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#77 いかがお過ごしですか?/くろさわかな

【往復書簡 #77 のやりとり】
月曜日:及川恵子〈心が死んでいる〉
水曜日:泖〈それでも〉
金曜日:くろさわかな〈たかが砂粒、されど〉

たかが砂粒、されど

毎日毎日気が重くなるニュースばかりですね…。
悲惨な出来事ばかりが目に入って、平穏な日常を生きている自分に罪悪感を覚えたり、楽しみや喜びを自粛してしまったりするお気持ち、とてもよくわかります。そして、なにかできることはないかという焦燥感で落ち着かず、夜もなかなか寝付けなかったり。

昨晩もなかなか眠れませんでした。
というのも、夜、Netflixで「ウィンター・オン・ファイヤー: ウクライナ、自由への闘い」を観たからです。

2014年にウクライナで起こったマイダン革命のドキュメンタリーです。
腐った政治家たちの恥知らずな決議。丸腰の民衆に対する生々しい暴力。非道極まりない映像がこれでもかと続くので、何度も目を伏せてしまったし、涙も止まりませんでした。

今起こっていることはこのとき以上に残酷で激しいのかと思うと、本当にやるせない気持ちだし、怖いです。対話が通じない相手がいる。何事も暴力でねじ伏せようとする輩がいるという恐怖。そしてそれが、ただただ悲しくて。

ああ、これは寝る前に見たら眠れなくなるやつだと、途中で観るのをやめようかとも考えました。リモコンのボタンをぽちんとすれば、残酷なシーンは止まる。目の前からは消えてくれる。だけど、起こってしまったことは消えないし、現実はそんなふう簡単には止まりません。だから、止めませんでした。

それに、この作品を見ていて気がついたんです。悲しい、悔しい、やるせない、憎い、怖い……そういうネガティブな気持ちの中、彼らを支えたのは「ウクライナのために」という愛国心(※)。性別も年齢も職業も宗教も言語もバラバラな人たちの想いがひとつになる強さ。「暴力なんかに屈するか」「絶対に変える」「未来のために」と、何度も何度も立ち向かう様子を見ていて、わたしも「負けるかよ」って思いました。「わたしだって、悲しんでるばかりじゃいられない」って。

今回のウクライナ侵攻の中に光があったとしたら、多くの国――文化や言語が全く違う――の人々が、ロシアの軍事侵攻を非難し、戦争に反対し、平和を願っているというひとつの意思を示したことだと思っています。
わたしもその中で、砂粒みたいに小さくても一緒に光っていたい。

それでね、考えたんです。
平和とは、“皆が楽しく笑って過ごせる”ことですよね。だから、その「皆」のなかに含まれている自分自身が楽しく笑って過ごすことに罪悪感を覚えなくていいんじゃないかって。
それに、笑うことで周りも楽しく過ごせる。つまり周りの平和にもつながっていくんじゃないでしょうか。
わたしには世界全体を救える力は到底ないけど、手の届く範囲を平和にしていくことならなんとかなるんだと信じたい。

そうやって自分が楽しく笑えるように、募金したり憤ったり悲しんだり祈ったり虚勢を張ったり時には逃げたりもしながら、砂粒なりに精一杯あがいています。彼の地で暴力と戦っている、たくさんの「強い心」に共鳴して。

一刻も早く、非人道的行為が止まりますよう。

くろさわかな

※「愛国心」と日本語で言うと、なんとなく語弊がありそうです。日本人の使う「愛国心」って、暮らす人のことをそっちのけで、「『お国』のため」というニュアンスが強い気がしていて。人ありきじゃなく国ありきというか。
そうではなく、ここで言う「愛国心」は「ウクライナという国で暮らす人たちのために」が前提の「愛国心」なのです。国側が悪いことをしたら見て見ぬ振りをせず本気で叱るのが愛。当たり前のことのようで、実はとてもむずかしい。


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