『ありがとう、トニ・エルドマン』  -コスチュームプレイはスクリューボール・コメディの定番だ。-

社畜と化したワーカホリックな娘のことが心配で、娘の仕事場に出没する父親くらいメイワクな存在もない。変なかつらや入れ歯をしトニ・エルドマンなどと偽名を名乗り、ビジネスの現場にづかづか入ってきては、職場内外の人と意味なく挨拶を交わし冗談を放つ。娘の傍にいるための口実なのだから、行動に意味や文脈などない。とにかく、気づくとトニ・エルドマンは画面の奥から現れる。なんでこの人がここに?という出現ぶりが、観客にとっては、極上のコメディの瞬間になる。

そんな場面にどう反応していいか分からない娘の当惑や混乱もなんのその。どうしてくれるんだ、と突っ込みたくなる間の悪さが解消などされないままに、映画は爆走する。大事な商談を前にしてなぜか手錠で繋がってしまう父と娘の図とか、不意に娘に向けて放たれる「お前は人間か?」という父の言葉とか、やけくそで大熱唱されるホイットニー・ヒューストンのあの歌とか⋯⋯。スクリューボール・コメディという米国映画の果実が、21世紀のドイツ映画という新たな土壌で実っているのだ。

スクリューボール・コメディ定番のコスチュームプレイという伝統も、この映画は鮮やかに更新する。かつらや入れ歯、仮装といった変身で、父親が日常からどんどん離脱していくにしたがって、娘も次第に仕事用のスーツから身を引き剥がしていく。白いブラウスに飛んだ赤い血を見てしまうことを発端に、エロい服を着たまま倒錯・変態てんこ盛りな情事に身を任せてしまったりしながら、彼女と衣服との関係はずれて行き、そのプロセスの行き着く先に、あの唖然とするような全裸の場面がやってくる。いくら何でも、こんなに投げやりに、映画が全裸を出現させてしまっていいものか?とあっ気にとられつつ、見ている私たち観客にも、自分を脱ぎ捨てた彼女の解放感はびんびんと伝わってくる。

しかも、その場面にはいきなり、トニ・エルドマンの「変身」最終形態とも言える異様な姿が乱入してくる。この映画にどこまで連れていかれるんだ?と思いながらも、脱衣と着衣というコスチュームプレイのアルファとオメガが、究極のところでつながって輪になるようなこの光景には、わけの分からない感動を覚える。ここに行き着いた人間にしか見えない「自由」があるのだ、と。

最後に、この映画の犬の扱いに触れておこう。寿命が近づいて歩きもしない弱った犬を、父親は抱えて外出先に連れていく。この犬の歩かなさ加減は何なのか?横たわって動かない犬は生きているのか?といぶかりつつも、これがこの映画の死というモティーフの持ち込み方なのだ、ということが分かってくる。それはラストの葬儀の場面に繋がりながら、この奇妙な愛と再生の物語を動かすエンジンの動力となっているのが、死への眼差しであることを、観客に悟らせる。

http://www.bitters.co.jp/tonierdmann/

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