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作文の入り口

先週の土曜日、ほんの入り口さんで開催された「作文の入り口スペシャル」に参加した。初参加なのに、いきなり3時間のスペシャルで大丈夫かという一抹の不安もあったものの、はじまってみればあっという間の、濃厚な時間だった。

参加にあたって、事前に宿題を出された。
お題はなく、A4用紙1枚程度という自由度の高さがかえって難しかったが、
しばらく考えていると最近心に留まった出来事が表面にぷかぷかと浮かんできた。
日頃から訓練している人間では無いので、自分の中にないものは書けない。
noteで書いているような、ショートエッセイ風のものを持っていくことにした。

宿題を出されるのがおそらく語学学校のとき以来で、それだけでもワクワクした。学生時代は宿題が憂鬱で仕方がなかったのに、大人になってから自分で選びとった宿題は楽しいイベントでしかない。

ワークショップはお題を元に即興で書くものやリレー作文など満載だったけれど、各自が事前に用意した作文を読む時間が最も印象に残っている。
テーブルに輪になって座り、書いてきたものを読み上げて、聞いてもらう。
たったそれだけなのに、不思議な連帯感と、浄化の作用があった。

詩の方もいたし、学術論文のような超大作の方もいた。
お題がフリーだっただけにそれぞれが最も関心のあるテーマが持ち寄られたが、年代も環境も全く異なる方が読み上げるそれぞれの日常には、それぞれの世界が切り取られていた。なのに、私の日常とも交差する部分や、この先交差しそうな部分が多々あり、どれも他人事とは思えなかった。

私の作文も、あくまで個人の出来事に留まる小さな世界を書いているつもりで、まさか他の誰かから「共感」が得られるとは思わなかったけれど、読み終えたとき「すごく、わかります」「共感しながら聞いてました」と言ってもらえて驚いた。と同時に、受け止めてもらえた嬉しさがあった。
文章は、その人が出るしその人そのもの。
そう考えると、作文の内容だけでなく、自分をまるごと承認してもらったような効果があったのかもしれない。

以下、そのときの作文です。

人生の半分をハワイ、もう半分を日本で過ごした人が、ある日ホームシックで落ち込んでいた。
「もう一人の自分に会いに行きたくなりませんか?」とまっすぐ私の目を見て言った。

私の異国暮らしは、彼女ほど長くない。
それでも、言っている意味は十分にわかった。

彼の国で、母国語とまったく異なる体系の言語を学び、発声方法やジェスチャーまでも異なる現地の人々を真似、その国に馴染もうとするうちに、脳ごと、身体ごと作り変えられてしまうような経験。

彼らと同じものを食べ、同じことに怒り、同じことに笑い、溶け合ったと感じる瞬間に失う、これまでに蓄積された「自分」というものの輪郭。

それは心地よく、恐ろしいものだ。

日本に戻り、慣れ親しんだ自分の言語で話し、お馴染みのごはんを食べ、コンビニで目的のものをすぐに買える暮らしは、ぬるま湯以外のなにものでもない。
便利で、快適で、これ以上何も望めないほど充足した日々。

なのに少し寂しいのは、きっともう一人の自分があちらに帰りたがっている。
あるいは、もう一人の自分は全然別の人生を歩んでおり、今の私に会いたがっている。

彼の地で、あったかもしれないキャリアを歩み
出会ったかもしれない友人を引き連れて
あのカフェのテラス席でサングラスをかけて笑っているのかもしれない。

作文の入り口で発表したメモ

読んでくれてありがとうございました。
このような場をつくってくれたほんの入り口さん、穏やかに傾聴してくれた参加者の皆さまに感謝です。

ここからつながっていくご縁の予感にも溢れた素敵な会でした。
2024年はもっと書く&描く(サムネは自作のイラストですw)頻度をあげていきたいなあ。

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