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「ハマのドン」藤木幸夫氏の「サッカーは侵略の道具」発言は、全くのデタラメである

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昨日は「横浜スタジアム」が元々クリケット場だったことを書いていましたが、その過程で気になる記事を見たので、触れておきます。

「ハマのドン」藤木幸夫の反サッカー発言

横浜スタジアムの元あった場所は、横浜居留地内でクリケット場があった場所です。そのクリケット場があった場所の横浜スタジアムの運営会社の名誉会長を務めるのが、横浜の政財界の大物で「ハマのドン」と呼ばれる藤木幸夫氏です。その藤木幸夫氏が大の野球愛好家であり、神奈川のアマチュア野球界を支援してきた人物です。

ただ単純に野球好きであれば、それはそれで良いのですが、問題は他のスポーツに対して、明確に嫌悪感を示し、開会式の演説などで公言している件についてです。今年の4月に行われた「神奈川フューチャーズ」の開幕戦でサッカーを敵視する演説を約10分間行っています。

※藤木幸夫氏の発言は58分から

「戦争の終わったあと、日本はなんのスポーツを選んだと思いますか?野球を選んだんです。よその国は何を選んだのか?サッカーです。サッカーはヨーロッパの国が、侵略の道具に使ったスポーツです。足が痛くても腰が痛くても手が痛くても『監督痛いです』と言ったら引退。野球は監督と選手が対等な立場で話し合える」

「私はサッカー(のW杯決勝)を横浜でやったとき、市長に『サッカーのW杯をやるような無様な横浜は嫌いだ』といいました」

「戦後すぐにサッカーでなく野球をやったから日本はこうなっている。サッカーをやったら今、私は懲役に行っているでしょう」

https://news.yahoo.co.jp/byline/oshimakazuto/20210824-00254809

野球が好きでサッカーが嫌いという藤木氏の内心はそれはそれでいいと思いますが、日頃からクリケットを始めに、他のスポーツも研究・調査をしている立場としては、スピーチの内容があまりにもデタラメで、歴史修正主義者そのものの言動ですので、今回はnoteで指摘しておきます。

「侵略の道具」としては時代が合わない

まず、藤木氏が「サッカーはヨーロッパの国が、侵略の道具に使ったスポーツ」と発言していますが、これは大きな間違いがあります。

ヨーロッパの国々が大航海時代に乗り出したのは、16世紀でスペインとポルトガルが、アジア、アフリカ、アメリカ大陸へ植民地の拡大を進めていました。その1世紀遅れて、イギリス、オランダが植民地拡大を始めています。

対するサッカーは、中世から似たようなスポーツが行われていたという文献はありますが、ローカルルールでラグビーのように手で運んでもいいルールであり、中には殴打をしてもいいルールが存在するなど、ルールが統一されていなかった背景があります。「手を使ってはいけない」ルールになったのは、今から約200年前ほどであります。

よって、藤木氏が「ヨーロッパの国が侵略の道具に使った」という発言は、大航海時代や大英帝国の世界進出の時代とは合いません。

大航海時代とリンクするクリケット

サッカーは19世紀末に発展していきましたが、それよりももっと古い歴史のあるスポーツはあったのでしょうか?

それは「クリケット」です。

クリケットの歴史は非常に古く、16世紀からはすでに行われていたと言われています。主に子どもたちがプレーしていたようですが、次第に大人もプレーするようになり、地域の教会別での対戦が行われるなど、非常に古い歴史を誇ります。

17世紀になるとプロ選手が登場し、18世紀にはクリケットの試合がギャンブルの対象とされていました。18世紀末にはクリケットの統一組織の「マリルボーン・クリケット・クラブ」が設立され、ルールが統一化されはじめました。国民的なスポーツとして地位を確立していたクリケットは、上流階級にとってステータスとされており、名門校のイートン校、ハーロー校では必須科目になっていました。

18世紀の時点で、イギリスの将校や植民地へ移り住んだ富裕層の間で、すでにクリケットが世界へ渡っていました。スリランカでは、人数合わせの都合により、現地人が試合に加わっていた文献も存在します。

クリケットを植民地支配の道具に

植民地を拡大していった大英帝国ですが、19世紀半ばに植民地統治を大きく揺るがす出来事が発生します。

それはインドで起きた「セポイの反乱(インド大反乱)」です。

この反乱が起きたのは、植民地統治を主導していた東インド会社が、近代的な土地所有制度を取り入れたことにより、インドの地主層が没落したことと、インドの物価が高騰している状況下でありながら、兵士、軍人の給料を据え置きされていたことにより、インド人の地主層や軍人をはじめに、東インド会社に対して大反乱を起こす出来事が発生しました。

その戦争はイギリスが勝利し、当時インドを治めていたムガール帝国は滅亡。しかし、混乱を起こす原因になった東インド会社は解散し、インドは大英帝国による直接統治をされることになりました。

大英帝国のインド統治は、イギリス本国のような階層統治を行いました。セポイの反乱を起こしたインドの土着の支配者に大衆が従ってしまった苦い経験から、インドの地主層などの現地の上流階級に対して、イギリス流の人格教育を行い、インド版パブリックスクールが各地に作られるようになりました。

そのパブリックスクールで利用されたスポーツが、まさに「クリケット」でした。

クリケットの持つ「忍耐力」「自己犠牲精神」「チームへの忠誠心」「協調性」「スポーツマンシップ」が、大英帝国の植民地政策、統治論に結びついていました。それはインドのみならず、セイロン(スリランカ)、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、西インド諸島など、大英帝国の各植民地で採用されていました。

19世紀末には対抗戦を開催

各植民地にクリケットが広まっていくと、19世紀末頃から、大英帝国本国と各植民地との対抗戦が行われることになります。

表向きでは「本国と植民地の交流」でしたが、裏の意味では「大英帝国の威光を見せつける」意味合いが強く、対抗戦が始まった当初は、イギリス本国が各植民地代表を圧倒していました。文化もスポーツもレベルの違いを見せつけるのが大英帝国の狙いでした。

ただ、この対抗戦によって、オーストラリアやニュージーランドは、「本国に劣っていないところを見せつける機会」として捉え、各植民地も含め、クリケットの対抗戦はナショナリズムの発揚の場として利用されており、クリケットは「コモンウェルス(イギリス連邦)を代表するスポーツ」として発展していきました。

サッカーは後発

大英帝国が植民地支配に利用したクリケットは、インド亜大陸(インド、パキスタン、バングラデシュ、ネパール、スリランカ、アフガニスタン)、オーストラリア、ニュージーランド、西インド諸島、南アフリカなどで広がっています。

クリケットはそれらの国では国民的スポーツになっている一方、サッカーに関しては、イギリス本国と南アフリカ以外は、国を代表するスポーツとは言い難い状況です。オーストラリアやニュージーランドの支持層は東欧系の移民が中心であり、インドではゴアやコルカタなどで局地的に人気があるに過ぎず、西インド諸島も同様でしょう。

上流階級に好まれ、教育にも利用されたクリケットとは異なり、サッカーはイギリス本国やフランスなどの国では「労働者階級」のスポーツとされていることもあり、クリケットとは異なる形で世界に広まっています。南米ではヨーロッパからの出稼ぎ労働者が、休暇に嗜まれていたスポーツがサッカーであり、それが南米全土に広がっていった経緯があります。

藤木氏が「侵略の道具」と言いましたが、とてもそうとは言えないでしょう。

横浜スタジアムは元々クリケット場ですが…

再び藤木幸夫氏の話に戻りましょう。

横浜スタジアムに関しては、横浜居留地だった明治初期に「横浜彼我公園クリケットグラウンド」だった経緯があり、日本で初の芝生グラウンドでした。

イギリス人によって、横浜では在留外国人を中心にクリケットの試合が行われていました。しかし、野球を国技としていたアメリカ人の影響力が大きくなり、日本では野球がプレーされるようになり、横浜居留地が日本に返還されてからは、クリケットグラウンドから野球場に建て替えられています。

藤木氏は「戦後に野球を選んだ」と言われていますが、第二次大戦どころか、第一次大戦前には日本はすでに野球を選んでいた…とも言えますね。

元々クリケットグラウンドだった、横浜スタジアムの取締役会長を歴任しておきながら、横浜におけるスポーツの歴史認識もきちんとなっていないのは、さすがにどうかと私は思いますが、90歳以上生きていたら、認識が曖昧になってしまうのかもしれませんね。

ただ、藤木幸夫氏の発言がきっかけですが、クリケットが好きな私としては、クリケットの歴史背景も知っておけるチャンスかなと思い、今回noteに記してみました。読んでいただいた方にとって、少しでも学びになったり、ためになったと思っていただければ、光栄です。

長文ですがありがとうございました。


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