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会話スタイルと礼法の共通点

ようやく公然と人と会うことが解禁されたような昨今。集まりが増えてきたので、新しい交流、古い交流の中で、改めて「人」にフォーカスして思考している自分がいる。

例えば、エピソードトークが披露されている雑談シーンにおいて、私にとって「面白い」「興味もちながら聞ける」会話をする人という人は
その事象を自分の中に一度取り込み、咀嚼して、自分のフィルターを通して思考し、何をうけとったのか?何が疑問なのか?何が自分にとって興味があったのか?などを話してくれる人だ。
一方、つまらないなという話しをする人は、
その事象そのものが、「聞きかじり」だ。
TVで○○さんがこう言っていた。役者の○○さんってこういう人だったらしい。昔の漫画でこういうシーンがあった。
など、自分で咀嚼することなく、右から左へただ流しているだけの話しをする人。

どちらが良い、というわけではない。ただ大きく分けるとこの2パターンに、人の会話(雑談)は分かれるように思う。

なぜこのような違いが生まれるのだろうか?

これは私の仮説にすぎないが。
一つには・・・
幼少期~子ども時代の、家庭での会話ではないだろうか?
親が前者のように、日常の出来事を自分のフィルターを通して話しているか、後者のように垂れ流しているか?の影響は大きいと思う。
ただし、前者であっても、ただ「自分の意見が正しい、正義だ」と色眼鏡のフィルターを通すのではなく、幅広い知識教養があってそれと照合するというフィルターを通すことが重要であろう。

もう一つには・・・
育った環境問わず、本人が「課題発想が出来るか否か」に関係する。
物事に出合ったとき、鵜呑みにするのではなくある視点から見てみる、疑問がないかさぐってみる、何が問題なのか、何が良いのか、など自分自身の中に「?」をおいて捉えてみる、という訓練がされているか(もしくは、そもそもそれが出来ているか)によるところも大きいのではないだろうか?

これらのことは、学校時代/受験勉強 において、”学校のお勉強がよくできる”というのとは、まるで関係ない。
結局は、”育った環境”と”本人の地頭力”だ。

この”育った環境”と”本人の地頭力”は、違うジャンルにも当てはまる。
「徳川家当主に学ぶほんとうの礼儀作法」という本の中で云われている
”礼儀”と”作法”に値する。

”作法”とはカタチを教える。これは、家庭環境の中で幼少期~子ども期に親からのしつけで身につける型だ。よって、自力によるところではなく、親や育った環境による。
一方、”礼儀”とは、思春期以降に自分自身で身につける内面の部分だ。人を思いやる心(マナー)をTPOにあわせて使い分ける。というものだ。
(この礼儀と作法をあわせた言葉が、”礼法”である。)
つまり、”育った環境”="作法”であり、”本人の地頭力”="礼儀”にあたると考えられるだろう。

冒頭の雑談の2パターンを、大きな視点でひもとけば、
つまり前者の話術は、礼儀と作法どちらもある。ともいえるのではないだろうか?

これで、なぜ私が後者の話しをする人がつまらない、興味がない人だ。と思うかの謎がとける。
なぜなら、私は、礼儀作法がない人が大嫌いだからだ!!!(笑)