『わたしたちの家』 -フーガの技法-

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小津安二郎の映画世界をホラー映画の手法で描くなどという奇想で作られた『わたしたちの家』は、しかし、見る者に強いヴィジョンを届けて来る。その力はどこから生まれているのか。

『わたしたちの家』の舞台となる家の内部のショットが、家の間取りといい構図といい、小津映画の一場面と言っていいほど小津映画に酷似しているのは、誰もが気づく。この監督が小津映画との関係性の上でこの映画を作ろうとしているのは、明らかだ。ただこの家内のショットには、一つだけ、小津映画とは異なる要素がある。画面の左側に、二階へ上る階段が映っているのだ。

小津の映画が屋内を捉える画面に階段が映っていないことを、蓮實重彦が指摘している。奥に台所などのある廊下を縦に眺める構図の左右に、居間などの部屋の端が見えていて、そこには二階に続く階段も存在するはずなのに、それが視野から隠れて見えないのだ、と。小津映画では二階の部屋は一家の娘が占有しており、そこに時折訪ねてくる女友達との語らいなどを通して、その部屋は父親や弟などの男たちが入って行くのも躊躇われるほどの、女だけの聖域となっている。そして、そこに上っていくはずの階段の不在が、その空間の特権性をより際立たせているのだ、と蓮實は言う(『監督 小津安二郎』)。

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『わたしたちの家』の家のショットに二階への階段が映っていることは、しかし、その蓮實の文章と矛盾するものでは少しもなく、むしろそれを敷衍(ふえん)するものにほかならない。なぜなら、父親が失踪して以来、この家の住人は母と娘の二人の女だけであり、男性の存在はこの空間からあらかじめ排除されているからだ。男性がこの住居に足を踏み入れる場面がないわけではなく、中学生の娘セリの誕生パーティには母親の婚約者がやって来たりもする。が、セリは不在の父親への思いや母親の再婚へのいら立ちから、婚約者の呑むワインのグラスに大量のタバスコを注ぎ込み、あからさまな拒絶の姿勢を示す。男性はあくまでも排除される存在なのだ。その意味でこの映画は、女たちのサンクチュアリーという小津の二階の空間的属性を、一階の居間や台所にまで押し広げている。二階への階段は、映し込まれていて当然なのだ。

しかも、父親への思慕、母の再婚への当惑といったセリの心情は、『晩春』や『秋日和』などの小津映画のヒロインが、胸に隠し持っていたものでもある。『わたしたちの家』と小津映画との親和性は明らかだ。

だが、この映画の驚くべき点は、小津映画から跳躍させた映画を、全く異質な映画の次元に着地させていることだ。セリが上記のような落ち着かない気持ちで毎日を過ごしているせいなのかどうか、この家には、彼女たち母娘には見えないもう一組の女性の二人組が、住みついてしまっているのだ。不可視の亡霊たちが家の空間を闊歩する幽霊屋敷映画、つまりホラー映画の枠組みの中に、突然小津映画が放り込まれてしまう。

住みこんだもう一組の女性たちは、しかし、どうにも存在感のはっきりしない胡乱(うろん)な二人組だ。一人(サナ)はフェリーの座席でうたた寝から覚めると、自分についての記憶を全て失っていることに気づく。彼女を拾って家に住まわせる透子も、市民生活に紛れて怪しげな調査を行う団体に属していて、素性が知れない。二人で仲良く食事したり楽しそうに歌いながら裁縫などしているところを見ると、彼らは一つの家族のような生活共同体を形成しつつあるかに見えるけれど、まともな料理ひとつ出てこない食卓を見るにつけても、この二人の生活ぶりはなんとも心もとない。その存在の希薄さはセリ母娘の地に足がついた実在感に比べると、いっそう際立たって見えてくる。例えば母親のデートの後をセリが密かに尾行する場面の、母親とセリの両者から強烈な身体性が立ち上ってくる描写。セリと女友だちが散歩する海辺の不穏なまでに画面を騒がす風と波の描写。彼女らの生きる世界の生々しい感触を、サナと透子の世界は持っていない。セリ母娘の世界のしっかりとした日常性とサナ・透子の世界のあいまいな非日常性とを対比させながら、両方の世界が同時に進行していくのだ。

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この二つの世界が互いに全く無関係というわけでないのは、彼らが時折、もう一つのカップルの物音や話し声を微かに聞き取り、それに耳を澄ますことからも知れる。彼らの世界は互いに響き合って存在しているのだ。両世界の関係性を、監督の清原唯はバッハのフーガに喩えている。複数の声部が交わらないまま同時に進行しつつ、互いに補完し合って一つの音楽を形成していくバッハの対位法は、はっきりした輪郭線を持つ主旋律とその影のような対旋律とが互いを追走し合って展開するわけで(フーガという言葉は「遁走」に語源を持つ)、その意味でも、この映画の発想の源にフーガがあるというのは頷ける。

日常と非日常とが互いを追いかけ合うこの映画を見終わって、おのがじし日常に戻っていく観客は、この映画を見る以前と比べて、自らの日常に何か異なった感触を感じ取る。日常は日常であろうとしてどこまでも眼前に伸び広がる平面ではなく、ある種の陰影を帯びて立ち上がってくる。それは、ほんの少しの怖れとともに、何かしら自らの生を鼓舞する力として、感じられては来ないだろうか。

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