識も無く、
なんとなくのイメージだけで、メイクをしていく。

途中でなんだか馬鹿らしく惨めにもなり、
やめそうだったけど、どうにかこうにか、メイクを終えた。

この時点でもまだ、ピンと来ていない。

そしてウィッグを被り(最初は金髪ロングでした)、

鏡を見た。



、、、、、、、、これだ!!!!!!!!



人生で初めての、

雷が落ちるような、

「見つけた」感が、そこにあった。

何だかわからないが、
これはおもしろい!と思った。

何かが始まるんだと、思った。

それからはもう、
鬱なんてまるで嘘だったように、

躁もあったのかもしれませんが、

ひたすらに自己表現をしまくってきた、
6年でした。

クロスレイという女装の、誕生までの、お話で
す。


長い長い文章を読んでいただき、



本当にありがとうございました。


-了-

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