『8年越しの花嫁 奇跡の実話』  -失われた時を戻して-

冒頭、雲が広がっていく空を撮影した動画を巻き戻して見せるので、雲はどんどん縮んで消えていく。けれど、映画の中ほどで、それをまた元通りの時間に戻して見せるショットが現れる。一方向にしか進まない時間の流れに沿っているだけじゃ見えないものがあって、それが時間の流れに抗うことで見えてくるとしたら、それこそが、映画の仕事なんじゃないか。そんな問いかけに、この映画は応えようとしているのだ。

ラスト近くの、時間を一気に遡る大仕掛けだけに目が行きがちだが、この映画は、実は所々に時間のずれや揺れを視覚化する視点を導入している。たとえば、分割画面。分割された画面で車内のカップル(土屋太鳳と佐藤健)を同時に映し出すシーンでは、二人の中で流れる時間がそれぞれ微妙に違うのが見えてくる。平行する複数の時間の流れを複眼的に眺める視点。その視点から、この映画は、病に侵された土屋が長い年月、昏睡状態や記憶の喪失にとらわれて、佐藤の生きる時間から取り残されていく過程を見つめている。

複数の人物に流れる時間の違いを、映画は色んなやり方で伝えてくる。いったん終わったシーンを後になって別の人物の視点で辿りなおす手法だって、時間を別の視点から捉えなおすツールだ。あるいは指輪を使って佐藤が土屋にしかけるトリックに彼女が気づくまでのタイミングの溜めなど、時間を戻したり遅らせたりしながら、複数の時間が平行して流れる様を、映画は描きこんでいく。

「難病ラブストーリー」という流行りのジャンルの映画だけれど、この映画は、病を治すことを、時間を取り戻すというベクトルで捉えなおす。たとえば、佐藤が自動車の修理工なのにも、この映画なりの意味がある。自動車を「直す」ことも病を「治す」ことも、「元に戻す」という、いわば破壊や死といった不可逆的な変化に拮抗する営みとして捉えている。壊れて動かなくなったバイクを修理しながら佐藤がバイクに語りかける口調が、意識のない病床の土屋に語り掛けるのとそっくりなのに、見ている者は気づかないわけにはいかない。

ラスト近くのあるシチュエーションで、土屋が佐藤に「もう一度って、なんか変だけど」とささやくセリフは、忘れがたい。失われた時間をもう一度取り戻すという、彼らに訪れる奇跡が、瀬々敬久監督の時間をめぐる周到で繊細な演出によって、まるで当たり前のように実現してしまうならば、それは確かに、こんな風にさりげない言葉で表現するしかないだろう、と思う。

ついでに言うと、主人公らが乗る市電、自動車、バイクという三種の乗り物も、それぞれの速度感、動き止まるタイミングの違いをていねいにすくい取っていて、主人公らをそれぞれの異なった時間に置くために機能している。乗り物をどう撮るか、という手つきからも、作り手の志の高さは浮かび上がってくるものだ。

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90年代の季刊『リュミエール』執筆以来、映画の批評を書いてます。批評の対象の映画が他の映画とどう違うのか、を明らかにしつつ、映画とは何かを明らかにする。映画批評とはその2つを同時にやることだ、というF・トリュフォーの言葉に従って、書いています。
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