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今日も京都て歩いて行こうと ~方広寺〜

京都在住です。
よく散歩に行きます。

気が向いたとき、
私が訪問した場所を
紹介します。

今回は、豊国神社と、方広寺に
行ってきました。

豊国神社は、豊臣秀吉を祀った
神社で、その隣にあるのが方広寺。

方広寺には、それこそ、
豊臣家滅亡につながる大阪の陣の
きっかけになった、といわれる
大きな鐘が、現存しています。

場所は、京都市の地図でいうと、
右下らへん。

有名な三十三間堂の北側。
七条通りを挟んで、
国立博物館があり、
さらにその北側にあります。

まずは、豊国神社外観。
天気がとてもよかったです。

手洗い場が、コロナの影響で、
水が流れるだけになってます。
ほかの寺社仏閣も、同じですね。

豊臣家の家紋がカッコいいのも
あります。

ひょうたんからコマならぬ、
ひょうたんから水。

なかなかユーモアの効いた演出です。

豊臣秀吉さんは、ひょうたんを
トレードマークにしてたようですし。

豊国神社は、有料の宝物殿がメインの
神社です。例のごとく、有料エリアに
入らない私としては、まぁ、立派な
門だなぁ、というくらいです。

この門も、伏見城からの移築
だそうです。伏見城といっても、
現在の伏見城ではなく、元の
伏見城のこと。

この、元の伏見城から移築された
といわれる門や建造物は、京都の
いろんな寺社仏閣に点在しています。

それだけ、豪華でたくさんの建造物が
あったんでしょうね。

いつもの大好きなかんばんです。

看板によると、左右の灯篭は、秀吉さん
恩顧の大名からの寄贈だそうです。

灯籠が並んでいると、なんだか、
秀吉さんの周りを固めていた、
有名武将に見えてきます。

どれを誰が寄贈したのかは、
わかりませんが。。。

加藤清正、福島正則はありそう。

あとは、誰やろう?
石田三成もかな?

私の好きな、古田織部さんは
違うかな、、、

豊国神社から、左に行くと。

方角的には、北に向かうと。

方広寺に繋がっていて、かの有名な
でかい鐘があります。

実際見ると、めちゃくちゃデカい!!
どうやろ、、軽自動車くらいの大きさ。

ここは、木の看板でなく、紙で
説明してくれてます。

この鐘に刻まれた文字から、
大阪の陣が勃発したんですね。

明治時代まで、置きっぱなしでも
残されていたってのもスゴイ。
歴史の教科書でもでてくる、
因縁の鐘が、目の前にある・・!!

百聞は、一見にしかず、
とは言いますが。

やっぱり、こういった、
いわれのある遺物、遺跡、
建造物には、何とも
いわれない存在感、
圧倒感を感じます。

この刻まれた文字に関して、
家康さんのいいがかりだとか、
ナントカありますが、
実際、明治時代まで(!!)、
徳川家から呪いの鐘とされ、
置きっぱなしにされた。

そのことから考えると、あながち
いいがかりだけでは済まない。

現物はものすごく大きく、
存在感があり、そう簡単には
潰すとか溶かすとかできなさそう。

それだけ、豊臣家の当時の、
圧倒的な力、財力、あと呪力?
徳川家が江戸時代を通して
そのままにせざるをえなかった。

そんな、どちら側からの、いろんな
怨念?じゃないけど、ものすごい
思いのようなものを感じる鐘でした。

さらに、この、天井の絵がきれい。

さっきの説明文から、この天井絵も、
伏見城の遺構の移築とのこと。

明治になって、どういう経緯で、
再建され、しかも、当時の伏見城の
遺構の天井画まで、この鐘の天井に
移築されるとか。

実際、何がどうなって、どういう経緯
で、これがここにあるんだろう。
この天井絵だって、明治時代にまで、
どこかで保管なり設置なり、
されてたはず。

それを、この鐘の再建にあたって、
ここの天井に設置するとか。

もう、今、もし同じプロジェクトとか、
実施するなら、ものすごいたくさんの
調整も費用も労力も、必要なはず。

そんな、いろんなドラマ、歴史があって、
今まさに、現物がここ、目の前にある。

すごいと思います。

しかも、こんな、誰でも見れる場所に。
屋外に普通に置いてあるとは。

私は、戦国時代も好きです。
戦国武将も、その時代のエピソードも。

当時の伏見城は、徳川家康が上杉征伐に
出かけたスキを狙って、石田三成が
挙兵し、最初に狙った城だったと、
おぼろげながら記憶してます。
(違ったらごめんなさい)

たいてい、戦国時代の城って、すぐに
焼失したりするんですが、この伏見城の
遺構は、門とか天井とか櫓とか、なんか
いろんなところに残ってる。

たぶん、石田三成も、当時、攻めるけど、
もともとは自分の主君である秀吉さんの
城だから、無下に焼いたり壊したり、
できなかったんでしょう。

だから、今でも重要文化財級の、
遺物がたくさん残ってるのかも。

伏見城の血天井も有名ですが、
普通は、(普通ってダメですよ)
そういう状態(落城時の凄惨さ)
になるから、火をつけて
燃やしたんでしょう。

だけど、燃やさなかったから、
いまでも残っている。

そんな、いろんな歴史、いろんな人物に
想いを馳せるのも、また、ワクワクします。

さて、、、鐘に戻ると。

右側、ここが文字みたいだけど。
よくわからない。

実は、ここの写真撮った時。
なんだ、文字、わからんやん!!
って思ったんです。

ですが。

この、左側の、白い四角で囲まれた
のが文字だそうで、かの有名な、
『国家安康』『君臣豊楽』
の文字だそうです。

この画像を取った時は、実は
気が付かなかった。
天井を撮ってただけ。

でも、こうして、あとから見て、
後から調べたら、写ってたんです!!

偶然とはいえ、なんか、コワい。。

まぁ、自分の目の前に、かの有名な、
歴史的な現物が存在してるとなると、
それだけでワクワクします。

あと、鐘の下に、なんかの遺物が。

何コレ。。なんか、重要遺物っぽい。
というか、絶対なんかのアレでしょ。

と、思ってたら、木の説明文。
これによると、まさに!!
大仏様の遺物だそうです!!

もともと、秀吉さんが大仏作ったけど、
地震やなんかでダメになって、
秀頼さんも再建したけど、
やっぱりなんだかんだで無くなった。

作るのも大変だけど、維持するのは
もっと大変なんだなぁ、と、
歴史を学ぶと思います。

なので、なんだって、ずっと維持
してたり、続けてたりするってのは、
それだけでスゴイことなんだと、
そう思います。

ところで、なんで、こんな見にくい
看板なんやろ?と思ったら。

拝観料払ったら、中に入れたみたい
ですね。後から知りました。

反対から見てみます。
やっぱりデカイ。

ものっすごい、デカい鐘。

方広寺はこんな感じ。
割と、こじんまりとした感じ。
天気が良かったので、
いい写真が撮れました。
(自画自賛)

豊国神社の前は、なんか異常に
広い。だけど、この辺だけ。
当時は、この広さで、ドーン!!
と、大通りが通ってたのかも。

でも、今は、この周辺だけ。
ですが、京都の他のエリアから
しても、この周辺の道路の配置は、
異常に広い。

太閤さんの威光が、未だに
感じられます。
まぁ、さすがにこのへん、
だけですが。

ちなみに、この、豊国神社から出て、
まっすぐ行って左側。

『耳塚』があります。私としては、
ここにも寄って、手を合わせることを、
個人的にはおすすめします。
(超センシティブ)

あとおまけ。

気になったのが、この豊国神社の
石垣。やたら、デカい石が多い!!

一つの石が、めちゃめちゃ大きい!!
おそらく、戦国時代に、人力か?
なんかで、全国から運ばれた??

私も全く詳しくないですが、石って、
いざその辺に無い?って言ったら無い。
まして、石垣になるくらい大きい石、
そうそう無い。

それにも増して、ここの石垣の石は
異常にデカい。こんなデカい石垣の石、
見たことない。

おそらく、豊臣恩顧の大名が、
こぞって、全国から巨石を運んだ!?
んじゃないかな、と。

そういう、妄想に、
思い切り想いを馳せる。

そんなひとときも、スキです。




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