『人類遺産』 -天は語らず、廃墟をして語らしむ-

据え置かれたカメラが世界各地の廃墟を映し出すだけのショットを延々と繰り返す映画なのに、写真集のスライド映写などとは別次元の(対極にある、とさえ言える)至福の映画の時間に、私たちは連れていかれます。監督のニコラウス・ゲイハルターの映画作家としての意志が、そこには貫かれているのです。

まず、無人の廃墟の空間に、動いているものがあります。降り落ちてくる雨や雪、木の葉。風に舞う埃や土。飛ぶ鳥や地面を跳ねる蛙。それらを見つめていると、私たちは毀(こぼ)たれた建物たちと同じ時間を過ごしているのだと感じます。うち捨てられた空間が自然に侵食されていく今という瞬間を、共に過ごしているという、それは感覚です。

見るだけじゃなく、耳に届いてくるものも、この映画を「経験」させる要素です。雨の音、風の音、生き物たちのたてる音たちが、はっとさせられるくらい切迫した響きを持っています。撮影現場のスタッフが出す音を入れたくなかったので、それぞれの場面に合わせてアーカイヴで音を探したり特別に録音したりして音を構築した、とゲイハルターは言っています。この映画の音は、いわばフィクションとして作り出されているのです。でも、と言うより、だからこそ、そうして生み出された「あるべき」音たちは、純粋で官能的なほどに生々しい。それらに耳を澄ませていると、原初の人間の聴覚が、呼び覚まされるような気さえしてきます。彼らは人に直接働きかけてくる自然の物音に耳をそばだてたはずです。この音は、自分に何をもたらし自分から何を奪っていくのか⋯⋯。

字幕やナレーションなどの説明が全くないので、建物も、そこに置かれた家具や道具も、どんな用途で使われていたものか、ほとんど分かりません。建物たちは本来の機能を失って、朽ちていく建造物という文脈だけを纏っている。それがゆえに私たち観客は、それに心を寄り添わせることができるのでしょう。これは私の風景なのだ、という不思議な感覚。

ゲイハルターがミヒャエル・ハネケと同じオーストリア出身であるのは、偶然だとは思えません。この二人の映画は、ともに文明を見つめる視点を核に持っているからです。ただ、ハネケが文明の病理を衝撃的なカタストロフに突き進むドラマで語るのに対し、ゲイハルターは文明の生んだ風景を静かに見つめることで、主題を浮かび上がらせてくる。その違いがあるにせよ、栄華を誇った欧州の文化があっという間に瓦解していくのを目の当たりにした国の出身であることは、この二人の映画作家としての在り方に関わっているように、思えてなりません。

《追記》ここに、もう一人、ヘルツォークに「私はザイドルほどには地獄の部分を直視していない」と言わしめたオーストリア出身の映画作家ウルリヒ・ザイドルも、当然加わって来ますね。


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