『愛はさだめ、さだめは死』
私はSF原理主義者です。よって、私たちの世界で起きるような話を未来や宇宙という舞台に移し換えただけの小説を、SFとは認めません。SFは「私たち」の物語ではありません。もしそうであったならば、SFは私たちの想像力を遥かな時空に打ち上げるための発射台には、とうていなり得ません。そういった意味で、真のSFとは何か?私の一押しはジェイムズ・ティプトリー・ジュニアです。『愛はさだめ、さだめは死』は短編集ですが、各短編にSFのセンス・オブ・ワンダーが爆発しています。
たとえばエイリアン。SF映画に登場するような「分かりやすい」やつとは次元が違う、超絶的な存在です。孵化するや否や地球上のあらゆるものを破壊し尽くすエイリアンの姿(『すべての種類のイエス』)は、プロットの上で描かれることはないので、それを想像するのは難しい。だから、何度読んでも衝撃が薄まることがない。あるいは、異星の環境に君臨する巨大なモンスターの生殖と育成に関する物語(『愛はさだめ、さだめは死』)は、この星の異様な生態系を明らかにしていくわけですが、それが想像を絶した「愛」のドラマになっているのは、これが怪物の一人称で書かれているためです。
未来世界のヴィジョンも、強烈な違和感を我々に抱かせます。完璧な人工のボディに「プラグイン」してスーパーアイドルとしての生を生きる少女の運命は、愛の感情によって悲劇に染まっていきますが(『接続された女』)、ポップで軽いノリの語り口がこの小説の残酷さを際立たせています。一人の生物学者が飛行機を乗り継いで世界を旅する過程で、あっという間に世界が滅亡していく作品(『エイン博士の最後の飛行』)は、たった12ページで描かれています。その語りの簡潔さと疾走感が、事態の空間的スケールと進行のスピードとのギャップの激しさを増幅していきます。
以上、見て来たことからお分かりになると思いますが、1975年に発表されたこの短編集が今でも読者を捉えて離さないのは、その圧倒的な想像力に加えて、言葉を操る技術の驚異的な高さによるものです。SFの醍醐味とともに読書の醍醐味をふんだんに味わえるこの一冊を、ぜひ皆さんも読んでみてください。
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