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「努力」とは、

今朝の #こえのブログ


『ちはやふる』の話をしたいのか
「和歌」の話をしたいのか
「打ち込む人」の話をしたいのか…

ブレブレですね。

今朝は何度も録り直しまして、とうとう話すテーマを変えて、最終的にこちらの投稿になりました。

反省。身構えてちゃダメですね。



それはそうとして、


「一つのことに打ち込む人」ってすごく魅力的です。
一心不乱に、不屈の精神をもって物事に向き合う。

私は『MAJOR』という野球漫画が大好きなのですが、この主人公がまさにそういう人で

私もそんなふうになりたいと願っていました。


でも、近頃気づいたのです。

たぶん、わたしにはそういう生き方はできないと。


昔から、ひとつのことに対して、
そこまで言うほどの直向きな努力というものを
できた試しがありません。


スポーツも、勉強も、
なんとなくそれなりに、できる範囲で
特別辛い思いをすることもなく、
特別目立つこともなく、

中の上あたりのポジションでいられる環境を選んで、それなりに生きてきました。


「コツコツ毎日努力を重ねる…」
ということは、大切だと思うし
やろう、とは思うし、
やるべきだ、とも思う。

けれども、できない。


それを、「できない」という自分に対して
後ろめたさを感じつつも、やっぱりできない。

「私には努力ができない」という思いが、
長いこと私自身を苦しめていました。

私には、努力ができない。


でも、それは当たり前だったのです。


「努力」のやり方も、やる意味も
ずっと間違っていました。


「目の前のこと」をこなすために努力なんて、メンタルの弱い私にできるわけがない。
もっと広い意味での自分がありたい姿に向かっていくための、逆算された行動しかできない。

何事も努力するということはできないし、
何事も努力しないということも、恐らくできない。


本当に望む在り方に、人は勝手に吸い寄せられていると思います。

でも、「社会の常識」とか「世間体」が、その在り方を否定したときに、求められた在り方をしようと「努力」のようなものを強いられます。


そんな未来は自分が望んでいないのだから
そちらに向かっては努力を重ねられるわけがない。


本当にそうありたい在り方を認識して、そこに向かって淡々と事を為していく。

淡々と、必要なことを習慣として重ねていく。


それが、ほかの芝生に生きている人からしたら「努力」に見えるのかもしれません。


だから、『MAJOR』の主人公は魅力的だし、努力家で不屈の闘志をもって夢に向かって邁進する姿に憧れる、けれども。

私は、そうはなれないし、そうなる気もない。


抽象度を上げて、考えることが
私には必要だったのだと思います。


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