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「〜すべき」の考えをやめたら

昨年(2021年)の活動を振り返ってみると、「絵を1枚も制作しなかった」の一言に尽きます。

今までは、「絵も描かずに “絵描き” などと言っていいのか?」とか「とにかく作品を制作しないと…」みたいなハッキリしない焦りみたいなものによって、「描かないとまずい」空気感を自分で作っていたので、それほど気持ちが乗らない時でも、誰からの依頼がなくとも、絵を描くという作業をしていたんですね。

それが自分の仕事だと思っていたし、仕事をしないと後ろめたい気がするというか、別に誰も責めないのに自分で自分に重荷を背負わせる感じの生活をしていたんです、結構な期間。
それが、ある時「なんか違う」とふと気付いてから、そういった「〜であるべき、〜すべき」みたいな考え方をやめたわけですよ。

「しばり」というのは無意識に生まれてしまうことが多々あり、それによっていつの間にか自分で自分の首を絞める、なんてことになるので気をつけないといけません。
自分にだけじゃなく、「べき」の思考が他人に対して働くようになると、他人のことで腹を立てたり批判的になったりと、気持ちのゆとりがなくなって人を責めるようになります。
相手に対して思いどおりにならないという感情はエゴですから、自分の考えを変えればいいだけなんですけど、これがなかなか出来ないっていう人が多いんじゃないかと思います。
「べき」の思考で他人を責めて心を乱し「人に〜すべきと思うのをやめるべき」っていう更なる「べき」から抜けられなくなる、みたいな。

「こういう時にはこうすべき」とか「プラス思考であるべき」とか、べき思考がクセ付いてしまうと常にそれが先行して、自分の気持ちを後回しにしちゃうんですね。
「やりたくないけど、こうすべきだよね」
「落ち込んだりせず、プラス思考になるべきだよね」
こういう、感情と思考のギャップは、心に大きな不具合を起こすわけです。

例えば、気持ちがついていかないのに行動を起こそうとする場合、「仕方がない」とかの出来ない言い訳を見つけようとする時点で、それは「やりたくないこと」なんです。
気が向かない誘いがあった時「都合が悪いので」とか、言い訳を考えたりしません?
気持ちが先にくれば、忙しくても時間作って行きますよね。
「行きたくないけど、顔出しすべき」っていう思考が働くと、感情と思考の整合性が取れなくなって心のバランスを崩し、モヤモヤが出来ちゃうわけですよ。

「気持ちがついていかないのに行動を起こす」というのは、実はものすごく至難の業で、大きなストレスにしかなりません。

この思考がクセになると、どうなると思います?

ワタシの話をすると、「外で稼いで来てくれるボスに申し訳ないから、稼ぎの少ないワタシの方が家のことをやらないと」という考えが根底にあって、「せめて弁当は作るべき」とか「家事はやるべき」っていう思考が当たり前になっていたんですね。
だから、弁当を作りたくない時でも頑張って作るわけですけど、ウチのボスは「無理して作らなくていいんじゃね?」とか言うわけです。
もしもボスも同じべき思考を持っている人だったら、「弁当ぐらい作ってくれよ」となって、ワタシは「そうだよな。そうすべきだよな」と思い込んで自分を追いつめ、今頃ストレスで心を病んでいたと思うんですが、幸いにもボスにはべき思考がなかったので、ワタシは「気が向かない時はやらなくていいんだ」と思えるようになり、今では堂々と「今日は弁当作らないから、何か買って食べて」と言っています。

『主婦がお惣菜を買って食卓に出したら家族に「手抜き」と言われた』なんてよく聞きますけど、これも「料理は作るべき」というべき思考によるものですからね。
これに苦しめられている人、苦しめている側の人、多いんじゃないでしょうか。

話は戻りますが、こういった「べき思考」がなくなると、作品を創っていようがいまいが、気にならなくなるわけですね。
ただボ〜ッと過ごして1年終わっちゃった、っていうのだと「アラフィフのババアのクセに、1年何してたんだ?残された時間考えて行動しろや」となるわけですが、昨年のワタシは絵の制作以外で充実していたのでとても満足な1年で、長い期間絵を描いていなくても「ワタシは絵描きです」と堂々と言えるっていう、ある意味成長した自分を確認出来たというのが、普通にうれしく思っています。

こんな、メンタルをチューニングするような「気学のお話」も仕事にしている絵描きです。

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