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存在を肯定できるひとになりたい

どうやら今は承認不満の時代らしい。

恋愛ブームとか、バブルのお金をばんばん使え!みたいな風潮ではなく、SNSのいいねの数で自分の値踏みをする世の中のようだ。

特に私はTLを追うのが虚しいと思ってしまうときの記事であったように、Twitterの評価で自分を値踏みして一時的に鬱になる傾向があったようだ。

膨大な電子の海の星の数ほどあるアカウントから自分のアカウントを見つけてもらって、今度はその限られた人間関係から、どれほどの人間がふぁぼりつを押してくれるのかをボタンを押せば餌が出てくる機械の前のネズミのように待っているその行為を非効率的なんじゃない?と今は思う。

バイト代で人とご飯を食べてゆっくりお話ししたり、リアルでフォロワーさんに会ったりして、こんな話を聞く。
「頑張って描いた絵にふぁぼなんてつかなくて気が滅入る」
「誰も褒めてくれる人はいないし辞めたいって思うけどお金になるから働いている」

私と同列にするのはとても烏滸がましいのだけど、この人たちも「承認不満」を抱えて生きているんだって思う。

逆に「私は〇〇できるのに、なんであなたはできないの?」と人を見下してしまうこともあった。初めてはっきり人を見下すようになったのは中学生の時だったと思う。
当時は、いじめから逃れるために勉強をしていた。次第に
勉強ができない人=私をいじめるか陰口を言う人=私より能力が劣っている人
と考えるようになってしまった。
しかし、こう考えることで一時的には自分を支える薬にはなったが、いつの日かその感情がみみっちいものだと気付き、人を見下す私が嫌になった。

マウントを取るという言葉がある。
「人を見下す」とほぼ同じ言葉だ。これを解体すると
『私は〇〇ができて、□□に認められているのだけど、あなたは〇〇ができない。じゃあ、□□に認められていないから私よりも能力が下ね」ということになる。
私もそうなってしまうときがある。

でも逆を言えば、私を知っている誰かが
『私は〇〇ができて、□□に認められているのだけど、ちぐさは〇〇ができない。じゃあ、ちぐさは□□に認められていないから私よりも能力が下ね」
ときっと思っている。

自分と他の人を比較しなければ人を見下すことはできない。
逆に〇〇したって事実だけでしか承認欲求を満たせない世界は窮屈だ。

気持ち悪いって思われるかもしれないし、他を当たれよ!とも思われているかもしれないけど、
私は今私の周りにいる人に、
「今私の目の前で同じ場所にいてくれてありがとう」って言える人になりたい。

直接「あなたはここに今いるだけですごいんだ」と言える機会なんてなかなか無いと思う。だから、2つのことをするようにしている。
1:会えたら身につけているものなどを褒める(会話する)
2:〇〇に詳しい人であれば、(〇〇ができそうであれば)話を聞く(頼る!)
強いて言えば3に「今私の目の前で同じ場所にいてくれてありがとう」と言うことがあるのだろうか。

1は、人によってやめた方が気が楽という人もいるから様子をみながら褒めている。
2は、私がその人のこともっと知りたい!という好奇心でやっていることだし、もしかしたら聞いた人が「私、ちぐさに頼られてる!」と自信を持ってくれたら、、のつもりでやっている。
なぜ、そうしているかと言えば、巡り巡って自分に返ってくると信じているからだ。

「認められたい!」という感情、すなわち承認欲求はマズローの5つの欲求の第4階層目にある。それさえ満たせれば初めて「自分の目的を果たしたい!」というやる気に繋がる。でもこれは自然なことで要は私利私欲である。

私も所詮、私利私欲のために行動しているにすぎないし、きっとみんな私利私欲で動いてきまぐれで私なんかに構ってくれているのだと思う。たとえ気まぐれだとしても、私は嬉しい。


だから、



存在を肯定できるひとになりたい。

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