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叡逢2年に思うこと

 デジタル界隈で仕事をしていると、「今年はなんちゃら元年!」なんて掛け声をしょっちゅう耳にする。VRやメタバースに見られるように、「いったい元年は何年間続くんだ!」とツッコミを入れたくなるものが多いのだが、ことAIについては違うようだ。2023年、「生成AI」という言葉が流行語大賞でトップ10に入った。ここを元年だとすれば、現在はまだ2年を折り返したところ。それにも関わらず、流行語となった時点からもうずっと先へと進んでいるのだ。
 先日、ChatGPTの有料サービスの利用を始めた。今回は、その体験を踏まえて書いてみたいと思う。ただ、これだけ広まっているものについてあらためて体験記なんて書いても仕方がない。ここはエッセイっぽく、「ぼくとAI」とでも題すべき小文を綴ってみることにしよう。


 ぼくが人工知能に深く関心を持つようになったのはもう30数年も前の話だ。
 きっかけは、とある工学者の放言だった。雑誌のインタビュー記事で、当時存在していたICOTという研究機関の所長が、こんなことを言っていたのだ。
  「第5世代コンピュータができれば、
   裁判なんて人間なしで判決が出せますよ」
 現役の法学生で、法曹という希望もまだ放棄しきっていなかったぼくにとって、これは挑発としかいいようのないものだった。とはいえ、人工知能がどのようなものかを仕組みとして理解できなければ、この主張に対しても、反論することができない。元々持っていたコンピュータへの興味も伏線となり、AIに対するクリティカルな関心がこれによって一気に高まったのだ。
 勉強を進めていくうちに反発は収まってきたが、変わって浮かび上がってきたのが違和感だった。というのも、専門家たちの言文に、どうにもすっきりしないところが感じられたのだ。
 説明というのは、ある言葉をより平易な言葉の組み合わせで言い換えることだ。複数の、既に知っている平易な言葉が、理解できるロジックとともに提供されたとき、人はその概念を理解することができる。ところが、ときにただの「取り替え」で済まされてしまうことがある。
  「人工知能ってなんですか?」
  「コンピュータに人間の脳の代用をさせることです」
 専門家と称する人たちの一般人向けの説明は、これと程度の差でしかないように思えたのだ。
 仕組みというところまでおりていくと、コンピュータというのは、言ってしまえばそろばんだ。珠そのものに加え、それを弾く法則性まで含めて電子的手段で実現した装置だ。計算はすごく速く、計算に置き換えることのできる処理もすごく速くすることができる。そして情報はデジタル化することで数値に置き換えられるため、およそ情報として扱われるものは、全てコンピュータで扱えるということになる。
 ただ、奇しくもそろばんが明らかにしているように、もともと計算というのは、知能の営みを必要とする処理ではない。ルールに従って機械的に行う処理なのだ。実際のそろばんも、いちいち脳で思考することなく、目で見たり耳で聞いたりした数字を機械的に指の運動に置き換えることで、計算を素早く行うというもの。子供の頃はこれでも珠算塾に通っていたので、脳で認識するよりも早く指が珠を弾いていくのに、自分自身で当惑した経験もある。
  「コンピュータはすごく計算が早いから、
   難しい問題もたちどころに解いてしまう。
   だから人間にしかできなかった仕事でも、
   あっという間に終えられるんだよ」
 こんな言明など、実は問題が先送りになっただけで、結局説明すべきことは説明できていない。そもそも知能というのが何なのかの言及すらないまま「コンピュータだからできる」といわれても、当惑するしかないわけだ。
 今になれば、その違和感の原因もわかる。実のところ、彼らもわかっていなかったからだ。


 人工知能の歴史は、工学者たちの傲慢で浅はかな思い込みから始まっている。
  「人間の脳の仕組みは知らないけど、
   どうせ大したことしてないはずだから、
   すぐにコンピュータで追いつけるさ!」
 コンピュータがようやくトランジスタで動くようになったばかりの時代だが、この予想は、次のような言明も伴っていた。
  「向こう数年以内に、コンピュータは
   人間のチェスチャンピオンを打ち負かす!」
 こんな宣言とともに人工知能は大きな予算を獲得、意気揚々と研究が始まる。ところがその後の歴史はというと、プロダクトにありがちな「永遠の70%」の実現にほかならない。「大きな進展があり、完成の目処はついている」と言いながら目標年次を更新し続けることの繰り返し。研究を通じて明らかになったのは、むしろ人間の知能の複雑さの方だったと言える。あるいは、彼らは記憶と計算が素早くできるという事実を前に、コンピュータに対して勘違いをしてしまったのかもしれない。ちょうど、単純なコードで構成されたプログラムに過ぎない「イライザ」に、素人が人格を見出してしまったのと同じように。
 そもそも、ぼくをこの場に引きずり出したきっかけである第5世代コンピュータというものも、わかってみればかなり怪しげな代物だった。これは、人工知能を実現するための新機軸のコンピュータを意味している。つまり、ソフトウェア的に未知である問題を、ハードウェア的に解決しようと言っているわけで、冷静に考えれば与太話そのものだった。ICOT所長の予言が、同時代に囁かれた“恐怖の大王”といい勝負で終わってしまったのも、当然と言えば当然だろう。
 そして、黎明期の工学者たちの誓約は、90年代の終りにIBMの「ディープブルー」によってようやく達成された。しかし、それは人間の脳の真似を諦めることがもたらしたブレイクスルーだ。
 チェスという、ゼロサム完全情報ゲームにおいては、盤面の未来の選択肢は有限だ。ただ、「n手先」のnの上昇に伴って指数関数的に増大していくため、必要な計算量が膨れ上がってしまうという問題がある。人間の名人であれば、凄い速度で最善手を発見する。そしてこれを理詰めではなく直感的に行えるのが達人で、計算不能なはずの膨大な可能性の中から、かなり優れた手を瞬間的に選び出してしまう。この脳の仕組み自体が解明できていない以上、コンピュータで再現することなどできない。そこで膨大な計算能力を使って、いわば力づくで最善手を検索するというのが、ディープブルーのとった方法だったのだ。
 ディープブルーでは、人間があらかじめ設定した評価関数に従って、計算された未来の手の中から、最善手を探っていた。なので、基本的に人の能力の延長線上にある。その後に開発されたAIでは、自己学習によって最善手を見つけ出す。人を超えることができるわけで、凄いことではあるが、まあ、人間の知能がやっていることを再現している訳ではない。その意味で、現代AIはとてもプラグマティックだ。
  「別に再現なんかしなくたって、
   役に立つんだからそれでいいよね」

 工学者は、傲慢さを捨て、代わりに実用性を手にということか。


 さて、「AIと私」の続きを。
 法学部を卒業後、あれこれとキャリアを重ねながら生きてきた。基本的にはソフト屋ではあったものの、専門はゲームの企画なので、本式のAIなんてのはまあ他人事だ。
 ところが、行政書士を本業化した今、相次いで自分事として舞い込んできたのだ。
 1つ目は、「契約書のリーガルチェックをAIでする」というサービス。業者さんからの売り込みだ。その頃の当事務所のWebでは、対応業務として「契約書のリーガルチェック」を大きく掲げていたから、検索エンジンで見つけてくれたのかも知れない。ただこちらがお客様からお金をもらってやろうとしていることをAIでやってしまうという話で、正直なところ、困惑するしかなかった。
  「それって、むしろぼくの仕事と競合しますよね。
   そんなの普及したら、困るんですけど」
  「いえいえ、先生方の代わりをさせるということではなく、
   むしろ積極的に使っていただくために開発したものなのですよ」

 なるほど、AIにチェックさせておいて、しっかり報酬を受け取れるぜというわけか。うん、いかにも黒い弁護士がやってそうな、ずうずうしいビジネススタイルだな…ななんて思ったが、必要な費用を聞いたところ、実際に中堅以上の法律事務所ででもない限り払えそうにない水準で、丁重にお断りした。
 そしてもう一つは、「ブログを書く」というサービス。
  1.あんたのWebは、積極的なSEO対策でうんと伸ばすことができる。
  2.それには、毎日のブログ更新が不可欠だ。
  3.当社のAIシステムを使えば、
    あんたに特化した内容のブログを自動的に生成できる
 この、毎日更新すべきブログの分量というのが「一日8千字」との話で正直のけぞったが、実際にはブログ自動生成というもの自体が、驚きをもって迎えるべきソリューションと言えた。
 ともあれ、こうなると、例のトロツキーの名言が、形を変えて浮かび上がってきてしまうのだ。
  「たとえあなたがAIに興味がなかったとしても、
   AIはあなたに興味を持っている」


 誰かがこんなことを行っていた。
  「生成AIは、もう使うか使わないかなんて
   議論する段階じゃない。
   どう使うかという問題なんだ」
 実際に使ってみての感想は、まさにこれだ。全面的に同意、としか言えない。
 ChatGPTを使って驚いたのは、「すっごーい、まるで人間みたい!」ということではない。「ものすごく便利な検索エンジン」だった、その事実だ。
 今ではすっかりノイズばかりになってしまったGoogleだが、かつてはそうではなかった。僅かなキーワードからみるべきページを案内してくれる、頼もしいパートナーだったのだ。そういう、Googleが失ってしまったものが、ChatGPTにはある。
 そればかりではない。
 例えば、こんなことがある。ぼくは「ビジネス論」という科目で、会社財務の見方をレクチャーしている。そこでは、ゲーム会社を中心にした各社の重要経営指標―PERとかPBRとかROEやROAとか―を扱う。これをハンドリングするのは、なかなか骨だ。情報自体は各社が公開している決算短信などに載っているものの、たいていはPDFで、実際の数値をそこからピックアップするのに苦労するのだ。そして、PBRやPERは株式の時価によって変わるものなため、資料には書いていない。その日の株価を見て、自分で計算するしかないわけだ。毎年、頭が痛くなる課題だった。
 ところが、ChatGPTでは、ただこれだけを行えばいいのだ。
  「日本一ソフトウェアの、PER、PBR、ROE、ROA」
 たったこれだけのプロンプトで、数秒後には求めていた数字が出てくる。会社名部分を変えれば、次々と切り替えられ、会社間の比較も容易だ。さらには、本来は面倒な計算を必要としていたこんなことすら可能だ。
  「東証上場のゲーム会社の、
   PER、PBR、ROE、ROAそれぞれの平均値」
 また、Webに実装したい機能について調べれば、HTML/CSS/Javascriptのサンプルを出力してくれるし、Excelの計算式も同様だ。各種プログラミング言語にも対応しているため、プログラマにとってヘルプを超えたヘルプと言えるだろう。
 また、その開発者の姿勢ということで、特に一言記しておきたいことがある。
 実は、ぼくは上記のような形でしか、プロンプトを叩かない。「…の平均値を出して」みたいな擬人的な問いかけを、断固として拒否しているのだ。
 これは、哲学的な信念だ。コンピュータを擬人化するインターフェイスが昔から大嫌いだった。多くのデザイナーが「そうすると親しみを持てるから」なんて理由で導入してきたが、ぼくはコンピュータはコンピュータのままでじゅうぶん親しみを感じる。味も素っ気もないところが、“彼”の良さなのだ。それを無理に人間風に見せかけるというのは、いわば犬にドレスを着せるようなもので、固有の良さに目を向けようとしない―あるいは自分の感じている“良さ”に気づいていない行動に他ならない。そのようなわけだから、SiriもAlexaもいっさい使っていない。
 で、特記しておきたいことというのは、他でもない。ChatGPTは、こういうこだわりにも対応してくれるということだ。味も素っ気もないプロンプトに対しても、しっかりと対応するのだ。もし“彼”に「自分を普及させてやる!」という意思があるのなら、かなりしたたかなものだと言えるだろう。


 さて、以上の文章。実はChatGPTで作った…なんて言っても、誰も信じてくれないだろうね。実際、嘘だ。自分の天然知能で作っている。
 でも、本当に怖いのは、それが可能になってしまったときだろう。ぼくの文章の癖を抽出して、表現上の揺らぎや用語的な癖、さらに誤変換も散りばめる…なんてことになったら、それは本物の脅威と言えるだろう。というか、AIブログ生成の業者さんのシステムがセールストーク通りに動いたとしたら、まさにそういうものになっているということなんだけど。
 というわけで、タイトルの叡逢という似非元号。これが「叡哀」にならないことを願いつつ、この文章をとじることにしよう。



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