「なんとなく」を信じる。

結婚が決まった。
どうやら年内、二十代最後の年に私は既婚者になるらしい。それと同時に小学校高学年女児の母にもなる。人生とはなんとも面白可笑しく出来ているもので、諦めたその時にこそ不思議なタイミングで愉快な出会いを果たし、あり得ない程のスピードで未来が拓けていく。抱える問題や乗り越える試練は山のようにある、「普通」の結婚生活を送ることは恐らく叶わない。けれど、なんとなくこれが正解な気がする。「なんとなく」で動いた結果、それが本当に正しい選択であったことを私は知っている。試行回数はそんなに多くはないし、どちらかと言えば失敗に終わることの方が多いのだが、失敗を重ねたからこそ、培われたものもあると信じたい。信じるしかない。

結婚が決まったと言えど、籍を入れる日すらまだ決めあぐねているのが現状。戸籍謄本を取ったり、住民票を移したり、婚姻届を書く前にやることはそれなりにあるが、証人は前もって決めておき、相手の都合に合わせて書いてもらおうとぼんやりとではあるが考えていた。

私には幼馴染が一人居た。
「居た」と言うのはこれから先、連絡を取る事も邂逅する事も無いと悟ったからだ。幼馴染は数年前に結婚して現在は一児の母である。彼女は周囲からの反対を押し切って強引に結婚した。彼女は現在のご主人と交際している段階で、少しずつ性格が変わっていった。もちろん私も反対した一人ではあったが、姉妹同然に育って来た相手だ。私は証人には彼女になって欲しいと思っていた。

反対した人間が自分の結婚を祝って欲しいだとか、なんとも都合のいい話だとは思う。けれども私はどうしても彼女が証人の婚姻届を提出したかった。しかし親を通して出された答えは「子どもの世話が忙しいし、自分達は親に書いてもらったし、なにより責任が取れないからできない。」との事だった。婚姻届の証人は成人している事が条件なだけで、誰でもなる事ができるし、法的責任は発生しない。

私の母は「自分達は書いてくれる人が親しかいなかったから、祝福されてるのが嫌なんでしょ」と普段の私ならば諌める事を平然と言ってのけたが、今回だけはそれもそうか、と母の言葉を素直に受け止めた。子どもを言い訳に使った拒絶はとても悲しいものだったが、私の知っている「他人の幸せを素直に喜べる優しい幼馴染」は何処か遠くへ行ってしまったと思うしかなかった。今はただ、お互いの一番に守るべきものを抱えて進むしか無い。世の中「なんとなく」で物事が上手く運ぶこともあれば「しょうがない」で溜飲を下げてひたすら生きていくしかないこともある。

「なんとなく」と「しょうがない」を積み上げた生活の先で、あの頃の彼女と再会出来たら良い。「なんとなく」いつかは会える気がするから。

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