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誰にでも事情はある。誰にでも。

条件は悪くないですけど、このマンションは出ますね
と、さすがにマガオのオジサンにそういわれては
背筋に冷たい震えがきたけど
契約書の賃料の欄をみて
背に腹は代えられぬと引っ越すことに決めた

果たせるかな
あれは初日から出た
というより今にして思えば出ていたのだ、と思う
ガタガタと音がして、トラックでも通ったか
わりと新しい建築だから家鳴りでもしたか
うとうと
ベッドの半睡半醒のなかで、そんなふうにやりすごした
のんきなものである

ファーストインプレッションが関係性を決める
とは、就活本にもよく書いてあったことだ
それでいうとあたしはあれとの遭遇を
失敗したことになるのだろう
あれはあたしがガツンといわないタイプだと
あなどって
翌日からじつに厚かましくも
人が寝ている寝室をいきなり開扉してみたり
ネコとにんげんのあいのこみたいな声をだしてみたり
好き放題するようになった

こっちも生けるものとしての維持もあるし、仕事で疲れているから
気にせず眠るようにしていた
するとますます増長して
帰宅したあと化粧を落として
ぱっと鏡をみたときに
そこに映りこむことさえしはじめた

さすがにやりすぎである
家というものは単に衣食住のための空間ではない
やすらぐための安全地帯、精神の秘密基地でもある
そこを土足で、いや、足はないが、
とにかくずかずかと上がり込むというのは
よしんばあれだとしても
ぶしつけではないか

あたしはガツンといってやることに決めて
その夜は布団から顔だけだして
炯々と光る眼で、どこからあらわれるかと
部屋中を走査した

案の定、しばらくするとあれはぬうっと天井の隅
暗いところからあらわれた
コラ!
と言いかけて、
おや?
と詰まった

あれはどうもあたしの方をむいていない
知り合いだと思って挨拶しかけたら
むこうが無反応で
あれ、と思って近づいてみると
他人だった
みたいな、ちょっと恥ずかしい感じ

でも、よく観察してみると
どうやら、あれはあたしを驚かせようとか
怖がらせようとか
そういうあたし向きの悪意というものはなさそうだった
誰かにむかう以前の、
もっとピュアな
悪意
恨み
やるせなさ

あれはいそがしそうに部屋をとおりぬけていき
またしばらくすると別のところから現われて
ふたたび別のところへと消えていく
そうか
忙しいのだ
あれは
やむにやまれぬやるせなさに
強いられて
ひたすらにああしているのだ

繁殖期のネコみたいな音が
いきなり立つ
いまや、その声はおぞましさよりも
哀れみをそそる
やむにやまれず、かけまわる、あれ

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